第2話 冬の底

「その服装で冬の街に行かれるのは寒すぎるかと」


 運転手さんは、そのままマイクを付け、返事は求めていないようだった。僕らは無言でタラップを降りた。心地よい温度のバスを降りたとたん、冷たい風が肌を刺す。後ろのバスはプシューと音がして、扉が閉まると同時に平行になっただろう。


バスが向かう終点は青空だった。


「冬の街だって」

 春の服を着た僕は呟く。白い息が風下へ流れ消えていく。


「凍りそうだ」


 バス停に書かれた「小寒」の文字にその人は顔をしかめた。彼女は秋の服だった。


「そうだね」

 どちらも冬に適していない。雪がないからかキンと冷たくて、どこにも優しさがなかった。

「風邪ひきそうだから、先に服買いにいっていい?」

 僕は呟くように言った。

 これじゃあ凍ってしまう。

「私、ここが冬の街ってかった。だからどこに服屋があるのか……」

 ここで降ろしといてなんだけど。その人は眉をひそめた。

「僕も同じだ。でも、そういうことはひとまず置いておこう」


 どうやら忘れているのは互いのことだけではないようだ。

 小寒は寂れているように見える。まっすぐな道にバスは見えなくなり、他に車は一、二台しか見えない。


「こっちに店があるかも」

 その人はバスが走り去っていった道を右として、左を指差す。こっちよりも車が多く走っているのが建物の間から見えていた。バスが走る道とちょうど並行に作られた道だ。


 僕らはバス停を後にして、その通りに向かって歩く。僕は背を丸めて腕を組み、寒さから身を守ろうとしていたし、その人も大きなカバンを抱えるようにして、やはり背を丸めて歩いていた。


「右、左。どっちに行こう」

 大通りについた僕らはそこで立ち止まる。左はシャッターが下りていて、右は時計屋があった。

「そうだな……右」


 彼女の勘は凄かった。時計屋の三つ隣に服屋があった。

「すごい」

「私も驚いている」


 ここに売っている服は暖かそうなものばかりだ。目に付いた上着を一つ手に持つ。

 少し多めにお金を入れてきたのが助かった。もし、そうじゃなければ今頃震えながら帰りのバスを待っていたことだろう。写真の場所を見つける前に、凍え死んでしまう。


「着ていかれますよね?」

お会計の途中の言葉は、疑問ではなく確認だった。

「はい」

 店員さんはレジスターの横にあったハサミでタグを切っていく。

「どうぞ。まだ暖かい方だといっても十分寒いですから気をつけて」

 服を受け取る。

「ありがとうございます」

 コートに腕を通して、やっと冬の街を歩けると思った。後ろのその人の会計も終わるまで待って、僕らは店を出た。


「これなら死にそうになることはないな」

 その人はダウンコートに目をやりながら言う。

僕は通りを見回した。空は曇り空で、店員さんは暖かい方だと言っていたが、それでも雪がないのが不思議だった。


「それじゃあ……どうしよう。カフェか、レストランか、どこでもいいけど座って話せるところに行こう。……あんまり高くないところで」

 少し多めに持ってきたとはいえ、贅沢していると帰れなくなる。とはいえ立ち話できるほど暖かくはない。今、震えるほどではなくても、僕は寒さに馴れていない。


 左手につけた腕時計は十一時十八分を示していて、昼食には少し早かったが、記憶を探すのだから早くてもいいと思った。

 どちらかが言い出したわけでもなく、時計屋があった方向へ歩き出す。


「今の出費は痛かったなあ。まだ大丈夫だけど、油断すると帰れなくなりそうだ」

「そうなんだよ。でも、今帰るのはもやもやするしね」

 手先から冷えるのだと思うと手袋が欲しくなる。

「今日中に解決できたら一番いいんだけどな。実は、家からそこそこ遠くて」

 レンガで舗装された道を歩く。時計屋のところの横断歩道で大通りを外れ、右方向に進んでいく。

「街と街とはちょっと離れているもんね」


 住宅街に差し掛かり引き返そうとしたところで、僕は「昔ながらの」という言葉がぴったりにあう喫茶店を見つけた。普段なら入りにくくて行かない店だが、ここ以外どこに喫茶店やレストランがあるかわからない。


「あの店見てみよう」

 立て看板のメニューはサンドイッチにナポリタンなど。これと言って安くはないが、高くもない。なんとなく、こういうところにはナポリタンがあるという、勝手な予想が当たって嬉しい。

「他と比べるのも大変だし、ここでいいか」

 どう?と聞く前に、その人は言った。


 冷え切ったコの字型のドアノブを押して、開かなかったのが恥ずかしいまま手前に引いた。ドアノブの下に「引」って書いてあるのに。ああもう、どうしてこういうのって押してから目に入るんだ。

「笑わないでよ」

「よくあるよくある」


 店に入ってすぐ、店員さんが近付いて来た。

「いらっしゃいませ。お二人ですか?」

 僕のおばあちゃんくらいだろうか。カウンターの奥のキッチンに立っているのはおそらくその旦那さんで、若い女性がメロンソーダを運んでいた。

「はい」

 僕らの声が、微妙に重なった。


「では、こちらへ」

 窓際の四人掛けソファー席だ。レースのテーブルクロスの上に、透明の、滑り止めみたいなテーブルクロスがかけてある。頭上にあるステンドグラス風の電燈を見て、僕らは向かい合って座る。

「メニュー決まったら呼んでくださいね」

 水と、透明な袋に入ったおしぼりを持ってきたさっきの人は言った。


「先に決めてしまおうか」

 僕はメニューを広げた。一冊しかないので二人で見る。その人は水を一口飲んだ。

 何にしようか……。ナポリタンでもいいんだけど、なんだか負けた気がする。いや、負けたといっても自分で「ナポリタン絶対ある」って思っていただけで、何も勝負じゃないんだけど……。もう、ナポリタンでいいか。


「僕、決まったからどうぞ」

 その人が見やすいように、メニューの向きを変える。

「速いな。ちょっと待ってくれ」


 その人が悩んでいる間、僕は考えていた。

 僕が忘れていたのはその人と、街のこと。けれど、その人の事はなんとなく知っている気がして、冬の街のことはさっぱり忘れていた。いや、忘れていたというより考えてもいなかった。ただ、「街」ということだけ。街は他にもあるのに、僕は、冬の街のことを街としか思っていなかった。

その、忘れたものより写真の場所に興味をそそられる。抜けた記憶に対する感情が全くないないということと、‪映る景色が単にきれいだからだろう。


いろいろと考えていると、その人は店員さんを呼んだ。

「はい、お待たせしました」

さっきメロンソーダを運んでいた人だ。

「ドリア単品……と?」

 若い店員さんが鉛筆でメニューをメモしていく。

「ナポリタンで」

 その人はメニューをパタンと閉じた。

「ドリアとナポリタンですね。少々お待ちください」

 店員さんがお辞儀をして去っていく。


「さて、本題だね」

 ひじを突いて、その手の甲にあごを乗せて、その人は身を乗り出した。


「そうだね。さっき考えてたんだけど、大きく二つ忘れているよね。お互いのことと、街のこと。君も同じ?」

「うん。あなたの事はうっすら知ってるような気がするし、街については考えてもいなかった」

 予想通り、僕らは同じ状態なんだ。

「何を忘れているか、そこを細かくしていくのもいいが……。はっきりしてないからな、お互い。どうしようもないか」

 その人は唸った。


「仕方ないね。記憶って戻るのかな。普通の記憶喪失じゃなさそうだし」

 普通の記憶喪失なら――といっても僕は記憶喪失のことなんて知らないけど――全く同じ記憶を失くすなんてなはずだ。

氷が溶けて、カランと音がする。


「今あるヒントと言えば、写真くらいか。いや、ヒントになっているのかわからないけど。ちょっと待って。奥にしまってしまった」

 そう言ってその人はカバンを漁る。中身は予想を裏切らずいろいろ入ってる。

 人のカバンを覗くのはどうかと思い、視線を移す。しかし、席一人分も陣取る大きなカバンだ。

「ほら。この写真の場所は、やっぱりわからないか?」

 机の上に置かれたのは、もちろんバスの中で見せてもらった写真。凍った滝が印象的だ。


「そうだね。普通忘れそうにないところだけど」

「私もそう思うから、やはりこれは無くした記憶の中のものか」

「なんだか、記憶より景色の方が気になるような写真だね」

その人は笑った。

「ここまできれいな景色を忘れたのはもったいないなあ。とにかく、この場所があるのは冬の街に違いないだろう」

 僕はうなずく。


「少なくとも、僕の街にはないよ。滝が凍るような気温じゃない」

 僕が住む街は一年中暖かい。寒暖差があるとはいえ、外の水が凍るなんてことは絶対ない。


「私のところもそうだ。涼しいが、ここほど寒くない。あなたは春の街からでしょ?」

 また僕はうなずく。

「私は秋の街。もう一つの夏の街は、滝があると聞いたことはあるけど、凍るなんてありえない」

 そうだね。やっぱりこれは冬の街だ。僕がそう言おうとしたところで料理が来た。


「――で、やっぱり冬の街にあるのは確定だと思うんだ」

 店員さんが去った後、ナポリタンをフォークでくるくるしながら話を再開させる。

「それ以上のことは今の私たちじゃわからないか」


「店員さんに聞けばいいんじゃないかな。絶対僕らよりも詳しいよ」

「あ、本当だ。さっき聞いとけばよかったな」

 二人して店員さんの方を見たからか、今彼呼ぶつもりはなかったのにお姉さんが向かってくるのを見て、僕らは慌てて食べ物を飲み込んだ。


「お呼びですか?」

 お姉さんは、腰のポケットに入っていた伝票代わりのメモを取り出す。

「あ、いや、注文じゃないんです」

 僕がそういうと、お姉さんは不思議そうな顔で「どうかしましたか?」とメモをしまいながら言った。

 その人が写真をお姉さんに見せるため、向きを変える。


「ここ、どこか知ってますか? この街にあると思うんですけど……」

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