冬
高野悠
第1話 春と秋から隣の季節へ
とても寒い日だった。耳がキーンと痛くて、持ってきたペットボトルの中がシャーベットになってるんじゃないかな、なんて考えた。感覚の鈍くなった手でペットボトルに力を入れる限り、中身はシャーベットを通り越して完全に凍っていた。僕はそれから左手を離し、首から下げていた黒いカメラを両手で持つ。指に触れているはずのボタンが遠くにあるような気がした。僕は無理やりその指を動かして、シャッターを切った。
◇
その街へ向かうバスは十分毎、一の位に五がつく時間に来るものだと思っていた。実際にバス停で確認してみると、五分と三五分、0分とあった。バス停はペンキが剥がれかけ、サビが付いている。このバスはいつも時間通りに来ず、今日は七分遅れの十時十二分に到着した。
くすんだ青いバスは僕の前に止まって、車体をこちらに傾けながらドアを開けた。プシューという気の抜けた音は僕が街に向かう音で、これを聞くたびに僕は街に向かっているんだと強く感じる。
バスの中には運転手さんと四人の乗客がいた。おしゃれな帽子をかぶったおばあさん、どこかの学校の制服を着た子ども、杖を持ったおじいさん、赤い口紅がよく似合う女性。僕を合わせた全員、黙って紺色の座席に座っている。バス停の名前を見ようとしたけれど、後ろから二列目の席からは見えなかった。
「発車します」
ドアが閉まるとバスの車体はちゃんと平行になって、揺れながらその街に向かって走り出した。
いくつかのバス停があって、乗客の数は三人になっていた。ギターケースを背負った一人が手垢のついた橙色の手すりを掴んで立っていた。
降車ボタンは光らなかったが次のバス停に誰かいるらしく、バスは低速して止まる。車体は気の抜けた音で斜めになり、バスは人を乗せる。乗ってきた人は大きな茶色のカバンを斜めがけにしていた。
「久しぶり」
乗ってきたその人は僕の前に座り、振り向いて話しかけてきた。バスの揺れはその人の髪を揺らす。
「今日はどこまで?」
記憶にない人だ。顔も声も知らないのに、この人とはいつもバスの中で話しているような気がする。
「街まで。君は?」
合言葉のようなやり取りを、以前にもこの人としたことがある。多分。
「終点の、一つ前まで」
ここで会話が終わり、その人は前を向くと思っていたから話が続いて驚いた。
「今日は面白い写真があるんだ」
予想外のことに返事に詰まって、何も答えないでその人がカバンを漁る音を聞いていた。数秒も経たないうちにその音はピタリと止まり、その人はまたこちらを見る。
「気になってたんだけど……えっと、聞いていいのかな。とても失礼だけど、誰?」
「え?」
君も?と口にする前に、言い訳のようにその人は早口で喋り出す。
「久しぶりだってちゃんと覚えているから話しかけたんだよ? おかしな話で申し訳ないけど、久しぶりに合ったはずなのにあなたが誰なのかわからなくて」
焦っているのか、その人の視線はうろうろ動く。
「よかった。僕もそうなんだ」
僕が安心したように、その人も安心したようだ。
「なんだ、よかった。それでさ、写真は昨日見つけてね」
また前を向いてカバンを漁る。名前を聞くタイミングを逃してしまった。
紙の刷れる音と、硬い音がする。大きなカバンにたくさんの荷物だ。探し当てるのは大変だろう。
「不思議な写真だったから入れてきたんだ。特にどうするつもりもなかったけど」
大きなカバンの中からようやく見つけたその写真を見せてくれた。
「ほら、これ」
冬の写真だ。
インスタントカメラで撮られたそれには凍りついた大きな滝と、誰か二人の後姿が写っている。二人とも髪が短くて、厚着をしている。ただ柵にもたれて滝を眺めている。
滝は、不思議な凍り方をしていた。真っ白に凍っているのではなく、クリスタルの集合体のように、たくさんの平らな面があり、そのほとんどが青空を反射させていた。
白と青の写真だ。後姿の二人よりも高い位置から撮られた冬の写真。青空を反射する滝の様子は見事で美しい。
「何の写真?」
僕はこの写真に写っている場所も、人物も知らない。
「なんの写真かわからないけど…… こっちにいる大きなカバンを持ったの、私」
右側の人物は、確かに大きなカバンを提げている。二人の隙間はその大きなカバン分だけ開いている。
古い写真ではなかったが、少しした汚れと折れが合った。
僕は写真をじっくり眺めてから口を開いた。
「名前、聞いていい?」
その人は、「ああ」と小さく呟いてから名前を言った。
「岡斗十希」
その人の髪は肩より少し高い位置で切られたストレートだ。
僕の名前を聞くように、彼女はこちらを見る。
「糸繰蒼」
「珍しい苗字」
「イトクリソウ」なんてよくある名前なのに。その人は変なことを言う。
「そっちだって」
僕にとって 珍しいのは「オカトトキ」という名前の方だ。僕の街では聞いたことはない。
「そう? 同姓同名の子だって知ってる」
僕の頭の中には何人かの「イトクリ」さんや「イトクリ」くんが思い浮かんだ。
「それを言うなら僕だって。……同姓同名とまではいかないけど、苗字だけとかなら」
どうやらその人の住む街の人の名前は、僕の街とずいぶん違うらしい。
その人は手持ち無沙汰になったのか、写真をぴらぴらさせる。
「その写真、さあ」
上下に揺られてはっきり見えない後姿。それでも僕は気付いた。
「何か思い当たることが?」
その人から写真を受け取る。大きなカバンを持っていないほうの人物を指差す。
「これ、僕だよね?」
「この人? ……ちょっと見せて」
その人は何度か写真と僕の髪を見比べて、やがて納得したようだ。
「本当だ」
どうやら僕の勘違いではないようだ。覚えてはいないが、どうやら僕らはここに行ったことがあるらしい。
「じゃあ、私たちが知り合いなのは、勘違いじゃなかったんだ」
運転手さんが次のバス停の名前を言った。
「これは一体どういうことなんだろうね」
誰かが降車ボタンを押した。
ピンポンとボタンの音が車内に響き、僕らの会話が丸聞こえだったことが、急に恥ずかしくなった。
「一番簡単なのは、記憶が飛んでいる可能性」
その人は、そんなことなど気にしない様子で写真をカバンにしまった。
「どうしてだろう?」
僕はさっきよりも声を潜める。
「うーん、そうだ」
「なんだい?」
次のバス停で降りるらしいおしゃれな帽子のおばあさんが、荷物をまとめつつちらりとこちらを見た。
「一緒に探しにいくのはどう?」
「写真の場所を?」
その人は頷く。
「そう。と、記憶も」
バスが低速する。
「でも、どうやって探そう」
規則正しくバス停の前で、バスはプシューと音を立てて斜めになる。ザラザラと小銭が機械に落ちる音がして、帽子のおばあさんはゆっくりバスを降りていった。
「そうだな……とりあえず、終点の一つ前で降りようか。それからどこかで座って話そう」
「僕が降りるバス停じゃないんだね」
道がでこぼこになっているのか、数秒だけよく揺れた。
その人は、罰の悪そうな顔をする。
「あ、ごめん。あなたの降りるバス停知らなかったから。終点の一つ前も同じ街だから、もしかしたら同じかと思って」
確かに、「街」としか言ってない。最初に街に止まるバス停に僕は降りるつもりだった。その人が降りるところより、四つ手前になる。
「いや、構わないんだ。こちらこそ余計なこと聞いてごめん」
その人に付いて行くのになんの心配もなかった。毎年特に理由もなく街に行っているだけだから、誰かに会いに行くとか、何かをしにいくとか、そういったことはない。
でも、その人もそうだとは限らない。
「君は、用事ないの? 僕は何も無いから一緒に行けるけど、君は?」
昨日の晩御飯を思い出しているような顔だった。
「何も。ただ、毎年来ているから、今年もこうして」
バスが大きく跳ねて、その人のカバンからはいろいろな音が聞こえる。低い音から高い音まで。
「そんなところまで一緒なんだ」
その人は、カバンの中身が出て行かないよう手で押さえて答えた。バスはまだがたがた揺れている。
「変だなあ」
その人は前を向く。これで会話は終わりのようだった。
僕は、その人の後姿に話しかけず、髪がバスに揺られて一本一本がばらばらに動くのを見ていた。
乗り物酔いはしないが眠るのは苦手で、目を閉じているだけというのはよくあった。足を動かした時のちょっとした音、ブレーキを落とすときにかかる圧力、誰かが降りる音がよく聞こえる。ちらりと目を開けると、僕らの他はギターケースを背負った人だけになっていた。次が、終点のひとつ前だ。
バスが平行になって発車するのを機に、僕はまた目を開けた。少し眩しいと感じる中、その人の髪はさっきと同じように揺れていた。
今の内に運賃を出しておかないと。僕は黒い財布を取り出して、冷えた小銭を握る。
急にその人が窓枠に付いた降車ボタンに手を伸ばしたものだから、僕は少し驚いてしまった。なんせ直前まで微動だにしていなかったから。次のバス停の名前が呼ばれる前に、その人はボタンを押した。
その音は、バスの出す音どの音よりもずっと響いて、体のあちらこちらに突き刺さりそうだった。
「次は、小寒です」
しばらくの後、ポツリと運転手さんは言った。始めてくる場所。僕はショルダーバックがきちんと体に付いているかを確かめた。左肩にショルダーテープが来て、右腰にカバンがある。その人は全く逆で、左腰にカバンがあった。
低速するバスの中、その人が立ち上がったので僕もつられて立ち上がる。その人はそのまま前に向かって歩き出したが、僕は停車するまで立ったまま動かなかった。
握り締めた左手を動かす。体温に温まった小銭同士が擦れる。
その人は運転手さんの隣、料金箱の前で待っていた。僕が前まで来ると、彼女はお金を入れる。機械音がして小銭が数えられていく。表示されたのは、僕が手に持っている金額と同じだった。僕も彼女を真似して、箱にお金を入れる。タラップを降りていこうとしたとき、帽子をかぶった運転手さんはマイクを外して話しかけてきた。
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