世界の始まり

 授業中だったのが幸いした。私は冷静さを保っていた。

 あんなクラスメイトだらけの場所で問いつめる事など出来ない。何とか放課後まで待つ事が出来た。

 ぽつん、私だけが真ん中に座っている。赤い夕日が、世界を赤と黒のモノトーンへ塗り替えていた。

 いつも数十分、他の友達とどこかでお喋りしている彼女。そして時間になると……ホラ聞こえる駆け足の音。

「絵里ちゃん! やった! やったやった!」

 跳ね飛ばす勢いで扉を開いた井上さんが、教室へ転がり込む。面食らった私が、ぱちくりと目を瞬かせた。

「見て! 見て! ほら!」

 彼女が脇に抱えてるのは漫画雑誌だ。ちょっとだけマイナーなサブカル誌。だけど面白い漫画が沢山載っているので、二人で回し読みもした。

「今月号! ここ!」

「え……なに?」

 余りの勢いに私はノートの件を問いつめる事が出来なかった。

 指さした場所には……アベルが居た。

 その横にはカインが下品に地べたに座っている。後ろではミーファが大きな口をあけて笑っている。

 なのに、その絵は私じゃない。明らかにプロによる作画だ。その上手さは私の絵なぞ、子供の落書きだと言われているようだ。

 足下からゾワゾワと何かが登ってきている。それは無数の冷たい虫だ。皮膚からもぐり込み、骨にかじり付き、脊髄を脅かす。

「なに、これ……」

 言葉が見つからない。思考が定まらない。

「漫画原作の賞! 絵里ちゃん大賞だよ! 漫画になるの! ううん、メディアミックス前提だからアニメも夢じゃないよ!」

「なにこれ!」

 持ち上げた雑誌を床に叩きつけた。臀部を叩いたような音が教室にこだました。

 握る拳がワナワナ震える。怒り過ぎて井上さんの顔を見る事も出来ない。

「……自信が無いって言うから……私、絵里ちゃんの作品はもっとスゴイって、ちゃんと分かって欲しくて……」

「勝手に送ったの!?」

「借りてた間、ノートコピーしたから……」

「勝手に!? 勝手にラクガキして! 勝手にコピーして! 勝手に送った訳!?」

 ラクガキ、という言葉に井上さんが「あっ」という顔をした。

「ごめん……初めて見た時、妙に興奮しちゃって。そんな設定無しでいいから」

「無しになんて出来ないよ! 私、そのせいでミーファ達と喧嘩しちゃったんだよ!」

 言った瞬間、我に返った。井上さんが、驚いた表情のまま固まっている。

そして笑った。眉尻を下げて、困ったような顔をして口元が笑っていた。

バレた。私が妄想にのめりこみ過ぎて、現実逃避の良い逃げ場所にしている事がばれた。

「……え? ど……どういう意味?」

「知らない!」

 井上さんを突き飛ばし教室から飛び出た。短い悲鳴と、椅子や机の倒れる音がした。

 訳も分からず階段を駆け登った。放課後の誰も無人の学校内を走り抜ける。

(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……)

 何に対してかも分からない。もう何もかもが嫌だった。

 家族が嫌だ。学校が嫌だ。友達が嫌だ。自分が嫌だ。世界が嫌だ。

 どこに行っていいかも分からず、屋上へ出た。沈みかけの夕日の、赤い光が全身を貫いた。

 肩で息をしたまま、一歩、一歩と夕日へと進みゆく。 

 呆然としたままフェンスを登り、越える。そろそろと、屋上の縁に足をつけた。

 後ろでにフェンスに捕まり、世界を見下ろす。

 赤く染まった町並みは、血を被ったようだ。

 強い風が髪を、スカートに巻き付いてくる。

 夕日が完全に沈んだ。さよらな世界。また来て明日。私が居なくとも世界は回る。

 跳びかけようとも、寸での所で私は二の足を踏んだ。

 その場にしゃがみ込み、腕に顔を埋める。

 どうして良いか分からない。ここで私が死んだら、セルフトピアはどうなるの? 皆、居なくなっちゃうの?

 それだけは絶対に避けたい。

 だけど、もうダメだ。だってあの雑誌を沢山の人が見た。セルフトピアを。私だけの理想郷を。私だけの……。

 こんな世界大嫌い。もう帰ってなんか来れなくていい。

「……皆に会いたいよ」

 そう呟いた時、背後でドアの開く音がした。井上さんが追いかけて来たのだろう。

 彼女は謝るのだろうか。そうだろうな。そして私は彼女を許さないといけないのだろうな。嫌だな。嫌だ。

「エリーヌ!」

 耳を疑った。その声は、聞き慣れた女主人のものだ。陽気で優しい猫の獣人。

「エリーヌさん!」

 その声も知っている。ザラザラと特徴的な声。ドジでちょっぴり自分勝手で、だけど憎めない弟分。

 ああ、私はつい頭がおかしくなった。現実と妄想の区別がつかなくなった。

 うずくまり、顔を伏せたまま動けない。この顔を上げた時、一体どんな光景が目に写るのだろう。

 夜の住宅街? 花と魔法のおとぎの国? それとも……。

「エリーヌ!」

 沢山の声、私を呼ぶ声がする。老若男女、それだけでは無い。竜や鬼、ユニコーンや妖精、全部全部聞いた事ある。

 今日はディアミケッソ。皆で集まり飲んで歌って、創造主を迎える日……。

ふと、疑問が浮かんだ。何故、アベル達はディアミケッソを知っていたのだろう。

当たり前過ぎて気づかなかった。ノートに書かれただけで、私は知らなかったじゃないか。

「エリーヌ!」

 一際、通る声がまっすぐ私に届いた。

「……おかえり」

 その言葉聞こえた瞬間、胸で何かが爆ぜた。あの知的な犬の紳士は、私の事を良く知っていた。

 涙が浮かぶも口元の笑みは止められない。勢い良く立ち上がり、振り返る。

「ただいまっ!」

 私は産まれて初めて飛び切りの笑顔で言った。

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