父と私と記憶のかさぶた

緑茶

父と私と記憶のかさぶた

 あたしが部活で遅くに帰宅したら、玄関から向こう、藍色がかった西陽の当たる台所に、ひとりの背中がみえた。小さくて、ちぢこまっている背中。


「……ただいま」


 あたしは返事をする。


「おーう、帰ったか!」


 その背中は呑気にそんな声をだす。帰宅だろうが出発だろうが、声の調子は変わらない。台所には白いもやが立っていて、何かを切る音が時計の針のように聞こえてくる。……あたしはそれを聞かなかった。舌打ちをして、自分の部屋に上がったからだ。


 それからしばらくして、あたしは階段を降りる。ひどくゆっくりと。食卓にはたくさんの皿。たくさんの色。外の光はすっかり闇に包まれている。そこへ降りていった。

 席につこうとすると、向こう側からその声がした。


「今日はなぁ、父さん中華にしてみたぞ。お前、好きだったっけか。いや、和食のほうが良かったか? まぁいいや、食べてみてくれ」


 顔を上げたら、そこには不健康そうな赤い顔をしたおっさんがぽつり。髭は青いし、眼鏡にはちょっと指紋がついている。あたしは顔をそらす。もう見飽きていた。


 ――あたしの、父さんだ。


 視界を下に落とすと、言葉の通りのものが並んでいる。

 スープに酢豚、それからチャーハン。鶏肉を揚げた何か。どれも出来たてで湯気を放っていて、てらてらと新鮮な光沢を放っている。

 あたしは返事もせず座って、静かに箸を取る。向こう側では、父さんが同じ動きをして着席する。静かなものだ。外で誰かが騒いでいる声しか聞こえない。うちは、テレビはつけない。

 静かにいただきますを言って、食べる。

 うまい。そんな感想がもたらされる。それは高級料理店のような劇的なものではなく、もっと腹の中に染み入るようなもの。

 言うなればそれは、慣れ親しんだ味だ。あたしは本来なら、ここで快哉を叫んで、目の前でがつがつと食べている父さんに笑顔を向けるんだろう。

 ……本来ってなんだろう? とにかくあたしはそんなこと、しない。仏頂面で食べ続ける。『なつかしい味』なんて、死んでも言いたくなかった。うまい、という三文字以上の感情は出力したくなかった。そのせいで、どんどん苛立ちが溜まっていった。

 父さんは好き勝手に喋り続ける。やれ会社のことがどうの、公園でこういう光景があった、だの。全てが流れていって、あたしの箸の邪魔をする。あたしは返事をしない。だけど父さんは機嫌よく喋っている。

 父さんは一旦箸を止めた。それから、言った。

 あたしの顔を、覗き込んでいるようだった。


「父さんな」


 そうされれば、顔を見るほかない。その人は、ひどく困ったような眉毛をして、笑顔を浮かべている。なんなのだろう、その表情は。


「レパートリー、増えたろ?」


「……そうだね」


「もともとは焼きそばくらいしか作れなかった。――あぁ、これは大学生の頃なんだけどな。それにしても最近の料理本は凄いな。本屋でびっくりした」


「本屋。行ったの」


「あぁ。帰りにな」


「最近ずっと定時だけど。大丈夫なの」


「あぁ、大丈夫だ。元気だ」


 馬鹿。そんな意味じゃない。

 遅れて彼は気付く。


「定時の代わりに、毎週休日出勤だ。部長とは二十年の付き合いだからな。特例措置ってやつだ……」


「そう」


「お前の方はどうなんだ、佐紀。部活は――」


「問題なくやれてるよ。レギュラーにも選ばれた。ずっとずっと充実してる。一度も失敗したことないから、怖いぐらい」


 まるで用意したみたいに、すらすら言えた。言っていて、なんだか無性にいらいらした。


 父さんの方を見る。

 呆けた顔をしている。口をパクパクさせて、何かを言おうとした。それからすぐ、またあの情けない笑顔になった。


「……父さん」


「あぁ。そりゃ良かった。何よりだからな。それで、」


 ……なんだかあたしは、どうしようもないくらいに腹が立っていた。理由が説明できるほど落ち着いてもいなかった。わざとご飯を噛む回数を増やして、父さんの言葉を待った。

 でも。


「それで、父さんの料理の話なんだがな――」


 もう限界だった。あたしは箸を置いて、テーブルを小突いた。叩くほどの勇気は持ち合わせていなかった。音を出した後、喉の奥が震えた。父さんの顔を見ない。それから下を向いて、一気にまくし立てる。


「いい加減にしてよ父さん。毎日毎日、あたしに媚び売るみたいに。そうやって下から見てきて、色々言ってさ。御飯食べる時ぐらい、そういうの聞きたくないんだけど。いつもいつもそうやって笑っててさ……」


 そこで止めたかった。言うことを。


「そんなんで、母さんの分の埋め合わせが出来ると思わないでよ!!」


 ――言ってから。はっとした、顔を上げた。


 一瞬目を強く開けたけど、やっぱり父さんの顔は変わらなかった。何かを恥じているような笑みを浮かべて、あたしを見てくる。

 

 父さん、あたしは、という言葉が出そうになった。だけど、引っ込んだ。父さんが喉を鳴らしたのが見えた。その静寂を、誰かに埋め合わせしてほしかった。

 向かい側の父さんは、静かに、本当に穏やかに、言った。


「あぁ――そうだな。佐紀の言うとおりだと、思うよ」


 それから十分ほどのことを、あたしは正確には覚えていない。ドロのように感じるごはんを食べきる。ごちそうさま、が言えたかどうかも定かじゃない。あたしの目の前から皿が去って、向かい側の台所から水を流す音が聞こえる。それから、またあの背中が見える。小さな背中。昔は、もっと大きかった気がする――。

 

 あたしはそれを見ると、急に頭の奥が熱くなって、目の中に何かがこみ上げてきた。その場で、テーブルの上に突っ伏す。なんか、何もかもが情けなく思えた。自分の今の感情を説明するすべなんて、なかった。


「……今のは、父さん……」


 なんだか涙が出て、止まらなかった。

 父さんは、気付いてない。水を流して、皿を洗っている。一人で。


「いまのは……怒るとこじゃん……、あたしを……」



 父さんはあたしが物心ついたときから、ずっと仕事の事だけを考えて生きてきた。朝早くに出ていって、あたしが寝入った時間にやっと帰ってくる。休みの日だって、ろくに遊んでくれなかった。とにかくずっと、仕事、仕事、仕事だった。


 あたしの母さんは優しかった。あたしのことも大好きだったけど、父さんのことだって大好きだった。しょっちゅう、父さんの若い頃の話をしてくれてた。

 でも、今の父さんに対しては、いつだって消極的だった。父さんは仕事のことで帰宅しても常にいらいらしていて、母さんが何か言葉をかけてもろくにとりあわない。


 時折、母さんの言ったことに対して怒鳴ったりもしていた。母さんは泣くことはしなかった。ただ、泣きそうな笑顔になるだけだった。とにかく父さんは、ずっとそんな調子だった。

 いつも「働くのは家のためだ」って言ってたけど、家のために何かしているのを、働く以外に見たことがない。


 ……ある時母さんは病気に倒れて、入院した。ひどく重い病気だった。父さんの稼ぎがあるから、簡単に入院はできた。でも、治療は間に合わない。


 父さんは見舞いに来なかった。ずっと働くだけ。母さんがしんどくなって、日に日に衰弱していっても、ろくに顔を出さない。

 でも母さんは、それに恨み節一つこぼさなかった。我慢してるんじゃなくて、多分本当に恨みがなかったんだと思う。それで、あたしの中に母さんのか細い笑みが焼き付いたまま、母さんは弱り果てていって――。


 それで、死んだ。結局父さんは、死に目にも合わなかった。


 あたしは父さんが母さんの亡骸と対面した時、何を言ったか、何をやったかを知らない。

 でも、そこで何かが変わったんだ。


 ……母さんが死んでから、父さんは変わった。あまりにも変わり果てた。

 仕事だけで一日を埋めてしまうことをやめた。夕方には帰ってくるようになった。それから、家事だってほとんどこなすようになった。


 そして母さんを追うようにして、料理を始めた。毎日料理本と睨み合いながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、ごはんを作った。仕事のほかは、家事と食事しかやっているのを見たことがない。父さんはのめり込んでいった。取り憑かれるように……母さんの影を追うように。


 人も、まるでかわった。怒りっぽくてイライラして、というようなことが全てなくなった。反面、ひどく弱々しくなった。常に、困ったような笑顔を浮かべるようになった。背中だって、ずっと丸くなってしまった気がする。本当に別人になった。なってしまった。


 でもあたしは、そんな父さんの変貌が気に入らなかった。

 だって、まるでそれは、母さんへの贖罪にしか見えなかったから。そんなことをしても、なんにもならないのに。そこで戻ってこない時間を埋め合わせようとしたって、母さんは戻ってこない。

 それなのに、似合わないエプロンをして、わざとらしい陽気な声を出して振る舞う。そんな様子が、嫌で嫌で仕方なかった。なぜかどうしようもなく情けなくなって、そんな時は父さんに辛く当たった。

 でも、あの人はなんにも反論してこない。ただ、いつも通りの弱々しい顔を浮かべるだけだった。


 あたしは父さんにどうしてほしいんだろう。あたしは父さんに何をすれば良いんだろう。それが分からないまま、母さんの笑顔の写真だけが、あたしの暗い部屋の中に佇んでいた。



 次の日は、部活がなかった。

 でも、そのまま帰宅して、父さんを出迎えるのは嫌だった。

 ……あんな風に当たり散らした後、どう振る舞えば良いのか分からなかった。

 色々考えた。

 そして結局、近所で時間を潰すというすこぶる不毛な行動に出たのだ。


 けれど、今までそんなことはしたことなかった。

 あたしが出向いた場所は、一度も行ったことないような、辺鄙な場所にある小さな公園だった。そろそろ夕焼けが全体を照らす頃。あたしはその中へと入っていく。

急ぐようにベンチに座る。


 ……なんとなく、公園全体を見ていると、その端に誰かが座り込んでいる。

 気になったので側に行くと、それは貧相な身なりをしたおじいさんであることが分かった。しゃがみこんで、何かを持っている。

 鎌だ。傍らには、透明な袋。中には大量の草や枝が入っている。


「……何してるんですか?」


 思わず聞いてみた。


 すると、おじいさんは顔を上げて、くしゃくしゃの笑顔を作って言った。


「あぁ。ここのね、雑草を採ってるんですよ」


「雑草……?」


 おじいさんは頷いて、またうつむく。その下には確かに雑草が生えていて、鎌で器用に刈り取っていく。なめらかな動作だったから、ずっとやり続けていることが否が応でも理解できた。


「でも、公園の草って……業者とか、ボランティアが絶対来てやるんじゃ……」


 おじいさんはそれを聞くと手を止めて、ゆっくりと頷いて言った。


「そうかもしれませんねえ。でも私はね、これを好きでやってるんですよ」


 それからまた、その作業に戻った。

 

 なぜだろう。

 あたしは、そのおじいさんに惹きつけられた。

 気付けば、また質問を浴びせていた。


「……どうしてですか? だって――大変じゃないですか」


 おじいさんは、また手を止めた。そして今度は、完全にあたしの話を聞く姿勢になった。なんだか申し訳ないな、と思いつつも、あたしの興味はもう完全におじいさんへと向いていた。


「この公園はね、」


 おじいさんが言った。


「もともと人がぜんぜん来なかったんですよ。遊具だってろくにないし。町だって、あまり動いてくれない。だから草が伸び放題。私みたいな物好きが動かない限り、きれいにならない」


 あたしは引っかかりを覚えたから、おじいさんにまた質問する。


「どうして、そんなところにわざわざ来て、草刈りなんてするんですか。あたしには、意味があるとは思えない」


「あぁ。確かに、そうかもしれませんね」


 すると、おじいさんは遠い目になった。どこか、彼方の地を見つめているようだった。あたしはそこに、何かを感じた。それがなんであるかは説明できない。

 おじいさんは続けて言った。


「私にはね、女房が居たんです。若い頃からずっと、この近くに住んでいた。でも、私はある時から仕事がとても忙しくなって……女房を、いつもこの地に残していった。女房は気が小さくて、でも優しくて……寂しがり屋でした。私はそんな性質を知っていたはずなのに。昇給や出世に対して盲目になっていた。その時は、自分の中での女房の優先度が低かったんでしょうなぁ。それで私は、女房の身体の弱さにも、気付けなかった」


 ――心臓の鼓動が高鳴った。

 どうして、このおじいさんの話に惹かれたのかが分かった。


 あたしの頭の中には、あの細くて小さい背中が浮かんでいた。それから、笑顔を浮かべる女性。


「気付いたときには、女房は寝たきりになっていましたよ。なんとも情けない話で……その時にようやく私は、自分が何を一番大切にすべきかに気付いたんですね。それからは、ずっと傍に居ました。日に日に弱っていくのを見るのは辛かったですが、それは今までの私が避けてきたことでした。……それで、ある時女房は言ったんですよ、窓の外を見て」


 おじいさんはそこで、公園の近くにぽつんと佇む古い家を指差した。視線が物語っていた。

 そこが、おじいさんの、そして夫婦の家だった。


「動き回ることは出来なくてもせめて、せめてあの場所にぐらいは、私と一緒に行きたい、ってね。それがこの公園だったんです。若い頃は、よく二人で来ていたんですよ、時間が空くたびに。月を見上げたりして、ね。でも、若い頃よりも更に子供が随分少なくなりましたから、元々良くなかった保全状態が更に悪くなって、雑草だらけで……今考えると、少し滑稽ですが」


 滑稽じゃない――滑稽なもんか。

 あたしはおじいさんの話に聞き入っていた。

 死に近づいた人間が、どれだけ優しくなれるか。どれだけ純粋になれるか。あたしは十分過ぎるぐらい知っているつもりだった。きっとおばあさんの願いは、どこまでも純真で――。


「それから間もなく、女房は死にました。私は後悔しましたよ。もっとはやくに、声を聞いてあげられていたら。でも、どれだけ懺悔しても、命は戻ってくることはありません。その代わり、出来ることを考えました。私に出来る贖罪を……」


 おじいさんは少し俯いた。何かをブツブツと、口の中で唱えた。……何を言っているかは、聞かなかった。きっとそれは、おじいさんだけが知るべきだと思ったから。


「その結果が、ここを綺麗にすることだったんですよ。それも、その瞬間だけじゃない。ずっと、ずっと。女房が見たかった景色を、綺麗にし続けると決めたんです。誰に頼まれたわけでもなく、自分で……」


 それは並大抵のことじゃないはずだ。誰も来ないような寂れた公園を、延々と一人で綺麗に保ち続ける。年波だってあるのに。――ただ、小さな小さな理由で。


 あたしの中に、またあの背中が見えてくる。

 失われた時間。戻ってこない時間。


「……これからも、そうするんですか」


「命が続く限りはね。失った時間を、同じ時間で埋め合わせることは出来ません。かといって、その何倍も時間をかけたところで、何も変わりませんが。ただ、これが精一杯の出来ることなんです」


「なんの見返りも、ないのに」


 あたしは呆然と、そう言った。

 するとおじいさんは、またあたしの方を向いて笑った。


 そこにはすべてがあった。おじいさんが積み上げてきた人生。しつくしてきた後悔。何度も何度も懺悔した夜の数。その全てが、そこにあった。どれだけ言葉を尽くしても、その瞬間には劣るとしか思えなかった。


 ――あたしはそれだけで、全てのことを理解した。それから、自分がこれから何をどうすべきかを、なんとなく考えることが出来るようになった気がした。


「……あぁ、お若い方。こんな私ですが、たったひとつぐらい、言えることがありますよ」

「言える、こと?」


 おじいさんは穏やかに言った。噛みしめるように、染み渡るように。


「人間の時間に出来た傷が塞がることは、きっとありません。どれだけの労力を割いたとしても、生まれた痛みは、決して消え去ることはありません。けれど……その痛みがあるからこそ始まったものには、絶対に何かの意味があるはずです。私はもう老人だし、この先に見返りを期待する事はできない。でも、あなたは若い。もし、あなたが何か過ちを犯したとしても、悲嘆に暮れることはありません。あなた方なら、きっと。……きっと、この公園を、未来の時間でいっぱいに出来るはずですよ」


 おじいさんは、そう言った。

 あたしの中で、これまでの時間の全部が流れ込んできた。幼い頃の記憶。お父さん、お母さん。

 ――あの、辛かった日々。無数の後悔と、痛み。その先に見えた、夕暮れの中で佇む一つの小さな、寂しげな背中。


 ……胸の中が、これまで感じたことのないような感情すべてでいっぱいになった。それから、無性に足がうずうずした。どこかへ向かいたくて仕方がないようだった。そして、その場所は一つしかなかった。


 あたしは立ち上がって、おじいさんに言った。


「……ここ、いい公園ですね」


 意外そうな顔で、こちらを見てきた。

 あたしは目に涙が浮かんでたけど、それを隠さずに、そのまま笑って言った。


「今度、父を連れてきます」


 それからあたしは頭を下げた。

 おじいさんは、笑顔だった。ずっと、あたしを見てくれていた。

 それから、背中を向けた。

 そこからはもう、前に進むだけだった。向かうだけだった。


 母さんが居て、今は、父さんが居る家へ。



 玄関を開けると、その奥に、あの背中が見えた。湯気が立って、包丁の小気味よい音がする。


「ただいま」


 あたしは靴を脱いで、廊下を進んでいく。


「おう、おかえり――」


 その、陽気な声だ。あたしに変わらぬ調子で向いてくる。

 ……あたしは、台所に着いた。

 父さんの、傍に行った。


「何、作ってるの」


 父さんは――中年の親父には似合わないかわいらしいエプロンをつけたまま、あたしの方を一瞬見た。数秒後、言った。

 まるで変わらない調子だった。


「今日はな、カレーライスだ」


 あたしは返事をする。


「へえ、いいじゃん」


 驚くほどすんなり、その言葉が言えた。


「あたし、手伝うよ」


 数十分後、食卓にメニューが並んだ。

 大皿に入ったルーと白米。それからポテトサラダだ。出来上がりで、湯気が立っている。

 あたしと父さんは、食卓に着く。

 ……静かな時間が流れて、その中でいただきますをした。

 向かい合って、食べ始める。

 食器の音と、小さな咀嚼音が交差していく。

 

 カレーを半分ぐらい食べたところで、あたしは言った。


「うん。……おいしい」


 父さんは、顔を上げてあたしを見た。ちょっとだけ、驚いたようだった。

 しかし、すぐにいつもの笑顔になって言った。


「そうか。……そりゃ、よかった」

「うん」


 それからまた、食事を再開する。

 心地いい沈黙が流れる。


「ねえ、――父さん」


 カレーは程よい辛さで、具材がゴロゴロしていて食べごたえがあった。舌に触れた瞬間、何年か前に戻ったような感覚があった。ポテトサラダも、塩気が控えめで、いつまでも食べられそうだった。どちらも、なつかしい味がした。


「……なんだ、佐紀」


 沈黙が、破られる。


「このカレー、ずっと昔に……あたし、食べたことあるよ」


「なんだ、そりゃ」


 父さんは笑った。

 ……あたしも、笑った。


「そういう意味じゃないよ。……懐かしいな、と思って」


 もう、あたしの中に苛立ちはなかった。でも、心の底のほうに相変わらず悲しみは流れていて、それなのに凪いだ気持ちでいられるのが、どうにも不思議だった。


「と、いうと。なんだ」


「作り方。あたしに教えてよ。……時間は、いっぱいあるんだから」


 あたしが、それを聞いている。

 父さんが、答える。

 そうして、夜が更けていく。


「おう。……母さんがこのカレーを最初に作ったのはな……――」



 父さんが、母さんの死に目に逢えなかった事実は変わらない。あたしがその時の父さんを許せなかったのも、きっと変わらない。


 一度傷ついたものがもとに戻ることは決してなくって、傷は増えていく一方なのかもしれない。

 だけど、傷を癒そうとする行動が何かを生むことは、ありえないことではないと思う。あたしはそう信じたい。父さんの贖罪は多分、あたしが止めたところでずっと続くんだと思う。


 だったら、一緒に背負おうと思う。これから先には、あたし達の生きるべき時間が、ずっと続いているんだから――。

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