炭焼き小屋
わたしは正門を出て南東に続くあぜ道を駆けた。
蕎麦畑が視界に入る。
白い花が月光を受けて、無数に揺らめいていた。
その横を、髪をおでこの上に巻き上げながら、駆け続ける。
と、足指全体に、強い痛みと痒(かゆ)みを感じた。
速度を落として視線をやる。
……足首の上付近に直径1cmのいぼが、ぽこん、と生(は)えていた。
粉をふいている。
― 発症か。やっぱり早いなあ。―
と思うと同時に、陰部とその奥に焼け爛れるような熱を感じた。
― ……患(な)ってみると、淫崩(あのこ)の辛さが分かる。 ―
……肺にも重みを感じる。
いずれ、気管や喉もカビに潰されるのだろう。
その前に彼の元へたどり着き、歌う。
肺が潰れていても、喉さえ抉(えぐ)られていなければ、わたしは歌えるはずだ。
……正直この時も、わたしは奈崩を憎んではいなかった。
ひよこ3姉妹は、たくさんの子を潰してきた。
潰す者は潰される。
引導を渡してきたのが、奈崩だったというだけだ。
わたしは彼の苦闘をずっと見守ってきた。
だからこそ、終わらせなければならない。
わたしが、奈崩を。
……あぜ道を外れた。
子宮が黴たらしい。猛烈に痛む。
思わず立ち止まって呻くと、胸の奥がとても痛い。
けれどまだ呼吸はできる。
― 大丈夫。わたしは歌える。―
勾配(こうばい)を帯び始めた道の先に、登山口があった。
その脇に、樫の生木に囲まれた炭焼き小屋がある。
灯りはない。
……小屋を抱く山の影全体が、もつれあう因果のように思えた。
その先の先に、奈崩が在(い)る気がした。
意識が飛びそうなほどの痛みと痒みに耐える目じりから、涙の粒が自然とこぼれる。
わたしは何かを否定するように、手の甲でぬぐった。
それから、足を前に踏み出した。
月に照らされた勾配をとにかく走る。 角度がきつい。
視界が気怠く押された。いや、引っ張られているのか。
体がよろけているのが分かるまで、数秒かかる。立て直す。
耳の上を掌で軽く叩いた。
鼓膜の旋律が、渦というか、もう、悲鳴だ。
三半規管を揺さぶられ、薄い闇がゆっくりと回り始めた。
もう、耳も危うい。急がなければいけなかった。
炭焼き小屋は山の斜面を背に、三角屋根の小屋が二つ連なった作りで、奥の小屋の方が大きい。
焼き窯もこちらの方に設置されている。
入り口に扉はないけれど、奥は陰になっていて見えない。
ここは山を背にしていて、月光が届かないためだ。
でも、わたしが到着した時点では、特に中を確認する必要はなかった。
歌が確実に届く間合いでありさえすればいい。
……でも、全身が痛すぎてう痒くて痛くて意識飛びそうだ。
涙でぼやけ続けた視界が、気を抜くとどこかにいってしまいそうだ。
奈崩を瀕死にしたことは淫崩が教えてくれた。
だから彼女を信じて、とにかく歌おう。
―奈崩を終わらせて、須崩の遺体を淫崩(みだれ)に届けるつもりだったけれど。
ちょっと。厳しい、かな。―
小屋の入り口横に組まれた、木板の壁まで、とにかく歩いた。
息は切れて、意識が消えかけている。奈崩と対峙しないのは正解だった。
もう、自慢の聴力さえおちて、鼓膜が何も受容しない。
ただ、歌が渦巻くだけだ。
体をくるりとひるがえし、壁に背を預ける。
乳房の間の胸骨に、両手のひらを重ねて深く息を吸う。
後は、重ねた手に旋律を重ねるようにして、歌えばそれで終わる。
― 結局、わたしは誰も看取らず看取られず、終わるのかあ。まあ、仕方ない。それが……―
村人である。
わたしは大きく口を開いた。
「…うぅ……」
とても微(かす)かな声だった。
けれどその声は、間違いなく須崩のものだった。
わたしは目を大きく見開いた。
鼓膜が聴覚を極限に研ぐ。
山草と樫(かし)の木の葉が、風にそよいでいた。
鳥たちが闇に鳴き、湧き水の流れに羽音を立てる。
自然の音。
それらに包まれるように、心音が2つ、響いている。
1つは、感情のない鼓動。
もう1つは、弱弱(よわよわ)しくも早い動悸(どうき)。
2つとも意識を帯びている。
― 奈崩と、須崩…!?―
わたしは息を呑む。
気がつけば、小屋の入り口に足を踏み入れていた。
目が屋内(おくない)に慣れず、真っ暗に感じた。
そして、選択が突きつけられる。
もしここで奈崩に歌えば、報復を果たせるが、生きていた須崩も巻き込む。
歌わないままに、わたしの命が尽きれば、人質として生かされていた彼女は殺される。
どちらにせよわたし達は死ぬ。
なら、報復を果たすべきだ。
ここまで考えた時、闇に目が慣れた。
屋内の光景が、目に飛び込んできた。
大小に分割された生木が壁面を埋めている。
奥に炭焼き窯(かま)の小屋に続く扉があり、太い木材にふちどられている。
扉の向こうにはとても濃い闇が溢(あふ)れていた。
その闇を背にして、奈崩が椅子に背と腰を預けていた。
いつもの黒のランニング。
脱力した胸板。
肩から伸びた両腕がだらんとしている。
逆手(さかて)に握っているのはジャックナイフだ。
うつむいた総白髪の頭部が、心音と共に、わずかに揺れている。
彼の右横の柱に須崩がもたれていた。
地に2つの小さな足がついている。
感染の様子はない。
顔は殴打に腫れている。
両腕は肩の上にあげられている。
2つの腕から伸びた、まだ小さな手のひらは、彼女の真上で重ねられている。
丸太用の太釘が、その掌を柱に打ち付けている。
視覚に由来する痛みに、わたしは硬直した。
でも、歌わなければならない。
この痛みを題材にした旋律が、すでに鼓膜に渦巻いている。
わたしは口を開こうとする。
「……た……」
『多濡奇お姉ちゃん』
須崩と目が合った。
刹那、脳裏に淫崩の顔が浮かぶ。
悲哀に熱く潤んでいた瞳。
わたしは立ちすくんだ。
刹那、それまで椅子に脱力していた奈崩が、面(おもて)を上げた。
目が合う。
須崩の声に反応したのだ。
「よお」
と奈崩は言った。
瞬間、彼を取り巻く闇が、鬼気を帯びた気がする。
わたしは違和感を覚えた。
今、対峙(たいじ)している奈崩は、わたしが知っている彼ではなかった。
眼が、……全く違う。
闇の中で直視してくる瞳に、わたしは両手で口元を押さえる。
その目は、狂喜に輝いていた。
― 奈崩と目が合ったことは、ほとんどなかった、けれど。―
思い当たるのは初めて彼を手当した夜。
「お前も潰してやる」
と言われた時くらいだ。
― あの時の奈崩の瞳はとても暗かったけれど、こんな…… -
奈崩は、わたしの瞳から視線を下にずらした。
そしてわたしの全身、特に胸のふくらみの先を、舐(な)めるように見る。
そして、唇の端を醜(みにく)く歪めた。
―こんな男では、なかった。―
生理的嫌悪に、わたしの全身は戦慄いた。
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