須崩が生きてくれれば
奈崩はいきなり、くぱあ、と大きく口を開いて笑った。
ザラザラしてかすれた笑い声が、とても気持ち悪くて、旋律の渦が激しくなる。
背筋を危機感が、不快に走り抜ける。さっきまでの朦朧が嘘のようだ。
「来ると思っていたぜ……多濡奇(たぬき)ぃ」
闇に響くその声には、恍惚があった。
奈崩は再び薄い唇の端を歪めて、舌なめずりをする。
-……挑発? 攻撃を誘っている? 何か手がある? わたしの歌に対して? いや、人質がいるから? 須崩は感染していない? …… -
いくつもの疑問が、わたしの脳裏を飛び交う。
ひだる神の視線は相変わらず、いやらしい。
「俺は…見た通りボロボロだ。…てめえのお友達の糞豚(くそぶた)にやられてこのザマだ。動けねえ。……だからお前も動くな」
奈崩の握ったジャックナイフの切っ先が、ぶるぶると震えた。
違う。演技だ。
彼は動ける。
……ナイフは、はじかれたみたいに、流線の軌跡を描いた。
それは須崩の胸元に向う。
わたしは、弾丸のように距離を詰めた。
命の残りを燃やす。
腕をまっすぐにしたまま、開いた右の手のひらを下から振り上げる。
凶刃(きょうじん)の持ち手に当て、それは跳ね上がる。
軌道は須崩からずれて、虚空を穿つ。
わたしは振り上げた手のひらを返す。
そのまま拳を握り、胸を開く形で左斜め下方向に弾(はじ)く。
手の甲が奈崩の顔に当たったのが、感触で分かる。
鈍い音も小屋の闇に響く。
わたしは彼を見ない。
視線は彼と対角線上の、須崩の両手を貫(つらぬ)く太釘に集中している。
開いた胸の片方、左肩の先を太釘に伸ばす。
ー それじゃ八極拳だよ、とか、淫崩に怒られちゃうけれど。 -
動きの基礎は、淫崩式詠春拳である。
わたしは自分でも驚くくらい滑らかに、長太い釘をつかんだ。
表面がざらついている。
すかさず上体を反時計まわりにひねる。
柱から楔(くさび)を抜く。
このとき、左手の親指を、須崩の手にひっかける。
釘と共に手前に引っ張る。
そして、合気道みたいに投げ飛ばす。
須崩は声にならない悲鳴をあげた。
彼女には、入り口付近で倒れてもらう必要があった。
あそこなら、清浄な風が守ってくれる。
上半身をひねる時に、奈崩を砕いた裏拳を開き、手刀(しゅとう)を作った。
わたしは必死の形相となる。
時計回りの軌道の先には須崩のうなじがある。
わたしが投げ飛ばすよりも速く、けど頚椎を砕かない絶妙な加減で、手刀を到達させなければならない。
目的は須崩の気絶。
これが結論だ。
つまり、奈崩の隙をついて、須崩を遠くに退避させる。
気も失わせる。意識がなければ歌は届かない。
それから奈崩を潰し、報復を果たす。
わたしが死ぬのは想定内だ。
須崩は感染していないので生き残る。
- まあ、わたしにしては上出来……だよね?-
手刀が須崩の項(うなじ)に到達する。
刹那の刹那。
こめかみが真っ白になるような衝撃。
方向感覚の喪失。
― 手は?―
何が起きているのか分からないままに、左脇に打撃が刺さった。
堅い何かでみぞおちを突かれる。
白いカビと血液の混じった胃液が喉(のど)からあふれた。
― 手は ―
足を払われる。
別のこめかみに堅い木材の衝撃。
間を置かず肋骨に衝撃。
これは蹴りだ。
体重が乗っている。
わたしの体は横にくのじになって吹き飛ぶ。
右の肩から生木の山に激突する。
肩の骨が外れたのが分かった。
それでも、わたしは体をひねり、生木の山にもたれる。
左手で右腕を押さえる。
そのまま肩を入れつつ、顔をあげた。
奈崩が笑っていた。
木の椅子の背もたれに手をかけて、肩にひっかけている。
「どうだ? 驚いたろ? 動けねえって言葉を。まんま信じやがって。多濡奇ぃ。てめえはマジで、馬鹿だぜ」
信じる信じないでは、信じていなかった。
それよりも、残された時間で須崩を救う事が、わたしには大事だった。
だから、わたしは全力をつくしたのだ。
― 手は、須崩のうなじを、かすめた。 でも、……浅い。 ―
結局奈崩の反撃の方が速かった。
落胆とともに、一気に、動きの反動がくる。
わたしはもう、呼吸ができない。
酸欠に意識が遠のく。
……混濁にまかせて歌えばいい。喉にはまだ、カビはきていない。
― けれ、ど ―
わたしは視線をちらりと、須崩にやった。
ぐったりしているけれど、気絶というほどではない。
いつ戻ってもおかしくない、浅い混濁だ。
今歌ったら、意識に届いてしまう。
そうしたら……。
― 殺してしまう ―
「よすぉみすんじゃねえっ!」
こめかみに堅い衝撃が走る。
また真っ白だ。
なるほど、さっきから奈崩は木の椅子の座席の角っこで、わたしのこめかみを殴っていたのか。
― 香港映画みた、いだ。 ―
ちゃんと向き合ったら、こんな打撃、かわすのは容易いはずなのに。
須崩を救うことに夢中になって、隙だらけになったわたしが悪いのだろう。
それにしても、香港映画って、……馬鹿みたい。
シュールな笑いと共に、喉から歌がもれかけた。
けれど、その旋律を無理やり飲み込む。
須崩を殺したくない。
それが本音だし、精一杯だった。
奈崩の殴打が続く中で、意識が遠くなる。
わたしを包む夜の世界が、白く消失した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます