第15話 負けた淫崩

 わたしたちの保育所は、人里離れた山間(やまあい)の小さな集落にあった。

 この集落は保育所以外は無人で、どこの地図にも載っていない。

 

 だからこの村を訪れる人はいないし、もし登山客などが奇跡的に迷い混んだら、翌日には解剖学の素材になってしまう。


 この村はわたしが産まれるずっと前からこんな感じだった。

 だから保育所も、侵入者の想定を全く想定していない。

 正門は夜間も開きっぱなしだ。


 この正門の内側の花壇は、煉瓦(れんが)にふちどられたおそろしく長い長方形で、普段は保育士たちが持ち回りで管理している。


 けれどたまに、わたしたち三人組で水やりをしたりした。


 そういう時は、始めはわたしと淫崩(みだれ)が真面目にちょろちょろする。

 だけど必ず、須崩(すだれ)がジョウロをめちゃめちゃに振り乱す。

 みんなできゃあきゃあ言って、結局水遊び状態になってしまう。

 そんな無邪気な思い出があふれる花壇には、いつも何かの花が咲いている。

 ここは保育所でもお気に入りのスポットだった。


 だからかもしれない。

 花壇は、いつもとは全く違う場所に見えた。

 淫崩が倒れている。

 淡い白や黄を浮かべる花弁たちの上に覆いかぶさっている。


 空間から現実感だけが吸い出されていく。

 代わりに、月光を含む大気が、肺に満ちてくる。

 それは不吉を孕む。

 鈴虫の音が聞こえた。


 わたしは彼女のそばに駆け寄り、花壇の土に両膝をつく。

 土の部分に寝かせ、淫崩(みだれ)、みだれと呼びかける。


 でも、返事はない。

 彼女の心音だけが、意識の混濁を示している。

 

 ……心臓に致命的なダメージはないけれど、彼女の姿は、ずいぶんと変わってしまっていた。


 キルトスカートから伸びた彼女の二つの脚は、力なくしぼんでいた。

 ゆるみ切った皮が,花壇の土にたれている。

 足首、ふくらはぎ、太ももを、直径1㎝高さ2㎝のいぼが、びっしりと覆っていた。


 その一つ一つが近くで見ると異常に白く、月光を孕(はら)みながら、うっすらと輝いていた。

 

 このいぼの群れは、淫崩のふともものさらに上、スカートの奥や臀部(でんぶ)、腹部や胸まで拡(ひろ)がっているのが見て取れた。

 これは、拡がっている最中なのだろう。

 首や肩の肌が、ぽこぽこを始めていた。

 わたしの脳内に、全身がうにょうにょで覆いつくされた淫崩の映像が浮かぶ。


 彼女を覆ういぼの白さは、カビの白さだ。

 カンジダ。水虫。白癬菌。

 いぼはウィルス性の腫瘍。皮膚がんの一種だ。

 このウィルスもどこにでもいる、感染力のとても弱いものだ。

 

 淫崩が部屋を去る前にくれた言葉が反芻される。


 “空気感染”と “免疫不全”。


 免疫システムのダウンによって、弱い菌、ウィルスが爆発的に繁殖している。


 ―……でも、するべきことは変わらない。―


……救命小箱から回復薬を取り出して口に含む。

 そのまま、淫崩のおかっぱ頭の下に、右手のひらをさしいれて支える。

 左手の指先で彼女の顎を押さえ、口を開かせる。

 と、上唇と下唇の合間から、綺麗にそろった歯の列があらわれた。

 さらに奥から口腔がのぞく。

 

 舌も喉も、粘膜全体がびっしりと、白いカビに覆われている。

 たぶん、喉の奥の気道や肺もカンジダに覆われているのだろう。


 わたしはさらに1つの結論に至ってしまった。

 絶望に、回復薬を含んだまま口元を両手で抑える。

 しばしの硬直。


― この子はもう、終わり、だ。―


 これが最終的な結論であり、絶望だった。

 

 さらにわたしの脳裏に、空気感染、濃厚接触という言葉たちがこだました。

 現実は無慈悲なほどに、追い討ちをかけてくる。


―今、口に含んでいる回復薬を、この子に入れたら。……わたしは、感染する。―


 いや、すでに感染してたのかもしれない。

 

……混濁にうなされる淫崩の顔をじっと見つめる。


 わたしは、とても穏やかな顔をしていたと思う。

 だって、わたしの心は穏やかだったからだ。

 それまでの不安がうそのようだった。


 わたしは淫崩の唇にかがみこみ、そのまま彼女の口腔に回復薬を流しいれた。

 友はむせて、彼女の頬に落ちていたわたしの前髪が揺れる。

 唾液とヨーグルトと血液が混ざったものが、わたしの口腔に流れ込んできた。

 けれど、かまわずに、もう一度それを彼女の口腔に流しいれた。

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