第14話 緊急事態
それは浅い眠りだった。
わたしは起きなければいけなかった。
でも、目の覚める手前で、混濁(こんだく)に戻される。
そして、うなされ続ける。
そんな眠り。
やがて力も尽きて、とても深い眠りに落ちた。
目が覚めると何処(どこ)にいるのか分からなかった。
闇に浮かぶ天井の輪郭(りんかく)を、しばし見つめる。
汗でタンクトップが、びっしょりと濡れていた。
気持ちが悪い。
けれど、体内の重みは汗と共に抜けて、すっきりとした感覚すら覚える。
「淫崩(みだれ)っ!!」
と飛び起きるのと、状況の把握はほぼ同時だった。
照明のリモコンに手を伸ばす。
黄色の豆電球がカチカチと音を立てて、ループ状の白電球に明かりが灯(とも)った。
わたしはしかめっつらをして、壁の掛け時計を見る。
日をまたいでいた。
淫崩が出て行ってからどれくらいたったのか、分からない。
わたしは箪笥(たんす)から換(か)えの下着とタオルを取り出した。
一度全裸になる。
全身を拭きながら、身体操作に問題がないのを確認する。
大丈夫だ。
わたしは斑転(はんてん)の殺気から回復していた。
普通ならもっと寝込む。悪くすれば死ぬだろう。
けれど、わたしは淫崩の菌に耐性ができていた。
それに、彼女が適切な処置をしてくれていたのも大きい。
― ……とにかく淫崩を追わないといけない。 ―
右の太ももをあげて屈(が)み、パンティーをはく。
白のカルバンクライン。
スポーティーだけどおしゃれなタイプだ。
これは淫崩が、13歳のクリスマスに、くれたものだ。
彼女はあの時、
「女のおしゃれって下着から、みたい。……あたしたちも、そろそろおしゃれとか考えてもいい、よね?」
と、よく分からない照れ方をしていた。
下着に限らず、わたしの持ち物には彼女にまつわるものが沢山あった。
色々な約束も果たしてない。
貸してくれたCDだって返してなかった。
ブラジャーを両腕を背に回してつけてから、黒Tシャツに袖を通し、ネイビーブルーのキルトスカートを腰に巻く。
これも淫崩とお揃いのものだ。
……戦闘になるなら動きやすさが最優先される。
斑転(はんてん)相手に防御に固まるのは、犯しやすい愚である。
このことをわたしは、襲撃者たちの惨状から学んでいた。
菌が届くまでに、歌で終わらせる。
そこまでのいくつかの刹那の合間に、致命傷を避けるには軽装が最適だ。
― 終わらせる? わたしは、奈崩の生を……? ―
わたしのどこかが、情に揺れた。
それでもわたしは、着替えを続け、スイッチを切り替えていく。
ギンガムチェックの靴下を足首まで通しながら起こりうる状況を考える。
……もし戦闘が終わっていたら。
淫崩が勝っていた場合、手当を行う。
回復薬が必要。
淫崩が潰されていた場合、奈崩を潰す。
奈崩だろうと誰だろうと、淫崩を潰した者を潰す。
そう決めて、わたしは彼女と共に修羅を歩んできた。
戦闘が続いていてる場合は、見守るしかできない。
これは、ひだる神たちの戦いなのだ。
身をかがめ、黒地のピンクの紐のスニーカーを履いて、準備を完了。
生理食塩水の入った救命小箱を抱えて、通路に出てる。
― することは決まっている。では、どうして……。―
階段に向かって、通路を全力で駆けた。
月光と、静けさが通路全体に満ちている。
見慣れた光景なのに、わたしは焦燥を感じていた。
― どうしてわたしは、こんなに……。 ―
わたしはセイレーンの子孫だ。
強者のはずだ。
食堂にたどり着く。
冷蔵庫からポカリの容器を取り出して、ごくごくと飲む。
汗で脱(ぬ)け出た水分が、全身に補給される感覚。
「怖がっている」
わたしはぽつりと呟いた。
いつもならほっとするその感覚に、でた言葉がそれだった。
わたしの頬は不安にこわばっていた。
出どころの分からない不安に胸がざわついていたからだ。
それでも、容器を冷蔵庫に戻し、代わりに救命小箱にヨーグルトのパックを入れる。これで準備は整った。
その時、はたと気づいた。
わたしはその夜、完全に1人ぼっちだった。
友(みだれ)も1人ぼっちで戦闘に赴(おもむ)き、彼女の状況は分からない。
つまり離ればなれだから、怖いのだ。
―怖がりは、須崩(すだれ)だと思ってたのに。
…
……
……………須崩は? ―
頬から血の気が急速に引いていく。
最悪の想像が脳の内側を巡る。
胸が苦しくなった。
わたしたちの中で一番弱いのが須崩(すだれ)だ。
淫崩(みだれ)は、最悪を想定してわたしを戦闘からはずした。
洗い場での殺気は事故だとしても、今晩わたしを置いていくのは故意だ。
須崩も外しただろう。
なら、須崩はどうするか?
わたしを呼びにくる?
いや、わたしは殺気にあてられて、ダウンしていた。
怖がりな彼女のことだ。
部屋で震えていてくれたらいい。
けれど、怖がりである以上に、彼女は淫崩を慕っている。
戦闘の達人である、淫崩(みだれ)が、1人で奈崩と対峙する。
彼女には、この意味が分かるだけの力量はない。
冷静さも欠けているだろう。
須崩はどう行動するだろうか。最悪の状況は?
― 須崩が淫崩と奈崩(なだれ)の戦闘に割り入り、そして…… -
「ほら、てんぱってる。わたし」
つぶやく唇が、少し震えた。
わたしは息を深く吸う。
この因果を使うのはいつぶりだろうかと考える。
……奈崩を助けるずっと前のことだ。
わたしは歌を禁じられた。
けれど鼓膜の内側に渦巻く旋律は、わたしに歌うことを求めていた。
だから、8歳のわたしは考えあぐねた。
結果、人の聞こえない音で歌ってみることにした。
そしてそれから6年間、つまり14歳のその晩まで、それをすることはなかった。
……わたしは食堂の薄い暗闇中で、瞳を閉じて聴覚に集中する。
もう一度深く息を吸い込んでから大きく口を開く。
喉(のど)が痛むほどのヴィヴラートを、すべての横隔膜で歌う。
超音波(うたごえ)は保育所の建物全体に広がる。
あらゆる構造体が音波を反響し、わたしの鼓膜に戻る。
そして影絵として、脳内に再生される。
これはおそらく、わたしの脳の処理能力を限界まで使う因果なのだろう。
とても疲れるし、何より喉を痛める。
けれど、全てを一望するみたいに把握できる。
つまり、透視に近い因果(ちから)だ。
……超音波で把握(すきゃん)した建物内には、淫崩も奈崩も、そしてやはり須崩もいなかった。
年長の部屋で男女の影絵が交わっていたが、女性のほうの髪はどれも長い。
体のラインも淫崩のドラム缶型とは全然違った。
― ……外、か。―
通路に出て階段を1階まで駆け下りる。
当直室横の通路を駆け抜ける。
広い玄関の鉄の扉を外に開くと同時に、わたしは、
「淫崩…っ!」
と小さく叫んだ。
月光の下、うつぶせに倒れていたからだ。
淫崩が、保育所正門内側の花壇に。
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