第13話 ごめん、という言葉

「それ、ハンドソープ」

「あ、ごめん」

 この時わたしは上(うわ)の空で、ごめんと言った。


 食器を洗うスポンジにハンドソープをつける駄目さが、すぐには分からないくらい、混乱していた。

 

 わたしが奈崩に肩入れしている事が、淫崩の耳に入ったのだと思った。

 だから、彼がわたしにちょっかいをかけたと勘違いしたのだろう。


 わたしは血の気が引いたまま、淫崩(みだれ)の次の言葉を待つ。


― ばれたらちゃんと説明しようと、準備していたはずなのに、真っ白だ。 ―


 口元が、自然と半開きになる。


 そんなわたしを横からまじまじと眺めて、淫崩はため息をついた。


「……私たちは基本、専守防衛だけど」

「うん」

「あいつはヤバい。同じひだる神だから、見逃してきたけど」

彼女は一旦言葉を切る。


「……強く、なり過ぎてる」

 そう続けた淫崩の声は獣が唸(うな)るように低く、眼に宿す光は鬼気を帯びていた。

 わたしは言葉をしばし失う。

 それから、無理やり声を喉から出した。


「……強いなら、仲間にすればいいじゃない。同じ斑転(はんてん)なんだし」

 言いたくなかった本音だ。

 彼女はひだる神であり、奈崩も同じ因果を抱える者なのだ。

 わたしは自分以外の駆他(かるた)を知らない。

 多くの因果と同様、駆他は隔世遺伝だ。

 しかも、村人に発現する因果は、強力なものほど、隔世のスパンが長い。

 先代の駆他が発現したのは、江戸の吉宗将軍の頃だ。

 だからわたしは、同じ因果という感覚が分からない。

 分からないからこそ、ひだる神同士、助け合えば良いのに、と思っていた。

 淫崩が須崩(すだれ)に目をかける何%かでも、彼にかけてあげれば、共助が成り立つのに……。


 もどかしくて、わたしは自然と奥歯を噛んだ。


 淫崩はため息をついた。

「あいつは誰かと仲間になるとか、そういうたまじゃないの。それに、分からないの? あいつ、あんたを憎んでるのよ?」

「え?」

 え、の発音のまま、口は半開きになった。

 わたしの2つの腕はわれ関せずといった感じで、洗い物を続けた。

 淫崩も隣で茶碗を拭き続ける。


「この前ね、女の保育士さん死んだでしょ。あれ、奈崩が試したらしいの。あいつね、新しいウィルスに手を出したのよ。体液を通して感染する免疫不全ウィルスをね。空気感染するようにして、発病まで7年はかかるウィルスの歩みを一瞬にした。つまり、どういうことか分かる?」

「分からない」

 わたしは即答し、淫崩は再びため息をついた。


「奈崩は力を手に入れたってこと。身体もちゃんとできていないうちに、未知のウィルスを取り込むってことは、苦痛も人の耐えれる域を超えるの。異常な執念とか、憎しみがなければできることじゃない」


 分からなかった。

 憎しみで力を手に入れるのは理解ができる。

 けれど、何故わたしを憎むのか?

 呆然(ぼうぜん)とする。

 蛇口から流し台に注ぐ水流が、急にゆっくりになった気がした。


「なんで、わたしなの?」

「こっちが訊きたいわ。……あんた鈍いから気づかないのも無理はないけど。あいつね、いつも遠くからあんたを睨(にら)んでたのよ。寒気がするくらい暗い目で。あれ見る度にね、潰そうかなと思ったけど、私たち専守防衛じゃない? 睨んでたのが気に食わないからって潰しにかかるのって、普通のヒトのヤンキーみたいでカッコ悪い。だから我慢してたけど、限界。これ以上ほっておくと、物凄い酷いことになる」


 どれだけ思い返しても、彼がわたしを見ている、なんて事はなかった。


 何かを取り違えている気がした。

 そして、取り返しのつかない不吉を感じる。


 わたしはあの男に愛着と敬意を抱いて、肩入れをしていた。

 弱くて死ぬはずだった彼の生に介入をし続けた事は、そこまで『許されざること』だったのか? わたしは今でも分からない。


「淫崩」

「うん」

「ごめん。あたし、奈崩をこっそり助けてたの」


 わたしの告白に、淫崩(みだれ)は何も言わなかった。

 彼女はカップのふちに視線を落として、布をぐるりと回して水気をぬぐう。

 沈黙に心臓が締め付けられる。


「怒ってる、よね?」

「済んだ事に怒る暇(ひま)はない。あいつは助けを侮辱と受け取るひだる神で、あんたは南極ペンギン並みのお人よしだったってだけ。とりあえず、さっき言ったとおり、今晩あいつを潰そうと思う。……まだ、間に合うはず、だから」

 淫崩の声は淡々としていた。

 けれど、その響きには修羅がこもる。

 彼女は無意識的に殺気を吐いた。

 殺気は菌を孕んでいて、わたしはもろに吸い込んでしまった。

 視界が揺れる。

 鼻が出血した。

 膝がぐにゃりと歪み、わたしはそのまま床に崩れた。



……気が付くとベッドに寝ていた。

 布団からはみ出た手のひらを、誰かが握ってくれていた。

 首を向けると淫崩だった。


「淫崩」

 わたしの声はかすれていた。


「何も言わなくていい」

「黙ってて、ごめん」

 淫崩は困ったようにほほ笑んだ。


「人の話聴かないよね、多濡奇(たぬき)って。……私こそ、殺気を当ててしまって、ごめん。気づかなかったのも、ごめん。あんたがあいつを助けてるとか、想像もしなかったし、黙ってるのも、全然思いつかなかった。黙っていたいくらい、私たちの事を考えてくれてることも分からなかった。そういう全部ひっくるめて、ごめん」

 ぐっときた。

 涙が出て、滲(にじ)んだ視界の中で淫崩は笑った。


「泣き虫め。何であんたが保育所最凶なのよ、まったく。……まあ、あいつがどれだけ強くなっても、あんたに勝つことはできない。けど。これ以上強くなったら、わたしはあんたを守れなくなるの。だから、行くね」


 わたしは反射的に、親友(とも)の手を、ぎゅっと握った。

 その手を、淫崩は人差し指から順番に一本一本丁寧にほどいた。

 

 全てをほどき終わってから、立ち上がり、わたしのおでこを、ぺしっ、と叩く。


「じゃあ、行く、ね。安静にしていなさい」

 そう言って、彼女は踵を返しドアの向こうの通路に消えた。

 とても静かな消え方だった。

 その静かさがとても不吉で、何かを強く呼びかけようとした。

 けど、視界がぐにゃりと歪み、わたしは再び意識を失った。

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