第11話 初めての看護


 10歳の夏の夜、わたしは布団からむくりと起きて、トイレに向かった。


 昼の暑さが湿るように残る通路の途中で、奈崩が戦闘をしていた。


 相手はたしか、木暴(きぼう)君といって、そんなに強くないナイフ使いだった。


 彼は奈崩の血液を浴びないように丁寧に拳を避けながら、肉を刻んでいた。

 その動きは舞うようで、心音には殺意と歓喜がある。

 対する奈崩の心音には絶望があった。


 斑転の前でここまで激しい動きを続けると、確実に菌を吸い込んで、吐くか悶絶かする。

 木暴君は奈崩の菌に、耐性が出来ているのだろう。

 彼が何度も奈崩を戦うのを、わたしは目撃していた。

 つまり、斑転が一度で仕留められないと、こういう事になる。

 まして奈崩の使える菌は弱い。

 これは、分相応の菌を取り込もうとせず、いきなり強い菌に手を出して失敗に終わるという、彼の計画性の無さのせいだ。つまり、自業自得である。

 

 しまいに奈崩は、すとん、と尻もちをついて通路の壁にもたれた。

 切られすぎた腕をだらりと床にたらし、襲撃者(きぼうくん)を見上げる。

 木暴君は満足げに、奈崩を眺めた。

 唇に恍惚(こうこつ)を刻みながら、ナイフを振りかぶる。

 月光に凶刃が煌めく。


「通りたいんだけど」

 わたしが言うと、木暴君はきょとんとしてわたしを見た。

 振りかぶったままで、その動きはぴたりと止まった。


 奈崩はわたしを見ない。

 わたしはもう一度、通りたいんだけど、と言った。

「多濡奇(たぬき)…分かる、よな?い…」

「わたしはトイレに行きたいの。おしっこ我慢してたら、歌っちゃうから」

 とさえぎると、木暴君の頬から血の気が引く。

 わたしは首を傾げてみる。


「……聴きたいの? わたしの歌」


 木暴君は逃げ出した。

 その後ろ姿を眺めてから、わたしは奈崩の横にしゃがみ込んだ。


「大丈夫?」

 と訊くと、視線を逸(そ)らされる。


 こけた頬、鼻、唇は血まみれだ。

 口腔からも排菌があって、嘔吐を覚えた。

 その菌はわたしが慣れないものだったからだ。


 嘔吐は淫崩たちとの日常茶飯事だったので、特に構わなかった。

 けれど尿意が臨界に達しそうだったので、立ち上がる。


 そのままトイレに向かい、用を足した。

 続いて、アンモニアですえた臭いのする便座に、顔を突っ込んで嘔吐をする。

 手を洗って、口元もぬぐう。

 そして、ぼーっとした。


 何となく、そのまま下の階に降りた。

 医務室と食堂に忍び込む。

 回復薬を盆にのせて奈崩の元に戻ると、彼は死にかけていた。


 血色が青を通り越して紫になっている。

 いわゆる、チアノーゼだ。


 わたしは盆を床に置いて、奈崩の脇から背に腕を回して床に寝かせた。

 胸元のボタンを外し、安静な姿勢を確保させる。


 それからヨーグルトと生理食塩水を順に口に含んだ。

 口移(くちうつ)しで奈崩の口腔に流し込む。


 これは戦闘で虫の息になる須崩(すだれ)に、淫崩(みだれ)がよくしていたことだ。


 つまり、口移しに対して、普通のヒトが思い描くような感情は一切ない。

 代わりに血と鉄の臭いに、わたしはむせた。


 奈崩の心音に耳を傾けつつ、彼の回復を待ちながら断続的な口移しを続ける。

 結果、彼の顔色がチアノーゼな紫色から、いつもの貧しい血色に戻った。

 弱くても、流石は斑転だ。回復力が強い。


 脇に両手をはさみこんで起こす。

 変化した姿勢に呼吸が適応するのを待ってから、訊く。

「歩ける?」

 返事は無かった。

 わたしはため息をついて、脇に肩を差し入れて、部屋まで連れて行く。

 そのまま寝台に寝かせた。


 彼の部屋に入るのは初めてだったので、ぐるりと見渡す。


 小さな机、ライオンのポスターが張られたくすんだ壁。

 裾が破けてぼろぼろの服の塊。

 その横の書籍の山。

 書籍のタイトルで目につくものはどれも細菌学関係だったが、薬学関係もまぎれていた。


― 勉強熱心だなあ。―

 と思っていると、鼻腔から出血し嘔吐を覚えた。

 奈崩の毒素の影響だ。


 立ち上がり、再びトイレに行って吐く。

 ついでに盆を回収してから、自室に戻った。

 そのまま寝てしまおうかなとも考えたけれど、奈崩の服の裾(すそ)の破けが、瞼の裏に浮かぶ。


 わたしは何となく気になり、むくりと起きて裁縫セットを取る。


 とりあえずティッシュを鼻につめて、再び彼の居室に向かった。

 ノックをしたが返事はもちろんない。


「入るね」

 構わず言って入り、服の塊から、ましそうなものを引っこぬく。

 そして裾を縫ったりボタンを留めなおしたりしながら奈崩の容態を見守る。


 と、彼はベッドに横たわったまま、首だけ曲げてわたしと目を合わせた。


 そして、

「……お前も潰してやる」

 と静かに言った。

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