第7話 最悪な二択


 説明会が終わると、陽は既に暮れていた。

 横浜駅で解散となって、境間さんは薄闇に消えた。

 志骸も奈崩も人混みに消える。


 わたしは東横線に乗って、連泊しているホテルに向かう。

 方向が一緒だったので、九虚君が途中まで御一緒をしてくれたので、デートっぽいと思ったりした。


 彼は休暇の趣味で漫画家をしていた。

 連載は打ち切りにしてもらったが、その編集部に、最後の挨拶に向かうそうだ。

 アパートは既に引き払っているらしい。


 これはわたしもだ。

 5年間住んだアパートに、わたしという形跡は無くなっていた。

 のみならず、賃貸会社の記録、戸籍や、雇用保険の記録も消去されている。


 これは海外案件に飛ぶ村人の通過儀礼だけれど、ちょっと寂しい。


 まあでも、記録に残らなくても記憶には残っているから、いいかな。


 ……という事を九虚君に話したら、静かに諭(さと)された。


「記憶でも記録でもなくて、俺たちが残し続けるのは、実績です」

 随分と前向きな子だと思う。


 彼の降車駅の案内が流れた時に、今夜はどうされるんですか、と訊かれたので、わたしは少し迷ってから、ひいきにしている大学生君のライブに行くの、と正直に答えた。


「うまく行くといいですね」

 と、彼の声色は優しかったが、わたしはよく分からない寂しさを感じた。

 その寂しさは停車の慣性と共に、心のどこかに響いた。


 彼は迷いなく下車。

 電車のドアの向こうから会釈をしてくれる。

 その彼に小さく右手首の上を振る。

 電車は、わたしたちをひきはがすみたいに、再びゆっくりと動き出した。


 視界から消えて行く九虚君の残像に、ため息をつく。

 色々と疲れたなあ、と思いながら、とりあえず、趣味のひよこの被り物をする。


 遮られた視界と相変わらずの電車の揺れに、眠気を覚えているうちに、目的駅に着いた。


 裏路地を歩いて、ライブに向かう途中に、物体の急速な接近を、薄暮れた上空に感じた。


 闇が濃くなる気配。

 聴覚のみで把握が可能な、不快な何かの、あからさまな接近。


 ビルとビルの間を、林間を跳ねるみたいに粗く踏みしだいて、それが来る。

 わたしは眉をひそめながら、項(うなじ)を反る。


 電線が無気力に交差する暗い空に、奈崩がモモンガみたいに両手を広げていた。


 目が合う。

「よお」

 ひだる神はわたしの前のコンクリートに重く着地して、向き直り、口の端を醜く歪めた。

 

 筋張った肉が肥大した体躯と、白い鬣(たてがみ)のような長髪が、路地に光を与えている。

 わたしは暗い不快を覚える。


「さっき別れたばかりじゃない」

「感謝しろよぉ。多濡奇ぃ。てめえはよぉ、俺とヤリたいんだろぉ?」

「……はぁ?」

 わたしは眉のかしらを軽蔑に歪め、首を傾げた。

 奈崩は得意げに胸を張った。


「有名だぜぇ。てめぇが、案件仲間と、ヤリたがるのは……っ!!」

 対象が言葉を吐き切る前に、わたしの左右の拳は3発ずつ、その眉間から人中に続くラインに命中していた。

 骨が砕ける感覚。

 でも大丈夫。このひだる神は、少しくらいの重症なら、ヨーグルトで回復する。

 だから、この男の関節という関節、骨という骨を粉々に砕こう、と、わたしは思った。


 でも、わたしは特に奈崩に怒っていたわけではない。


 怒りというものは、羞恥の裏返しだ。

 案件仲間と寝まくる尻軽女であることに、羞恥を感じ、その裏返しとして激しく怒る。


 でもわたしは別に、自分が尻軽であることなど、既に割り切って久い。

 それにこの性癖は、精神的な傷(いた)みを、痛みで薄めたいと思う、ある意味の自己救済である。

 だから、わたしの瞳に、感情はなかった。

 拳に間断はない。

 コンクリートに飛沫(しぶ)く夕立のようなリズムが続いた。

 

 ひとしきりの連打の後で、奈崩は不格好に尻もちをついた。

 右手のひらをわたしにかざして、待て、のジェスチャーをする。

 

 断るというやりとりすらも億劫(おっくう)に感じたので、呼吸を整えながら、立ち上がるのを待つ。


 すると、随分な連打を、無呼吸でしていたのだと気づいた。

 呼吸は体には必要なものなはずなのに、心が快適を感じない。

 これは、目の前の男が、全てを穢しているせいだろう。


 奈崩は胸元からヨーグルトパックを取り出して、弱弱しく吸い込み、一息つく。

 応急だけど急速な回復の後で、尊大にあぐらをかいて、わたしを見上げた。

 いやらしい目で、首を傾げる。


「いいのか? 俺にこんなことしてよぉ」

「いいも何も、喧嘩を売って来たのはあんたでしょ」

 わたしは冷たく言い放つ。


 奈崩は笑った。

 くぐもった声に、背の産毛が自然と逆立つ。


「買った結果も考えねえのかよぉ。多濡奇ぃ、てめえは相変わらず馬鹿だなあ」

 牙のように歯を剥いてまた笑うその顎を、さっさと蹴ればよかったが、わたしは訊いてしまった。


「どういう意味?」

「俺が失敗したら、てめえのせいになるっつうことだぁ」

「は? これくらいの打撃、回復できるでしょ? 子供じゃないんだし。あんた、それでもひだる神?」

 奈崩の唇は嘲りに歪んだ。

 

「俺は回復しねえ。回復しても『ちゃんと戦う』とかはしねえよ。多濡奇、てめえが俺を殴るせいだ」

 わたしはきょとんとした。

 このひだる神の任務は、ロシアのカルト教会を襲う事だ。

 それを、戦わない、と言っている。

 なんだこのフザケたやる気の無さは。

 上等だ。ここでお前を潰して、代わりを境間さんに依頼しよう。

 境間さんならすぐ手配してくれるだろう。


……ここまで考えてから、わたしの脳裏に、助役さんの言葉がリフレインした。


『皆さんの誰が欠けても、確率は大きく下がります』


 生存の確率は25%。

 これは低いようでかなり幸福なものだ。

 4人に1人は生き残れる。


 その確率が、下がる。

 そして全滅の確率は上がる。


 村に生まれて来る子供たちの因果も、救えなくなる。

 わたしの頬から血の気が引いた。

 奈崩は醜く笑顔ってから、悠々と立ち上がる。


「そうだ。俺はどっちでも構わねえ。案件とかガキどもの寿命とか、関係ねえ。だがよぉ。てめえが俺に逆らうのは許さねえ」

 無茶苦茶だ。支離滅裂だ。

 けれど、わたしの周囲から、現実感が喪われていくのが分かった。

 

 この路地裏に、あの夜の闇が降りてくるような錯覚。


 傷みが。痛みが。屈辱が。悲哀が。喪失が。憎悪が。わたしを硬直させる。


 奈崩は、そんなわたしの被り物に両手をかけて、歪め、外し、肩の後ろに捨てた。

 わたしの髪が肩に解けて落ちる。

 それは防壁が崩れたことを意味していた。

 薄暗い都市の闇に、男の剝き出しの白い歯列があらわになる。

 獣臭い息がわたしの額を覆う髪にかかった。


 奈崩はわたしの胸元に両手をかけ、拳を握って、左右に開く。


 わたしの服は下着ごと引き裂かれ、乳房が夜に白く曝(さら)された。


 その解放に羞恥と怒りを覚えたけれど、動けない。

 わたしは声を絞り出す。


「……あんたに、従ったら」

「ああ?」

「あん、たに、したがった、ら。ちゃんと、案件してくれる、の?」

 わたしは、男を見上げてそう訊いた。


 奈崩は沈黙した。

 まなじりが切れるほどに、大きく見開かれた瞳に、冷静が宿る。


 冷静な、失望。

 それから、大きく快楽に煌く。


「そうだなあぁ。だけどよぉ。まずはぁ、殴らせろぉお!!」

 奈崩は拳を振りかぶった。

 相変わらずの大振り、派手でオーバーな身体操作だ。

 避けるのはたやすいが、それは逆らう事になる。


―今だけだ。今だけ、我慢しよう。そう、今だけだから……。―

 わたしは歯を食いしばり、打撃に意識を備えた。


 後ろから、わたしの肩に手がかかった。

 そのまま足を払われる。


 肉体は重力を忘れた。


 夕闇の空と、アスファルトが反転する。

 あまりの急に、わたしは呆けた。


 頬が地面を擦りかけた刹那に、ようやく我に返り、反射的に身をくねらせる。

 地面に片手をつき、天地を回復。

 そのまましゃがみ込むような体勢を取り、斜め後ろに脚を出す。

 三点着地の体勢で、視線を上げる。


 わたし飛ばした主。

 ハーフジャケット。

 ちょっと長め黒髪に覆われた頭部。

 吹き飛ぶ黒のサングラス。


 ……。

 ……!!

 九虚君!!!!!!!!!!!?


「なんだてめえは……っ!?」

「いい加減にして下さい。敬意を払い合う必要はありませんが、最低限、というものがあるでしょうに」

 九虚君は奈崩の言い終わりを待たずに、ひだる神の口を片手でふさいで、こう言い放った。

 

 奈崩はまるで、見開いた瞳に血を走らせて、九虚君を凝視している。

 こめかみにも太い静脈が浮かぶ。

 わたしは轡(くつわ)で牙を封じられた虎を連想した。


 でも九虚君は構わない。

「とても当たり前ですけれど、僕の方が、奈崩さん、あなたより強いです。だから、強者の定めに従って下さい。つまり、」

 そこで九虚君は一度言葉を切り、奈崩の口から手を放した。


「いい加減にしてください」

 奈崩は大きく口を開けた。

「てめえ、俺に逆らったらどうなんのかわかってんのかあ!? 案件潰すぞごるあぁぁあ!?」

「構いません。あなたが怠け者だとして、そういう点も踏まえての確率でしょう。ばば様の宣託は絶対ですからね。俺にはどうでもいいです。それに仮に、あなたのせいで案件の成功確率が下がっても、やる事は変わりません。俺は、俺のするべきことをするだけです」

 彼の言葉には、桜の黒い幹が大地に根を張るような、静かな確信があった。


 それはわたしの弱い心にもいたく響く。

 思わず視界が潤む。


 - 何これ。ずるい位、響く。-


 しかも彼は天然なのだ。

 

……奈崩は、九虚君ではなく、わたしをじっと見てから、視線をそらした。

 舌打ちをする。

 

「青臭え」

 と低く言って、九虚君とわたしの横を通り過ぎ、駅方向に消えて行く。

 その足取りからは、何の感情も感じられなかった。


「全く、多濡奇さんも多濡奇さんです」

 九虚君はトレーナーを脱いで、わたしの胸を隠してくれながら、そう言った。

 この時、わたしは赤面した。

 彼が怒る理由に頭がついていかない。


「え」

「え、じゃありませんよ。何で奈崩さんの言葉遊びにひっかかるんですか? 馬鹿馬鹿しい」

「そう? 」

「そうですよ。あの人の、案件を潰す、てのは、極端な選択です。潰すか潰さないか。行動するかしないか。しないならどこまでしないか。そもそもカルトを潰すのなんて、片手間、子供のお使いみたいなもんですよ。そんな業務、村人ならいくらでも替えがききます。奈崩さんだって分からないわけじゃない。いや、あの人絶対分かってますよ。分かった上での二択です。大したことのない選択肢を大げさに見せるのは、詐欺師とかチンピラの常套ですけどね、俺は好きじゃない。でも、もっと見るに堪えないのは、そんなイカサマにはまる多濡奇さんですよ。最凶なんですから、もっと堂々と……コン」

 とてもありがたく、そしてとても長いお説教の途中で、九虚君は赤い血の塊を吐いた。


 猫が毛玉を吐くみたいだった。

 

 その吐しゃ物みたいな赤はわたしの鎖骨を、生暖かく直撃した。

 わたしはまた呆けてしまう。

 九虚君はアスファルトにしゃがみ込み、やはり狐がコンコンと鳴くみたいに、せき込みながら、血の塊を吐き続ける。


「大丈夫?」

 彼の背をさすりながら、訊く。


「いん、が…コン…の判定です…コン………手加減したのに…コン…」

「ごめん、答えなくていい」

 わたしは納得がいった。

 つまり、この吐血を伴う咳は、彼の因果なのだ。

 彼は因果(のろい)で、ヒトに危害を加える事ができない。

 禁害の戒めを破ったとき、こうなるのだろう。


彼は、アスファルトにうずくまってから、横向きに丸くなり、痙攣を続けた。

 アスファルトは都市の光を黒く集めている。

 暗赤色の血だまりができていく。


 傷ついた狐みたいな衰弱。

 

でも判然としない。

 彼はわたしを投げ飛ばしたし、奈崩の口もふさいだけれど、でもそれだけだ。


 他者への強い身体的接触が、因果(のろい)の鍵なのか?

 いや、今するべきは、そんな分析ではない。

 目の前で衰弱していく九虚君を、どう救うかを考えなければならない。


 けれど彼は苦しげな視線だけを、わたしに向ける。


「俺は、……コン……大丈夫、です。ライブ、行って、くだ、さい」

 力なく、でも精一杯強く、彼はそう言った。


 わたしは、首を小さく横にふる。

 同時に、彼は苦しげに言葉を吐く。


「大切な、子、なんでしょう? 服も着替えないと、コン、間に合いません……コン……はや、く」

 彼を残して行くことなど、できるわけない。

 それに、こうなることも踏まえて、彼はわたしを救ってくれたのだ。


けれど、彼の善意に胸がつまった。


 ―九虚君、本当にいい人すぎるよ。―

「ありがとう、行く、ね」

 わたしは立ち上がり、路地の土埃に薄く汚れた被り物を拾い上げた。

 それから踵を返し、駆け出す。

 ……日本最後の、大学生君のライブに向かって。

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