第3話 ヒーローっぽい九虚君、境間さん、美少女
九虚君は、白ライムグリーンのタートルネックにハーフジャケットを羽織っていた。黒ジーンズの足はすらりと長い。
綺麗なうりざね顔。鼻も口も凛々しいのだが、ちょっと感じの悪いサングラスをかけている。
彼の存在が、歌の衝動を吹き飛ばしてくれた。
別の言い方をすると、わたしは九虚君に安心したのだ。
それは霧が晴れるみたいに。
彼は、じっとわたしを見た。
黒い前髪が陽を受けながら、海風に揺れる。
わたしがどぎまぎすると、彼はその長い眉をひそめた。
「はあぁぁぁぁぁ」
というため息を唇から漏らし、眉間を押さえながらうつむく。
相変わらず、たたずまいも動作も、いらっとする位、優雅である。
「九虚く……」
と言いかけるわたしを、
「……案件でご一緒、です、かあ」
と、さえぎるように嘆きながら、彼はがっくりと肩を落とした。
そのまま遊歩道にしゃがみ込む。
その彼の顎を目がけて、奈崩の靴先が、下から無言の弧を描いた。
男の視線は、
「なんだてめえはぁっ?」
という問いに満ちている。
九虚君はくるんと後転(でんぐりがえし)をして避けた。
そのまま後ろに飛び退(すさ)る。距離が空く。
「てめえ…!!」
空振りによろけた奈崩が低く唸(うな)った。
この男の体術は昔のままの、見掛け倒しらしい。
わたしに九虚君は訊く。
「この方は?」
「奈崩(なだれ)。村人なの」
答えるわたしを傍目(はため)に、奈崩は体勢を立て直した。
拳を肩の上に大きく振りかぶる。
堂々とした隙だらけ加減だ。
九虚君はこの男に向き直り、姿勢を正した。
「……よろしくお願いいたします。九虚と言います」
と言って、深々と礼をする。
奈崩の拳の軌道は九虚君のこめかみをとらえていた。
が、何故か、その動きはぴたりと止まった。
そのまま拳を緩めて、けっ、と言って唾を遊歩道脇に吐く。
遊歩道脇の緑に、小さな白が加わる。
わたしは、何故かそのやりとりが滑稽(こっけい)に思えた。
ひよこの被り物の内側で、唇がもにょもにょする。
すると、潮騒から生臭さが抜けて、陽(ひ)を上空に感じた。
世界に色彩が回復。
― そういえば、ここは横浜だった。 ―
ひよこの被り物のこめかみに両の手のひらで触れた。
そのまま上に押しのけるようにして外すと、髪がはらりと肩にほどけ、海風に横になびく。
わたしは奈崩に向き直り、真っ直ぐに彼の眼(まなこ)を見上げた。
奈崩の心音がわずかに揺れる。
わたしは口角を上げた。
「久しぶり、奈崩。案件、よろしく」
「……おう」
奈崩は目を逸(そ)らしながらそう言った。
そんな彼の仕草に、わたしはとても遠い昔の彼を思い出した。
「……行こう。境間さんがまってる、から」
わたしの声は穏やかだったと思う。
鼓膜に渦巻いていた歌はなりをひそめて、代わりに海風が吹きこんでいた。
「はい」
九虚君が返事をしてくれるのが心強い。
わたしは歩き出す。
彼も合わせて歩き出してくれたのが足音で分かった。
間を1つ置いて、けっ、と言ってから奈崩も。
……つい先ほどの立ち回りで、普通のヒトたちの目も引いてしまっていたので、移動が適(かな)っている。
わたしには他人の視線から外れる癖があるけれど、奈崩にも九虚君にも、そういう癖はないのだ。
移動には奈崩も異を唱えない。
当たり前なのだけど、奈崩だけに意外だが、ありがたい。
境間さんの所に向かう間に、彼とのトラブルにどう対処するかを、考える事ができるからだ。
「……てか、よぉ。多濡奇ぃ」
「何?」
歩きながら肩越しに振り返る。
奈崩は肩をいからせて歩きながら、
「……お前らよぉ、デキてんのかぁ?」
と訊いてきた。
―うわ、さっそくきた。―
わたしの頬は硬直したが、九虚君は、
「案件でご一緒しただけですよ」
と素っ気無く言う。
彼の声は潮騒に吸い込まれていった。
トンビが上空に大きく弧を描きながら笛を鳴らすように鳴く。
案件とは、わたし達村人が携わる特殊任務である。
わたしは彼の言葉に、もやもやとした寂しさを感じた。
― そういえば九虚君には、急(せ)き立てられないなあ。―
わたしには案件で組む男と寝る性癖がある。
衝動と言っても良い。
けれど、九虚君相手にはそれが湧かない。
― これはどういうことなのだろう? ―
彼はキラキラした、清潔感のある男の子だ。
『いくら案件でも無理! 生理的に絶対無理!』と叫びたくなるような男ではない。まあ、わたしがこう叫びたくなる相手は、奈崩くらいだ。
だけどそもそも、寝るに当たって相手の容姿や性格は関係ない。
寝る目的は、案件で組む相手と円滑な人間関係を築くためだが、これは名目に過ぎない。
本当は、ただの自傷行為である。
今回は奈崩がいるので、九虚君を味方にしておく必要がある。
……けれど、急き立てられない。
― 何かが、いつもと、違う……? ―
わたしは奈崩に背を向け、できるだけ抑えた口調で、
「九虚君とはそういうんじゃないの。勘違いしないで」
と言った。
自分の言葉ながら、なるほど、と思う。
つまりは、九虚君を自傷行為に巻き込みたくないのだ。
そして味方として、とても信頼している。
……どうしてそう思うのか、深く考えると泥沼にはまりそうなので、止めた。
だが、何故かもやもやする。
この珍しい感情を普通のヒトは、何というのだろう?
やはりよく分からない。
「……分かんねえなあ。多濡奇はよぉ。相変わらずだなぁ」
後ろで奈崩が何か言っていたけど、気にせずに北進を続けて3分。
芝生広場に着くとすぐに、境間さんを見つけた。
ブラウンのインバネスコートにグレーの鹿撃ち帽の境間さんは、広い緑の芝生の中央に堂々としゃがみ込みんで、大量の鳩たちに、ハト麦を与えていた。
境間さんを囲む鳩たちは大量で、自分の番を待つかのように、クポクポ鳴いている。
境間さんは、笑顔も満面でとても楽しそうだった。
纏う空気もふわふわしている。
初めてお会いしてからかなりの時間がたつのだけれど、この人のこういう所は、本当に変わらない。
そして、視界に入った瞬間、背筋を上る恐怖も相変わらずだ。
八咫烏という言葉が脳裏をかすめた。
陽光の中で鳩たちの餌付けを続ける境間さんを、木立の影に留まる鳩たち、カラスたち、スズメたち、あらゆる鳥たちが、注視している。
ふと、彼を眺めているのが獣たちだけではないことに気づく。
木立に背を預けて、12歳くらいの女の子が1人、境間さんに首を傾げながら、腕を組んでいた。
真ん中で分けて肩の先まで伸ばした黒髪が、葉の隙間から射し込む陽に輝いている。
黒めがちな瞳が大きい。人形さんみたいなくりくり加減だ。
黒のショートスカートに白のレギンス。
レギンスの右足側には猫ちゃんがスカートのすそ下の太ももと膝上と脛(すね)にプリントされていて、とても可愛らしい。
白のブラウスの上に、ビーズがきらきらと散らばった黒のカーディガンを羽織(はお)っている。ちょっと下がった目じりが印象的な子だ。
― あれ? この子。 ―
瞳に覚えがあった。
妹分にしていた子が、昔、意識不明の寝たきりにさせた女の子だ。
当時のあの子が12歳だとすると、今は30歳のはずなのに、あの頃のままである。
しかし不思議ではない。村には色々な体質の者がいるのだ。
女の子はわたしの視線に気づき、眉をかすかにひそめる。
そして、目をそらしつつ唇を小さく動かした。
幼い声をわたしの鼓膜が知覚する。
「……最っ低。何? このメンバー」
境間さんがわたしたちに気づいて立ち上がった。
右手を大きく振ってくれる。
「みなさんおひさしぶりですー!」
声に反応するように、周りの鳥たちが一斉に飛び立つ。
羽根と淡い影がまだらに落ちる下、手を振り続ける境間さんの首元で、黒のネクタイが揺れた。
わたしは口角をあげつつ立ち止まり、両手のひらをみぞおちの前に重ねて、深々とお辞儀をする。
後ろで、奈崩が、けっ、とはき捨てるのと同時に、九虚君の足音が止まった。
多分お辞儀をしたんだと思う。
さきほど、奈崩相手にしたみたいに。
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