第2話 最悪の男、奈崩
- 現在 -
横浜の山下公園へは、みなとみらい線元町・中華街駅から行くことができる。
この山下公園の北の広場で、村の助役の境間さんが待っている予定だ。
ちなみに村というのは、わたし、多濡奇が所属する悪の秘密組織である。
ここには、全国各地の神話や民話の子孫が所属しており、セイレーンの子孫であるわたしも多分に漏れない。
待ち合わせの時間は15時45分だが、せっかくの横浜なので、ひよこの被り物をしながら、色々巡る事にした。
被り物は趣味である。
ちなみにわたしには、無意識に他人の視線から外れる避ける癖がある。
そのため、これを被っていても人目は引かない。
この横浜めぐりは朝の8時の石川駅から始まった。
回った先は、横浜中華街、白い室内犬が可愛いブリキの玩具館、マリンタワーに氷川丸である。
わたしは、生涯で最後かもしれないこの横浜を、大変堪能した。
この横浜めぐりの最後、被り物を外して、潮風に吹かれて髪を押さえながら、東京湾に黄昏たりしているうちに、予定時刻の15分前になってしまった。
この事実を、右手首の静脈側に着けていた時計で確認、ため息をつく。
午後の陽に煌めく海面にもう一度目を細めてから、再びひよこを被る。
それから遊歩道を北に、芝生広場に向かって歩きだした。
おしゃれなカップルが行き交う光景を、被り物側の覗き穴から眺めつつ、2分ほど進んでから、ふと思う。
― 案件から生き帰ってこれたら、九虚君を誘ってもう一度ここに来よう。あの子は優しいから、付き合ってくれる……かな? 多分。うん、多分。―
九虚君は村人で、妖狐の子孫だ。
治癒能力者でもある。
つい最近わたしが依頼を出した任務で、大切な子を治癒してくれた。
24歳だから、わたしより8歳年下のとてもいい男の子だ。
「よお、多濡奇ぃ」
と声をかけられた。
覚えのあるというより、忘れる事を試み続けた不快感が一気に押し寄せる。
体の芯が硬直した。
それが奈崩(なだれ)の声だったからである。
……一目で巨体と分かるその男は、ベンチに浅く腰をかけていた。
足を投げ出して腰の前に組んでいる。
黒のライダーズジャケットに、赤や黄の塗料が付着したブルージーンズ。
14年前の奈崩は体内で暴れ狂う因果(ちから)のために、とてもやせ細っていたから、体型はあの頃と全然違っている。
けれど白髪と、病的な白い肌は、相変わらずだった。
爆発するみたいに長く伸びた総白髪。
前髪は右側の方の顔にかかるほど長く、横髪が潮風に後ろになびいている。
この男は奈良の、ひだる神の末裔である。
ひだる神は、病と飢餓をもたらす神、つまり疫病神だ。
村では斑転(はんてん)と呼ばれている。
つりあがった目じり、白目が大部分を占める瞳が、わたしを見据えていた。
心音同様、無感情な瞳だ。
これもあの頃と変わらないが、違和感を覚える。
― こんな感じだったっけ? ―
奈崩は下卑た笑いを作った。
親近の情を無理やり作ろうとするような笑いだ。
しかしこの男は笑うような男ではない。
昔、炭焼き小屋で、この男は笑った。
あの夜、わたしのこめかみに拳を叩きこみ、腹を蹴り上げながら、笑い続けた。
だが、笑うのを見たのはあの時だけだ。
「相変わらず、ひよこ、好きだなぁ。多濡奇ぃ」
と言って、奈崩がバネが跳ねるように立ち上がる。
その時、潮騒の香りが生臭さを増し、代わりに波の音が微かに微かにひいていくような錯覚を覚えた。
裏腹に道行く人々の心音の量が増大。世界に反響していく。
景色の意味が油絵のように溶け、全身の産毛が逆立つ。
わたしは知らず知らずのうちに、戦闘態勢に突入していた。
奈崩が歩いてくるのに合わせて、この足は自然と後ずさりする。
こみ上げる歌の衝動。
歌は、これは呪悔(じゅかい)の歌だ。
― いけない。ここで歌ったら、巻き込んでしまう。たくさんの人たちを。 ―
わたしの鼓膜には、常に旋律が渦巻いていて、歌うことを要求する。
そして、この歌を聴いた人は、死や狂乱、醒める事の無い眠りに誘(いざな)われる。
これがわたしの因果だ。
因果とは、村人がその血統に宿す祝福と呪いをさす。
村人はこの因果を駆使して戦う。
「そんな硬くなんなよ。てめえがこの時間にここってことはよぉ。偶然じゃねえよなあ。俺もてめぇも案件だろ? 仲良くしよおぜぇ? 多濡奇ぃ」
その通りである。
だからこそ、わたしはこの男を殺したい。
― 歌を、抑(おさ)え、ないと……!! ―
奈崩がわたしの前50㎝に立った。
近すぎる。
海風が生臭(きつ)い。
「何固まってんだよお? 俺が声かけてやったんだぜ? 仕事仲間にしかとかよ?」
奈崩の声のトーンが低くなった。
歌の衝動が臨界を迎えかける。
その時、
「多濡奇さん?」
と九虚君の声がした。
斜め後ろを振り返ると、九虚君が立ってくれていた。
不意に、鼓膜の奥から呪悔の歌が消える。
呪悔の歌は、わたしの親友を殺したこの男に、あの日、歌えなかった歌だった。
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