第七章 『麒麟』

第104話「人生で家族以外に最も話しかけた相手は動物」

 ――早朝。

 太陽が薄っすらと出始める頃、僕はいつものランニングコースを走る。

 いつもの、と言っても別にコースが決まっているわけではない。

 迷わない程度の範囲にその日の気分で走るのだ。

 と言うのも同じ場所を走り続ければ、足が地面を覚えてしまって警戒が無くなってしまうからである。

 だから僕は毎日道無き道を好き勝手に走るようにしていた。


「まあ、全部きよさんの受け売りなんだけどね」


 腐って倒れた倒木を踏まない様に避けながら、僕は一人苦笑する。

 目指す先は山頂付近にある小さな滝壺だ。

 そこを折り返し地点として、いつも給水と休憩をしている。


「ふぅ~」


 僕はその場所に辿り着くと、タオルを濡らして顔を拭く。

 非常に冷たい水が肌に染み渡って気持ちいい。

 そうして一息ついていると、どこからか女の人の息を呑むような声が聞こえてくる。

 僕は何事かと、声のした方に素早く視線を向ける。

 すると銀色の何かが木々の間に引っ込むのが見えた。


「――誰か、居るんですか?」


 僕は銀色の何かが消えた木々の辺りに恐る恐る声をかける。

 人の言葉が理解できるかどうかは分からないが、何か居たことは確かだ。

 僕は極力刺激しない様、声を掛けながらゆっくりと近づいていく。

 するとそこには――。


「ヒ、ヒヒーン」


 純白の体と銀色の鬣を持つ一頭の馬が居た。

 何だ、さっきの『ひっ』って声はコレだったのか。

 僕は少なからずほっとする。

 何故なら知らない女の人よりも、野生の動物の方が慣れたものだからだ。


「キミも水を飲みに来たのかな?」


 僕は少し怖がっているかの様に見えるお馬さんに話しかけた。

 言葉が通じないのは勿論分かっているが、ニュアンスが伝われば意思疎通は出来る。

 出来る限り優しげな声音で警戒心を抱かせないようにしながら、僕は徐々に徐々にお馬さんに近づいていく。

 実はこんなに綺麗なお馬さんを見たのは生まれて初めてなのだ。

 その姿を見れば見るほど僕の中でとある要求がふつふつと湧き上がってくる。


 ――触りたい、お腹に顔を埋めたい。


「………………」


 僕の邪な胸中を感じ取ったのか、お馬さんは僕から距離を取ろうとする。

 だが諦めたのか、直ぐに動きを止めた。


 ――これって触っていいってことだよね?


 僕は心の中で勝手に事後承諾すると、恐る恐るその綺麗な銀色の鬣に触れた。


「わ~、サラサラで気持ちいい」


 僕が触ると、驚いたのかお馬さんはビクリとする。

 しかし、逃げようとはせず次第に目を細め気持ちよさそうな表情をし始めた。

 僕はその事に気を良くし、もう一方の手でお腹を撫でる。

 お馬さんは怖がりなのか、また一瞬ビクリと震えるが直ぐにトロンと目を細めた。

 何だかんだ撫でられるのが好きな様である。


「それにしても……」


 僕は撫でながら額のとある一点を見る。

 その場所は普通のお馬さんにはないものだ。

 長く固く美しい一振りの角。

 まるでユニコーンの様な、綺麗な角がお馬さんから生えているのだ。


 ――あれ? こっちがユニコーンで正しいんだっけ?

 でも、ユニコーンのクリスティナさんは人型だし……。


「あれ? あれ?」


 僕はお馬さんを撫でながら混乱の極地になるのであった。



 †



 ――とんでもない失態を犯した。


 今、私の胸に去来するのは後悔と罪悪感。

 そして何よりも至福の心地。


 ――あぁ、どうしてこんな事になったのだろうか。


 私は先程までの出来事を振り返る。

 交流戦で無様な姿を晒してから、私は強くなろうと決意した。

 しかし決意したはいいが、一朝一夕で強くなれる訳はない。

 千里の道も一歩から、まずは体力と筋力作りの為に走り込みを始めたのである。

 交流戦の所為でクラスが離れてしまったキョウさんと、あわよくば一緒にトレーニング、なんて甘い幻想を抱いていた訳では断じてない。

 それが証拠にキョウさんが戻ってきてからもトレーニングは続けている。

 ただ、今日に限ってコースが被ってしまっただけなのだ。

 そして現在――。


 私は『』となっていた。


「………………」


 キョウさんの優しい手遣いに、私はパタパタと尻尾を揺らす。

 頭、髪、うなじ、脇腹と、普段のキョウさんであれば絶対に触れようとはしない箇所を遠慮なくまさぐってくる。

 正直気持ち良すぎて理性が飛びそうになる。

 しかし、今ここで理性を飛ばす訳にはいかない。

 私は歯を食いしばって耐える。

 ここで理性を飛ばしてしまえば、獣化が

 と言うより違う意味で私が獣になってしまうだろう。

 正体がバレるのも嫌だが、流石にそれだけは回避したかった。


 ――それにしても……。


 と、私はキョウさんを観察する。

 仕草からは私だとは気づいていないはずだ。

 普段のキョウさんと輪廻さんの様子を見るに、キョウさんは形態変化出来る妖魔の事を知らない。

 私や輪廻さんの様なタイプの妖魔は、人化の法とは別に姿を变化させることが出来る。

 そもそも人化の法はただの擬態でしかないので、厳密には意味合いは違うのだが今はいいだろう。


「あ~、お腹もすべすべだ~」

「――――っ!!」


 突然キョウさんに頬ずりされて、私は声を上げそうになる。

 ここは我慢だ。

 我慢しなければならないのだが、キョウさんが肋骨の上あたりを撫ぜるたびに変な声が出そうになる。

 馬の体からすると何でもない部位なのだが、、そんな錯覚に陥りそうになるのだ。

 私は臍の奥が締め付けられるような感覚を味わいながら、ただ只管耐えぬいた。


「それにしても……」


 キョウさんは一頻ひとしきり撫でて満足したのか、視線を私の角へと移す。

 天国の様な地獄から開放された私はそっと一息つく。

 少し名残惜しいと思ったのは秘密である。


「やっぱりクリスティナさんの角によく似てるなぁ」

「――っ?!」

「あっ、クリスティナさんって言うのは学校の友達でね……」


 私はバレていないことにほっとする。

 これがキョウさん以外であるなら、嫌がらせに話しかけてきている可能性があるが、キョウさんに限っては絶対ないと言い切れる。

 キョウさんは相手を騙すなどと言う詐欺行為の対極にいる様な人だからだ。

 恐らく『誰かを騙して何の意味があるんですか?』など言うに違いない。


「真面目で、怒ると怖くて。でも優しくて、綺麗で。勉強が全然できない僕に色々と教えてくれるんだ」


 憧憬の様な表情をしながら、本当に嬉しそうな顔をするキョウさん。

 その表情に私は強く胸を締め付けられ、思わず抱きつきたい衝動に駆られた。

 どうしてこんなにも純真で可愛らしいのだろう。


「でも、最近ちょっとすれ違ってるというか、何と言うか、ちょっと距離を置かれてるみたいで……」


 私が衝動を抑えてプルプル震えていると、キョウさんはぽつりぽつりと胸の内を吐露するように語り始める。

 しかしその可愛らしい表情は、みるみるうちに曇り始めていく。


「原因は多分交流戦だと思うんだけど、どうしてそうなったのかとか、全然分からなくて。僕、嫌われちゃったのかな?」


 今にも泣きそうな、悲痛な声でキョウさんは俯く。

 私はその悲痛な声に、身を引き裂かれるような痛みを覚える。

 それは比喩ではなく、本当に心が悲鳴を上げているのだ。


 ――これは私がキョウさんに好意を抱いている所為だろうか。


 心臓を針で突かれている様な痛みに、私は顔をしかめる。

 恋は人を変えると言うが、その相手が悲しむだけでこんなにも辛いものなのだろうか。


「嫌われちゃったのなら、身を引いたほうがいいんだろうけど……。でも僕嫌だよ、初めて出来た友達なのに、別れたくないよ。でもクリスティナさんには幸せで居て欲しいし、どうしたら――」

「――――――」


 私は居てもたっても居られず、角をキョウさんの頭に押し付ける。

 『能力』を発動させる為だ。

 ユニコーンの角は外傷だけではなく、心の傷も癒やす事が出来る。

 、今はこれで十分だろう。

 この悲痛な顔を笑顔に変えれるのであれば、私は何でも良かった。


「あっ……この能力は……」


 キョウさんは驚いたかの様に顔を上げる。

 それはそうだろう。

 能力を使えば一発で私だと分かる。

 私は正体を晒すため、獣化を解こうとした。


「キミはクリスティナさんのお仲間、なのかな?」

「…………」

「うん、やっぱりそうだ。妖気も凄いよく似ているし、この凛々しい顔もクリスティナさんっぽい、角なんて全く一緒だ」


 先程までの落ち込みようはどこへやら。

 キョウさんはまるで子供のようにはしゃぐ。

 私は一先ずその様子に二重の意味で安堵した。


 ――しかし、それにしても。


 私はベタベタと無遠慮に顔を触ってくるキョウさんを見ながら思う。

 本当に、本当に、と。

 いやそもそもこんな頭で学校を卒業できるのだろうか。

 就職は?

 肉体労働ならどこでも引っ張りだこかも知れないが、詐欺や悪い女に引っかかりはしないだろうか。

 私はキョウさんの将来が心の底から心配になった。


 ――そういう事も含めて私がしっかりしないと。


 私は今後のキョウさんとの接し方を含めて、改めて決意を確かにするのであった。



 †



「あれ?」


 ランニングの帰り。

 僕は見覚えのある後ろ姿を目にする。

 女の子の様な小柄な体に、茶色い綺麗なツインテール。

 何処からどう見ても女子生徒にしか見えない風貌の男子、真さんである。

 その真さんが知らない女子生徒と並んで一緒に歩いていた。


「――――」


 僕がもう一人の女の子に視線を向けると、ちょうど振り返ったその人と目が合う。

 黒髪の真面目そうな風貌。

 それでいて堅苦しさを感じさせず、人当たりの良い清涼感漂う笑顔をしていた。

 クラスでも見た事が無いので、恐らく先輩なのだろう。

 そんな事を考えながら見つめていると、その先輩は少し驚いた顔で笑いながら真さんの肩を突付く。

 それで漸く真さんは僕に気がついた様である。


「って、キョウ? こんな早い時間からなにしてるの?」

「えっと、ランニングだけど……」


 意外そうな顔をする真さんに、僕は答える。

 と言うよりもその質問は寧ろ僕がしたい。

 こんな早い時間に真さんは知らない人と何をしているんだろうか、と。

 普段より遅刻ギリギリでの登校となる事が常なので、純粋な疑問だったのだ。


「へ~、そういえば修行してるとかいってたっけ」

「じゃあ、やっぱりあなたがキョウ君ですか? マコちゃんが褒めていましたよ、物凄く強いって」


 先輩の言葉に僕はよく分からず首を傾げた。

 やっぱり? あの?

 どういう意味だろうか。


「ほ、褒めてないって、もうやだなぁ、桃さん」

「もう、恥ずかしがらなくてもいいんだよ。女性なら強い男性を慕うのは当然なんですから」

「うぅ……」


 桃さんと呼ばれた人に言われ、真さんは顔を真赤にする。

 女性と言う単語に違和感を覚えながらも、僕は聞き流す事にした。

 恐らく突っ込んではいけない事柄なのだろう。


「あ、あの、二人はどうしてここに?」


 そのまま仲良く談笑を始める二人を前に、僕は意を決して尋ねた。

 交流戦が始まる前はこんな接点なかったはずである。

 ただ単に僕が知らないだけかもしれないが。


「漸く私達の番が来たんです」


 そう言うと桃さんは左手の薬指に輝く指輪を見せてくれた。

 僕は見覚えのあるそれに声を上げる。


「あっ、エンゲージリング」


  見覚えのある指輪は、先週僕らがつけていたものである。

 色んな事があったから印象が薄れていたけれど、思い返せば真さんも交流戦でペアの人と最後まで残っていた気がする。

 僕は朧気ながら交流戦での記憶を思い出す。


「そ、先週はキョウ達が使ってて使えなかったんだけど、今週からは私達の番ってわけ。――――それでそのキョウ」

「?」


 僕は真さんに少し離れた場所まで引っ張られる。

 それでいて頻りに桃さんの方を振り返っていた。

 一体どうしたのだろうか。


「ど、どうだった?! どっちが先にベッドに誘った?! 雰囲気はっ?! 血とかいっぱいでなかった?!」

「? 普通に一緒に……ですけど。それに血?」


 血が出るだなんて真さんの中での泡沫館でのイメージではどうなっているのだろうか。

 僕は赤く染まるベッドを想像して、血の気が引いた。


「あぁそっか、初めてじゃない可能性もあるんだった。そうだよね、先輩だもんね」

「はぁ」

「じゃあ逆にリードしてもらえたんだ。いいなぁ、私もリードしてほしいな」


 何だかよくわからないが、僕の答えで真さんは満足した様である。

 まあリードと言えば、常に美鈴さんにリードされていた。

 あれは美鈴さんが仮面を被った状態なのだろうが、よくよく思い返せば所々可愛らしい一面の方も多少出ていた気がする。

 泡沫感での思い出を想起していると、真さんに突っつかれた。


「その、妖魔の人って結構体力あるよね? 何回も求められたりとか、しなかった?」

「? 毎晩夜中に突然捕まえられることはあっても、満足?すれば開放してくれたよ」

「うわぁ、毎晩満足するまで求められるのか……。私の体力で持つかな」


 真さんは『栄養ドリンク大量に買わないと』とよくわからない事をブツブツ呟いていた。

 しかしあれは識さんだけの様な気がする。

 少なくとも美鈴さんには一度も捕まえられたりはしなかった。

 識さんは泡沫館でも普段と変わらない状態だったが、焦ったり、寝相がすごく悪かったりと普段では絶対見られないような一面も見る事が出来た。

 少しは仲良くなれただろうか。


「内緒話ですか? 私も混ぜてほしいなぁ、なんて」

「うわぁっ?!」


 ひょこっと顔を出した桃さんに、僕と真さんは驚く。

 二人共考えに耽っていた所為もあるが、あまり気配を感じなかった。 


「もう、そんなに私以外の人と仲良くする様を見せられたら、嫉妬しちゃいますよ」


 少しむくれる桃さんに、真さんは慌てる。


「ち、ちがっ、違うんだってば桃さん。コイツと私はそんなのじゃないからっ!!」


 力強く断言され、僕の心は暗く沈む。

 そんなに強く断言しなくてもいいのに……。

 落ち込む僕を無視して、真さんは言葉を重ねる。


「私にとって大事なのは桃さんだけです!!」

「私もですよマコちゃん。私にとってあなたは掛け替えのないものなのですから」


 僕を放置して、しっかりと抱き合う二人。

 美しい友情……なのだろうか。

 僕は二人が少し羨ましくなった。

 僕とクリスティナさんもこんな風に親しくなれたらいいのに。

 そんな風に思っていると、抱き合っている最中の桃さんと目が合う。


「……………」


 僕を見ている様な、別の誰かを見ている様なそんな視線である。

 そんな奇妙な視線から僕はしばらく目が離せなかった。

 しかし僕が瞬きすると同時に先程の人の良い表情となっている。

 ただの見間違いだったのだろうか。


「じゃあ、私達はもう行くね。キョウ君もまたね」

「あっ、はい」


 仲良く手を繋ぐ二人を、僕はただ呆然と見送るのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る