『妖魔と慰魔師のバレンタイン 後編』
「その後体の具合はどうでしょうか?」
放課後、やや過剰に心配されながら僕はクリスティナさんと一緒に下校中であった。
刹那さんの一件があって以来、クリスティナさんはまるでボディーガードの様に僕の周りをウロウロしている。
チョコを持って近づいてくる女子には睨みつけて追い払い、断固として寄せ付けなかった。
僕としては別にチョコ食べた後も食べる前も何も変わっていないと思うのだが、いくらそう言っても信じてはもらえず、現在までこの有様と言う訳だ。
因みにではあるが朱さん達はまだまだ美鈴さんを手伝う必要がある様で、学校に残っている。
僕も手伝いたかったのだが、全員から反対されて下校となっている訳だ。
「本当に大丈夫です。クリスティナさんの力のお陰で体調もバッチリですし」
「それならば良いのですが」
そう言いつつもクリスティナさんはどこか疑いの眼差しで僕を見る。
本当に何をそんなに心配しているのだろうか。
僕は帰ってきた大量のチョコレートが入っている袋を抱えなおすと、そっと溜息を吐いた。
僕の体の事はまあどうでもいい。
寧ろ問題はクリスティナさんの方だろう。
こうしてクリスティナさんとの距離が近い事は喜ばしい事なのだが、昼休みからずっと神経を張り詰めらせているので体調が心配になる。
「えっと、クリスティナさん」
「何でしょうか?」
「僕の勘違いだったらいいんですけど、なんだかクリスティナさん無理にピリピリしてませんか?」
「えっ?! いえ、そんな事は……」
明らかに視線を逸らしながら、クリスティナさんは言葉を濁す。
そんなクリスティナさんを僕は無言で見つめる。
銀色の髪と彫刻の様に整った顔立ちがやっぱり綺麗である。
そんな事を思いながら無心に見続ける事数十秒。
「……ない、と言うのは嘘になりますね」
視線に根負けしてクリスティナさんは盛大に溜息を吐いた。
やはり無理をしていたのだろう。
僕は密かに胸を撫で下ろした。
「実はその……私もキョウさんにバレンタインのチョコレートを作ってきたんです」
どこか自信なさそうな顔で、クリスティナさんは綺麗に包装されたチョコを取り出す。
朝から一緒に居たのに全然そんな素振りがなかった為、僕はてっきりクリスティナさんからは貰えないと思っていた。
なので僕は期待に胸を膨らませる。
「ただその、私は普段からチョコレートなど口にすることはないので、うまくできているかその……」
「大丈夫です、どんな事になっていたとしても、クリスティナさんのチョコは絶対食べます」
「……キョウさんそれ、あまりフォローになっていません」
「あれ?」
「それでせめてものと、健康に良さそうなものを入れようと思いまして」
目を逸らしながら、気まずそうな顔のクリスティナさん。
その様相から何だかおかしな方向に話が進んできた気がした。
「なのでその、……角を煎じたものを入れてしまいまして」
「角?」
何の角だろう。
鹿の角でも入れたのだろうか。
僕はチョコレートの材料に考えを巡らせる。
しかしクリスティナさんは己を恥じる様に首を横に振った。
「わ、私の角です。能力と同じく万病を治す作用があるのでつい入れてしまったのですが、よくよく考えなおしてみれば、今回騒がせた手作りチョコと同じことをしていることに気付きまして……。やっぱり気持ち悪いですよね、改めて作りなおしてきます」
慌ててクリスティナさんはチョコをカバンに戻そうとする。
しかし僕はその前にその手を掴む。
この手は絶対に掴まなければならないと、感じたのだ。
「気持ち悪くなんてないです。クリスティナさんから貰えるものなら、僕はなんだって貰います。さっきも言った通り、絶対に全部食べます。だってどんなものでも嬉しいですから」
「キョウさん……」
「それに――」
と、僕はクリスティナさんの手を掴んだまま一歩近づき。
驚いているクリスティナさんに抱きついた。
「なっ?! と、突然どうしましたか?」
「ユニコーンにとって生命と同じくらい大事なものを、僕のために削ってくれたクリスティナさんに僕は嬉しい気持ちでいっぱいです。だからそのチョコを僕にください」
「キョウさん……」
クリスティナさんは僕の腕の中で恥ずかしそうにしながらも、逃げる事無く抱きしめられ続けている。
全身から感じる温もりと、森林の様な香りが僕の鼻孔いっぱいに広がっていく。
初めて会ったあの日からこの香りは大好きだ。
そんな理由もあって、僕は鼻を擦り付ける様に更にギュッと抱きついた。
「キ、キョウさん?! あ、あの、わ、分かりましたから。続きはその……ひ、人目の付かないところでお願いします」
「ご、ごめんなさい」
クリスティナさんの声に慌てて離れると、いつの間にか僕らの周りに人だかりができていた。
丁度男子寮のエントランスで抱き合っていた僕らは、嫌でも目についたのだろう。
その事に気付き、赤面しつつも僕はなんとか言葉を振り絞る。
「じ、じゃあその、ぼ、僕の部屋ででも」
「……はい」
そそくさと僕らは互いに距離を取りながら、でも何処と無く近い距離で歩く。
僕の手にはクリスティナさんが離れる際にくれたチョコがあり、足取りは自然と軽くなった。
「クリスティナさん、僕お返し頑張りますから。このチョコに応えれるよう精一杯頑張りますから。あ、でも何かリクエストとかってありますか?」
「………………ブラッシングを。いえ何でもありません」
顔を赤く染めながら、クリスティナさんはゴホンと咳払いをする。
僕はその言葉を忘れないように、しっかりと頭のメモ帳に書き留めた。
具体的にどんな事をしていいのかさっぱりわからないが、識さんに聞いてでもなんとかしよう。
「キョウさんのしてくれることであれば、私もどんなことであろうと嬉しいです。期待して待っていますね」
透き通るような笑顔を向けながらクリスティナさんはそう言う。
その顔に僕は改めてクリスティナさんが美人だと言う事を再認識するのであった。
「さ、寒いですし、早く中に入りましょうか」
僕は照れを隠す為と、先程聞いたブラッシングと言う言葉を記憶しておく為に急いで自分の部屋の鍵を開けようとする。
「あれ?」
「どうしました?」
鍵を開けようとして気付く。
部屋に鍵がかかっていない事に。
朝出る時にかけ忘れてしまったのだろうか。
僕は首を傾げながら扉を開く。
「ただいま~。――――っ?!」
僕は扉を開けた先にある異様な光景に硬直する。
部屋は甘ったるい程の香りで満たされており、そこら中に茶色何かが飛び散っていた。
浴室は何者かの手形が無数についており、宛ら殺人者から逃げようとした人が必死に扉を叩いたような様相となっている。
そして一番目を引くのは――。
「っ?! これは一体?!」
少し遅れる形で中を目撃したクリスティナさんが、僕と同じく目の前の光景に固まる。
それはそうだろう。
何故なら部屋の中央に『血』と書かれた、禍々しいデザインの巨大な壺が鎮座しているのだから。
しかもそれだけではない。
2,3人は軽く収納出来そうなサイズのソレからは、脚の様なものが4本生えていた。
まるで悪魔の贄に捧げられたかの様に、その壺の中に焚べられている。
あまりのショッキングすぎる光景に僕とクリスティナさんは声を上げることも出来ず、ただ硬直する事しかできなかったのであった。
†
――キョウ達が来るより少し前。
鍵の掛けられたその部屋の施錠を外し、中に入る者が居た。
「…………」
その者の姿は見えず、それでいて息を殺しながらそっとキョウの部屋へと踏み入る。
仮に先客が居たとしても、この僅かばかりの気配に気づく事は非常に難しいだろう。
ただし、その種が割れている場合は別であるが。
「おやおや? こんなところに姿を隠してなんの用かな?」
施錠された扉が解錠される僅かな音を感じ取り、キョウ愛用の毛布に包まっていた不死鳥は、その姿を人型へと瞬時に変化させる。
無論その正体は転校生かつ、キョウのペットとして飼われている輪廻であった。
「ちっ、学校で姿を見ないと思ったら」
「今日は乙女の決戦日だぜ? 学校なんて行ってる暇無いね」
「当日に準備している時点で負け戦決定ね」
胡座をかいて踏ん反り返っている輪廻を前に、くうは姿を現す。
その手にはシンプルに包装されたハート型のチョコレートがあり、キョウにチョコを渡しに来た事は明白だった。
当然輪廻はそれを目敏く見つける。
「あれれ~~? その手に持っているのはなにかなぁ? もしかして手作りチョコレートにゃのかにゃあ? 料理もしたことないのにぃ?」
「触るな焼き鳥。それに料理に関しては人のこと言えるような立場じゃないでしょ」
「はぁ?! あたしは出来るんですけどぉ? お前の様な食う寝る壊すの非生産産業廃棄物陥没乳女と一緒にしないでくれますぅ?」
輪廻は立ち上がると同時に盛大に挑発的な口調でくうを煽る。
その勢いとウザさにくうの我慢は早くも限界になろうとしていた。
「――どうやら殺されたいようね」
「いいからその手作りチョコ(笑)をみ~せ~ろ~よ~」
「殺す」
「やってみれ♪」
二人の妖気が部屋を満たし、爆発する寸前。
浴室の戸が開くと同時に何者かが現れた。
あまりの異常な登場に、普段の喧嘩であれば手を止める事の無い二人ですら思わず視線を向けてしまう。
『やめないか二人共。女の戦というのであれば陰湿な脚の引っ張り合いなどせず、堂々と
浴室から登場したモノとは、茶色い人型のヘドロであった。
動作する度にべちょっと言う生々しい音と、噎せ返るような甘い匂いに二人は思わず硬直する。
「おい、糞みたいな色の化け物が突然出てきてあたし達に説教しようとしてるぞ」
「気色悪い」
茶色の人型の塊は、緩慢な動きながらも浴室から二人に向かって進み始める。
一歩踏み出す毎に茶色の粘液が膿の様に零れ落ちて行き、キョウの部屋を汚していく。
流石の二人もその光景には唖然としたらしく敵対をやめ、謎の生き物を警戒し始めた。
『今は決戦直前で気が高ぶっているというのは分かる。かく言う私もそうだ。だが、だからと言って八つ当たりをしていいわけではない。寧ろ私達は好敵手と書いて友と読む存在だ。お互いに高め合いながら決戦に臨もうではないか』
「マジで気持ち悪いんだけどこいつ。お前のいつもの奴でぱっとやってちゃっと消してくれない?」
「嫌よ。こんなので空間を汚したくない。そっちこそ得意の自爆でそいつ毎消え去ってくれない?」
迫り来る茶色の物体を前に二人は後ずさりしながら、互いに掃除役を押し付けようとする。
唯の化け物であれば、二人にとって何ら脅威ではないのだろう。
だがそれが人と同じ言葉を喋り、且つ正論を述べていると言うアンバランスさが底知れぬ薄気味悪さに拍車を掛けているのだ。
端的に言って関わりたくないと思うのは当然の感性である。
『成程、言葉では納得出来ないほどにお互いを意識しているというわけか。わかった、そこまで互いに根ざす問題が深いというのであれば、私が一肌脱ごう』
「おいこいつ脱ぐらしいぞ。脱皮するみたいだぞ」
『さあ、二人で私の肢体を存分に舐めるといい。何材料はまだまだある。チョコレートを食べて3人で落ち着こう』
「そんな茶色のヘドロを口にする奴なんて居ない」
茶色の生物は浴室から、3人ほど入れそうなサイズの巨大な壺を部屋に置く。
壺の真ん中には『血』と書かれており、化け物の体と同じ粘液がその中身を満たしていた。
理解不能な化物を前に、二人はアイコンタクトを取る。
「――とりあえず」
「あぁとりあえず」
『ん? どうかした――』
「これは封印安定ね」「これは封印安定だな」
両手を広げ、ぼたぼたと茶色の粘液を振りまきながら迫る生物に、二人は息のあった動作で蹴りを入れる。
そして素早く浴室に結界を張り、言葉通り封印した。
『ま、待ってくれ、私の話を……』
浴室の戸をバンバンと叩きながら中にいるヘドロは訴え続ける。
その際に手形が張り付き、浴室の戸をホラー映画のような手形だらけに変えてしまう。
寧ろ現実に茶色のヘドロが扉を叩き続ける光景など、ホラー映画よりもホラーだろう。
だが二人はそんな光景を気にもとめず、部屋中央に置かれた壺へと視線を向けた。
「つーか、この悪魔召喚の触媒みたいな壺、戻し忘れてるんけど」
「廊下にでも出しておけばいい」
「酷いな」
先程の事など何もなかったかの様に会話を続ける。
仲は悪いが、長年一緒に暮らしているだけあって息は合うのだろう。
特にこのような事態にでもなれば、尚更である。
「それよりこの惨状どうするよ。キョウもうすぐ帰ってくるんじゃないの?」
「そんな事私に関係ない」
「ふざけんな、このままじゃあたしの所為になるじゃん」
輪廻の制止を振り切り、知らぬ存ぜぬと部屋から出て行こうとするくう。
しかし輪廻はその腕を掴み、阻止しようとする。
自室に戻れるくうとは違い、普段はペットとなり喋る事のできない輪廻はこの惨状を片付けるしか選択肢がないのだ。
故に共犯者の道連れを見す見す逃すはずもない。
「――離せ」
「だ・れ・が・は・な・す・か」
壺と茶色の粘液塗れの床の側で二人は互いに引っ張り合う。
だが両者の膂力は互角ではなく、くうが優勢であり少しずつ玄関に向かいつつあった。
二人の均衡が破られそうなその時――。
『あれ?』
『どうしました?』
玄関の方から鍵をガチャガチャ回す音が鳴り響く。
キョウが戻ってきたのだ。
それも誰かを連れて。
それに逸早く気が付き、二人は引き合いを止めて視線を交差させる。
「やばい、あたしはピーちゃんに戻る!!」
「逃げる気?」
鳥獣化し、逃げようとする輪廻の腕を今度はくうがしっかりと掴む。
天秤の拮抗が逆転したのだ。
「おいてめ、さっきと言ってること逆だぞ?!」
「死なば諸共よ、寧ろお前だけ死んで」
「いいや生きる、あたしは生きるね。死ぬのはお前だ。――――っておわっ?!」
「っ?!」
急な方向転換に、輪廻は茶色の粘液を踏んで滑ってしまう。
それに釣られて手を掴んでいたくうも、思わぬ方向に強い力で引っ張られていく。
そして二人の背中には丁度巨大な壺があり――。
「あ」
「……最悪」
二人仲良く頭から壺の中へとダイブする羽目となったのだ。
――そして現在。
「どうする?! これどうすればいいのこれ?!」
「考えたくもない」
上半身をチョコがたっぷり入った壺に浸けながら、二人は壺の底で会話する。
普通の人間であればすぐに息が持たなくなり窒息してしまうが、二人は妖魔である。
小一時間潜水しても全く問題ない体をしていた。
「あの、キョウさん。何やら壺からボコボコと怪しげな気泡が……」
「た、助けたほうがいいですよね?」
「危険があるやもしれません。ここは私が……」
クリスティナはキョウを後ろに下がらせ、一先ず足を突付いてみる事にする。
「なんか触られてるんだけど?!」
「…………」
「と言うかこの姿だけはキョウに見せたくない」
「それは同意ね」
「じゃあいつもので消せよ」
「消せば私だってことがバレるでしょ。本当に馬鹿ね」
「馬鹿はお前だ。自分の今の状況客観的に見てみろよ?! 二人並んで仲良く犬神家状態だっつーの」
突くと足はバタバタと動き、気泡は更に数を増す。
「何やら突くと気泡が増えましたね。これは本当に助けを求めているのでは?」
恐る恐る壺の中身を覗き込んでいたクリスティナは、沸き立つ気泡の量から中の二人が生きていることを半ば確信する。
得体の知れないものに対する恐怖よりも、人命救助の心が勝ったのである。
「今助けますっ!!」
中の人に聞こえるように、クリスティナは大声を上げると突き刺さった脚、二組を同時に引っこ抜きに掛かった。
「ぬ、抜かれてたまるか~~っ!!」
「なんで私がこんな屈辱的な状況に」
対する二人は抜かれまいと、壺の底に張り付き踏ん張る。
体勢こそ悪いが、それでも二人の膂力はクリスティナを遥かに凌ぐ。
何より覚悟が違うのだ。
どんな事をしてもこの醜態を晒したくないという覚悟が。
「思った……以上に重くて、中々……抜けませんね」
クリスティナは壺の中で踏ん張られているとは露知らず、二人を引っ張り続ける。
しかし当然ながら抜ける気配は一切なかった。
「あ、あの、ぼ、僕も手伝います」
いつまでも抜けない状況に危機感を募らせたのか、キョウはクリスティナの反対側へと回ると二人の両足に手をかけた。
「ばっ?! この状況でキョウに触られたら…………ひゃうぅん?!」
「っ――――本当に、地獄ねっ」
慰魔師であるキョウに直接肌を触られた事により、二人の力は急激に緩み始めていく。
爪を壷へと突き立て、無理にでも耐える二人。
クリスティナとキョウを合わせた膂力すら二人は上回る。
だがしかし体勢と慰魔師との相性が悪い。
即ち――。
「「抜けたーーっ!!」」
スポンという小気味のいい音とともに二人は壺の中から引きずり出された。
当然と言うべきか、突き出ていた足以外の部分はチョコ塗れである。
つまりは先程のヘドロの化け物と同じ姿になってしまったのであった。
「あ、あの大丈夫でしょうか?」
「だ、大丈夫大丈夫。全然へっちゃら」
ぼたぼたとチョコレートを落としながら、輪廻は弁明しくうは頷く。
何処からどう見ても大丈夫ではないが、それを否定するかのような焦った態度の二人にクリスティナは不信感を募らせる。
「いえその、あまり大丈夫には見えないのですが……。と言うよりキョウさんの部屋で何をしていたのですか?」
「へ? それはあの、あれ――――――おい、どうすんだよ」
「……知らない私に振らないで」
くうと輪廻はクリスティナ達に聞こえないような小声で会話する。
現在進行系で茶色のヘドロが溢れ続けているが、それにかまけている余裕は二人にはない。
「幸いあたし達だとキョウ達にバレてない。だったらここは別人を装って逃げるしかない」
「別人って、どうするつもり。鳥頭のお前にそんなこと出来ると思えないのだけど」
「いいから黙ってあたしのノリに合わせろ。それしか手はない」
目の前で内緒話を始めた二人を、クリスティナは更に疑いの目で見る。
「何をコソコソしているのですか? まさかあなた達……」
「ば、バレちゃったらしょうがない。じ、実は私達、チョコレートの精霊なんです。ね~、ムニュちゃん」
「え゛?」
「何やら相方の方は非常に驚いているようですが……」
チョコまみれのくうを見ながらクリスティナはそう言う。
だが、輪廻はそんな事は気にしては居ない様子で言葉を続ける。
「一年に一度のバレンタインデー。乙女達が殿方に感謝と恋心をチョコレートに乗せて告げる日。でも最近不適切なチョコレートが増えていて、私達はそれを監視するために来たんです。だよね、ム・ニュ・ちゃ・ん?」
「う、うん、そうです……わよ?」
キラッと擬音が付きそうなポーズをしている輪廻に促されながら、くうはなんとか返事をする。
正体をバレないようにするためか、声は完全に裏返っていた。
「何故疑問形……」
「き、緊張しちゃってるのかな?」
「う、うん、そ、そう。そう、だぜ?」
声が裏返り、急遽設定したキャラが半崩壊状態になっているくうを、クリスティナは白い目で見続ける。
そもそも茶色のヘドロがチョコレートの精霊を名乗って、キョウの部屋で犬神家をしていたのだ。
最早情報の暴力である。
クリスティナは疾うに理解を放棄していた。
「……まあいいでしょう。先に話を進めましょう。不適切なチョコレート、ですか」
「はい、最近純粋なチョコレートに異物を混ぜる方が多くて、心当たり有りませんか?」
「うっ、まあ、その……」
苦い顔をするクリスティナに、輪廻はチョコレートコーティングの裏でニヤッと笑う。
「それは全て『マルタ・ナ・イムネ』と言う悪の組織の仕業なのです」
「『マルタ・ナ・イムネ』?」
「そうです、ボスである『ネクラ・カンボツチ』の指示の下、バレンタインとチョコレートに貶めるために工作をしているのです。そこの浴室にいる人物も『マルタ・ナ・イムネ』の被害者であり、私達がやっとのところで封印したところです」
「は、はぁ」
クリスティナ達は殺人現場のようになっている浴室にちらりと視線を向けながら、困惑した表情を浮かべる。
荒唐無稽すぎる話であり、そもそも茶色のヘドロを纏いチョコレートの精霊を名乗る女に何を言われても、と言うのがクリスティナの心情だった。
当然キョウに至っては何一つ話に着いて行けていない。
「しかし、その封印したばかりの隙を突かれまして、先程までこの悪魔の贄湯に入れられていたわけです。あなた達が来なければどうなっていたことか。深く感謝します、ほらムニュちゃんも」
「…………ご、ご協力感謝します、のじゃ?」
「だからなんで疑問形なんですか」
「私達は『ネクラ・カンボツチ』を追わなければいけません。それではではでは~」
「その状態でポーズとらないでください、イラッとします」
ベチョベチョとチョコレートをキョウの部屋に振りまきながら、二人は出て行く。
クリスティナは二人にこの惨状の責任を取らせたかったが、これ以上頭がおかしくなる戯言を吐かれる方が辛いと思い、敢えて何も言わなかった。
「二人、悪の組織のボスを倒せるといいですね、クリスティナさん」
「もうどうだっていいです」
目を輝かせるキョウの横で、クリスティナは心底疲れた様相で溜息を吐くのであった。
†
そんなことがあった数分後。
僕とクリスティナさんが部屋の掃除に困っていると、くうと輪廻が訪ねてきた。
「うわ~、何だこの部屋~」
「どうして棒読みなのですか」
プスプスと体の至る所から煙を出す輪廻にクリスティナさんは何やら疑いの目を向ける。
まるで爆発事故にでもあったような様相だが、大丈夫だろうか。
僕が輪廻の事を心配していると、目の前にくうが立つ。
「何をどうしたらこんなことになるの? 大方鍵のかけ忘れでもしたのでしょうけど、ほんと抜けているわね」
「うぅ、ごめんなさい」
「仕様がないから手伝ってあげる。感謝しなさい」
いつもの無表情無感動な声のトーンとは違い、やや上擦っている声音でくうは僕に言う。
顔も僅かに上気しており、軽くランニングでもしたかの様な有様である。
しかし、と僕は首を捻る。
修行中ですらくうの顔色が変わる事などまず無い。
身体能力もそうではあるが、一ヶ月近く不眠不休飲まず食わずで動き続けられるほどスタミナお化けなのだ。
もしかすると調子でも悪いのだろうか。
僕が考えに耽っていると、クリスティナさんが何かに気付いてくうの方を向く。
「くうさん、その制服下ろしたてのように見えますが……」
「気のせいよ、馬女」
クリスティナさんの言葉につられてくうを見ると、確かに制服がパリッとしている気がする。
でもそれがどうかしたのだろうか。
僕はくうを見つめていると、くうは煩わしそうにしながら視線を逸らした。
「しかしその制服、完全に糊の効いた――」
「普段から効いている。それとも私の制服はいつもヨレヨレだとでも?」
「いえ、そういう訳じゃありませんが、その……なにか着替えなければいけない理由があったのかと。――――例えばチョコレート塗れになってしまった、とか」
クリスティナさんの物言いに、部屋はシーンと静まり返る。
いつもは煩いくらいよく喋る輪廻も今ばかりは居た堪れない様子で、閉口していた。
まるで探偵が犯人を推理で追い詰めているかの様な緊迫感に飲まれ、心臓がドキドキと高鳴る。
二人が何故緊迫しているのかさっぱりわからないが。
「…………馬女。雉も鳴かずば、って知っている?」
長い無言の見つめ合いの後、漸く口を開いたくうの言葉がそれだった。
その背後からは呪殺出来そうな程強い怨念の篭った妖気が噴出しており、事情がよく分かっていない僕でも一歩答えを間違えたら死んでしまうであろうことが、容易に想像がついた。
そしてそれだけくうが追い詰められていると言う事も。
何故だかよくわからないが、今のくうは手負いの獣同然なのだ。
その視線を一身に受けているクリスティナさんからは、滝の様な汗が流れ始める。
「あの……えっと、もしかして本当に……?」
「もう一度だけ言う。あなたは知っている?」
くうもクリスティナさんも全身から冷や汗を流しながら、いつ火蓋が切られてもおかしくないような様相をしていた。
普段であれば仲裁に入るところではあるが、今回ばかりは全く介入出来る気がしない。
まるで互いの心臓を握り合っている様な、そんな鬼気迫る迫力があるのだ。
「わ、私は何も知りませんし、見ていませんし、聞いていません。今後一切関わりありませんし、何があろうと関係ありません」
「そう、賢い子は好きよ」
長い沈黙の後、滝の様に流れ落ちる汗と共にクリスティナさんは漸くそう吐き出した。
そしてその言葉を聞いて、くうは妖気を引っ込める。
どうやらクリスティナさんは正解を掴んだらしい。
僕も二人と同時にホッと一息をつく。
「まあ、何でもいいから早く片付けようぜ」
「あっ、はい」
輪廻の言葉で僕らは一斉に片付けを始める。
謎の壺は一先ず廊下に出して、床や壁に飛び散ったチョコレートと思しき茶色のヘドロを綺麗に拭き取る。
開始してから数十分。
僕の部屋は漸く元通りとなった。
――浴室以外。
「ふぅ~、やっと綺麗になったな。これで今夜もぐっすり眠れる」
「? どうして僕の部屋が綺麗になったら輪廻が快眠できるの?」
「え? あぁ、いやそれは、ですね。気持ち、そう、気持ちの問題」
「なるほど」
「そ、それと気持ちのことで思い出した」
輪廻は何故か部屋の冷蔵庫へと向かい、中を開けてゴソゴソと何かを探し始める。
一体何を探しているのだろうか。
大したものは入っていないはずだが。
冷蔵庫の中身を何とか思い出そうとしていると、巨大な楕円状の物体を輪廻は取り出してくる。
勿論そんな物を入れた記憶はない。
「親友、これあたしからの
「あ、ありがとうございます?」
どんと渡された楕円状の物体。
中身もずっしり詰まっているらしく、本日一番の重さがある。
なんで輪廻が部屋の冷蔵庫から、と突っ込みたくなる気持ちを抑えて僕はそのチョコに瞠目する。
そのチョコは一言で言うと大きいタマゴ型のチョコレートだった。
どれくらい大きいのかと言うと、ダチョウの卵より大きい。
どうやって部屋の小さな冷蔵庫に入っていたのか不思議なほどである。
色々と疑問が湧き上がっては来るが、それを差し引いても素直に嬉しかった。
「何、共食いでもするの?」
「はぁ?! 誰がするかっ?! これはあたしの親友への愛の大きさなんだよ」
「愛、ね。くだらない」
くうはそう吐き捨てると、玄関へと踵を返す。
掃除もおわったばかりだし、僕は何とかくうを引き留めようとする。
久々に一緒にいるのだ。
もう少しお喋りをしたい。
しかし、その前にくうから何かを投げつけられ、止められる。
「愛なんてまやかし、そんなもの存在しない。少なくともここにはね」
「くう?」
投げつけられたものを見ると、血の様な赤色でハート型に包装されたチョコだった。
その瞬間――心が固まる。
湧き上がる感情が、情念が、情報が多すぎて処理が追いつかないのだ。
コレを言語化するのは難しく、また僕自身のよく分かってはいない。
ただ、コレが大切な繋がりであると言う事は理解できる。
彼女からの贈り物を自分が大切に思わないなどありえないのだから。
「それは感謝の気持ちでも、義理でも、ましてや本命でもない。ただ私が戯れにチョコ作りたかっただけの産物。――――私、チョコレートあまり好きじゃないの知っているでしょ?」
僕は知っている。
彼女がチョコレートパフェが好きな事を。
「………うん、きよさんからもらったチョコ、いつも全然食べてなかったね」
僕は知っている。
彼女が貰ったチョコを何処かに持っていっている事を。
あれはいつからだったか。
そこまで考えを巡らせたところで、思考は断線する。
記憶に繋がる接続が切れたかの様に、ぷっつりと。
「だからそれはお前にあげる。―――それじゃあね」
「……素直じゃないですね」
玄関から出て行こうとするくうに、クリスティナさんがぼそっと呟く。
それによりくうは立ち止まり、じろりとクリスティナさんを睨むが、クリスティナさんは慌てて視線を逸らした。
「あっ、待ってくう。せめて汗だけでもタオルで……」
思考の戻った僕はそのまま帰すのは忍びないと思い、浴室の横にある洗面所にタオルを取りに向かう。
いや、行こうとした。
「おわっ?!」
その途中で何かに足を取られ、滑ってしまう。
まだヘドロが残っていたのか、あるいはピカピカに磨かれた床で滑ったのか。
原因は不明だが兎に角僕はすっ転び、思わず手を伸ばして何かを掴もうとする。
直ぐ側にあったのは浴室の扉であり――。
「「あっ」」
派手な音と共に浴室の扉が空いてしまう。
掃除する際に中に化物を封印しているから絶対に触るなと、輪廻とくうの二人から念を三重に押された浴室をである。
当然中から出てくるのは、封印された化物だろう。
「――漸く出ることが出来た。感謝するよキョウ君」
「えっと?」
僕は浴室から出てきた女の人の声に困惑する。
どこかで聞いた事のある声の気もするが、全身茶色のヘドロでコーティングされていて誰だかわからない。
「お礼というわけではないが、私を貰ってはくれないだろうか」
「え?」
「食的な意味でも性的な意味でも、存分に堪能できる一品だと自負している。さあ、私と一緒に心身ともに裸となって、ぬるぬるベトベトに混ざり合い貪り合おう」
「あ、あの、す、少し待って――っ?!!」
ヘドロ塗れの女の人は倒れている僕にのしかかろうとして来た。
僕は食べられる、と思い何とか目の前の人を遠ざけようとする。
しかしその前に――。
「その声、あなた
「おやそこに居るのはクリス嬢にくう嬢に輪廻嬢じゃないか。ちょうどいいキミ達も私達と混ざってヌルヌルチョコレートプレイを――。む? くう嬢と輪廻嬢、先ほど二人の側に置いたコーティング用の壷型チョコレート容れはどこに? 確か部屋の中央に鎮座させたはずなのだが」
シルヴィアさん?がそう言った瞬間、ピシリと空間が割れる音と共に部屋の温度が数十度下がる。
僕らは現状の状況も忘れて、ゆっくりとその冷気の発生源へと視線を向けた。
「…………」
ガチャンと言う音とともに僕の部屋の鍵が閉められる。
背中を向けたままのくうの表情は此方から伺う事は出来ない。
だが、その体から溢れ出す妖気がその表情を何よりも物語っていた。
「ま、待って下さいくうさん、私達は何も――」
『
どこまでも冷たく、どこまでも無感動な声と共にくうに架せられた楔が無情に引き裂かれる。
湧き出る妖気は天災である。
僕は本能的に全てを諦め、終わりを確信する。
こうなってしまってはもう駄目なのだ。
「――消えろ、何もかも消え去ればいい」
それから先の事はよく覚えていない。
思い出そうとすれば、一つの感情のみが浮かび上がってくる。
そう、畏れ一色だけが本能に色濃くこびり付いていた。
記念すべき初めてのバレンタインデーの僕の記憶は、名状しがたい恐怖と共に幕を下ろす事となったのであった。
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