第3頁 Don't think that the sceneries you're seeing are all of the world.
船が港を離れ、穏やかな波やさんさんと降り注ぐ陽の光に撫でられ続けて、どのくらい経ったか。海鳥たちが海面に影を落としながら、時を忘れた白い帆を張るマストの上を飛び交い、時折羽を休めに舞い降りる。永遠のものなのではないかと思われる平穏に飽きて、デメルザは一つ大きなあくびをする。
「寝みぃな。で、ジェイソン。どこ行くんだっけ?」
シーラは船乗りの本能か、例え穏やかでも一時も休みを入れず甲板から水平線を見つめていたが、背後で甲板に座り込みくつろいでいる女の言動には眉をひそめた。
「“シーラ”だっつってんだろ。耳聞こえてる? ジェイソンってなんだ、お前の彼氏?」
「あたしの彼氏には、もちっとセンスある名前じゃないとなれねぇよ。セイソン。」
「頭文字だけ合わせても違うもんは違うの。」
どうにもデメルザは扱いづらい。そう思いながらも、どうにかシーラは気を落ち着かせた。ゴロツキ集団に殴り込むような暴力的な人間と、こんな所で争っている場合ではないからだ。
「弟はだらしのない奴だった。行き先は“ヤーハッタ”かもしれないな。両親が引き止めてたが、相当憧れてたみたいだし。」
この言葉が終わらぬ内に、シーラは驚いた猫のように飛び上がって駆け出さなくてはならなかった。先程まで背後であぐらをかいていた女が錨を下ろそうとしていたのである。
「おいおい、ちょっと待て! 何してんの?」
シーラは咄嗟に彼女の腕を掴むと、海の波を逆撫でるような大声で叫んだ。デメルザは苦い薬でも飲んだかのような顔をしていた。
「行き先がヤーハッタなら話は別だ。絶対行かねぇ。死んでも行かねぇ。」
するとデメルザは錨を掴んで離れようとした。筋肉質な体格とはいえ女性であるデメルザだが、シーラが思った以上に力が強かったので、彼は危うく錨を下ろさせてしまう所だった。
「いや、困るから! じいちゃんの形見までもらって、折角の“感動の旅立ち”がおじゃんになるから。」
「ハァー!! 演出を重視すんのかよ。親御さん泣いちゃうぜ。」
デメルザは普段ならこの台詞を意地悪く笑って言ってやるのだろうが、今回ばかりは必死な様子を隠さずにいた。2人の取っ組み合いは、マストに止まっていた海鳥が何かの拍子に飛び立つ時まで続いた。先に折れたのはデメルザだった。
「分かったよ。ヤーハッタには行ってやる。ただし、弟者探しはテメェでやれよ? あたしは知らん。」
「誰が手伝えっつったよ。連れてけとしか言ってねぇぜ。」
シーラはそう言うと、今も我が身を預けているこの帆船を眺めた。彼は奇妙な思いをしていた。放っておいても何だかんだ風が運んでくれるので何も言わなかったが、この船はどう見ても2人で動かせるものではないのだ。
「なぁ、お前。これどうやって乗ってきたんだ? というか、どこから?」
シーラが尋ねる。デメルザは甲板の手すりに背中を預け、眠たげな目でざわめく水面を見ていた。
「あ? 分かんねぇ。ヤーハッタから適当に拾ってきた奴なんだけど、何もせず放ったらかしてたらロットバーンズに流れ着いたんだよ。」
シーラは何か嫌なものを感じた。
「流れつけたのも凄いが、それよりもだ。お前が行きたがらない理由、それじゃないだろうな?」
「いやいや。“取ってっちゃダメ!”って書いてなかったんだから、別に悪いこたぁしてねぇよ。ちゃんと名前でも書いときゃよかったんだ。」
「まぁ、そうね。でもそれなら舵くらい取って。お前だけくつろいでるとイラッとくるから。」
シーラはこれにとても驚いたのだが、デメルザは何だか嬉しそうにしていた。
「なんか冒険っぽいな! 任せろ。ガキの頃、航海の物語は散々読んできた。」
デメルザの勢い余る口振りに気圧されながら、シーラは不安と、それとは違うえも言われぬ感情を胸に抱く。
ロットバーンズからヤーハッタはとても距離がある訳ではないので、明日の朝には辿り着けるはずだった。どういう訳か風向きも順調で、少しずつだが近づいているに違いない。
「なぁ、シーラ。方角あってるかな?」
デメルザはピクニックに出掛ける気分で尋ねた。シーラは望遠鏡を手に水平線に目を凝らしながら答えた。
「お前、ヤーハッタに行ってたんだろ? 俺があんな所に行った事あると思うか?」
「……思わんな。お前が行ったら死体で見つかりそうだ。」
デメルザは無邪気そうに笑って言った。シーラはこの時の彼女に、どこか違和感を覚えざるを得なかった。何かが奇妙なのだ──。
そんな仄暗いものを感じている間にも、満面の笑みを見せる太陽は空の頂上へと昇りつめ、爽やかな風が吹いていた海の上も、熱くむさ苦しい空気に満たされた。デメルザは暑さにやられてぐったりとし出した。
「なんか暑くね? 気持ち悪いんだけど。」
デメルザは汗に湿ったコートの襟元を持って、パタパタと扇ぎ風を取り込もうとした。シーラもシャツの袖を捲り上げ、手で額の汗を拭うが、すぐにマストへと向かった。
「何してんだよ! 風はあるんだから、文句言うんじゃないよ。」
「今日が暑すぎんだよ!ナプティアめ、恨むぞ!!」
「いいから黙ってろよ。もうじき“暗雲の日”だろ?寒くなってくれるぜ。」
暗雲の日────。
シーラは気づかないが、デメルザの目付きが変わる。蕩けていた彼女の目には、僅かに殺意が宿っていた。
「そりゃありがたい……。」
日が暮れると、デメルザは星を見ながら方角を確認する。……実際には、よく分かっていなかった。
「世の中にはさ、星を見て未来が分かる奴もいるって話だけど、お前信じるか?」
デメルザは手を上に掲げ、指の間から夜空を覗く。シーラは、デメルザが全く手伝わない事に苛立ちつつ、船の調整を続けていた。
「“予言士”って奴だろ?信じないね。“術士”だとか“亡霊”だとか、原因の分からない現象かなんかが尾ひれをつけただけだろ。」
デメルザはフッと笑うと、目を細めてシーラを見る。
「お?“術士”はいるぜ。多分、知り合いがそれだ。」
「多分だろ?」
シーラは素っ気ない返事をすると、一旦手を休めた。
「大体、そんな奴が本当にいたら、どっかで見かけてるだろ。」
「故郷を離れた事もない野郎が、何ほざいてんだよ。“自分の見てる景色が世界の全て”と思っちゃいけないぜ。シーラくんよ。」
シーラはうんざりした。説教をかまされたからではない。自分の視野の狭さを指摘したのが、よりにもよって同じくらいの年齢の女であったからだ。確かに自分より経験はあるのだろうが、それにしても態度が大きすぎる。
「分かったよ……。」
シーラは穏便に済ませた。
「ところで、ヤーハッタに行きたくない理由は、結局何なんだ?」
シーラは無理に話題を変えた。しかし、デメルザの顔はつい先程よりも深刻なものとなった。
「……どうしても、ホントにどうしても会いたくない男がいるんだよ。」
シーラは驚いた。
「マジかよ。ヤーハッタの連中とは気が合うと思ってたのにな。」
「ざけんな!!吐き気がする程合わねぇよ!」
デメルザは怒鳴り終えると、一呼吸して気を落ち着かせようとした。
「でもアイツはマジでウザい!ムカつくんだよ!!まぁ、人の事コケにしてくれやがってさ!あー、ムカつく!!」
デメルザの怒り様は相当なものだ。
「どんな奴だよ、それ……。」
「なんかこう、顔からしてムカつくんだよ。クソたらしだしな!」
するとデメルザは、シーラの顔を見て首を傾げる。
「──そういや、お前に似てるような……。」
シーラは凍りついた。デメルザも凍りついた。2人は、恐ろしい事実を察したのだ。
「面舵いっぱぁぁぁぁい!!」
「いや、待て待て!!」
デメルザの舵取りを、シーラが慌てて止める。
「何してんの!?」
デメルザは舵をガシッと掴んだまま離さない。
「個人的な都合により、急遽航路を変更します。Uターンにご注意ください。」
口調は軽いが、表情は真剣だ。
「Uターン出来ないから!勘弁してくれよ、なぁ?」
シーラも舵を握りしめる。2人はそれぞれ別方向に舵を動かそうとした。
「おいやめろよ!これから探す奴が今世紀最大に会いたくない奴とか、歴史史上初だろ!」
「歴史的な初記録持てんだからいいだろ!!」
2人の力は、シーラが少し強いくらいで、ほぼ互角だ。
「よぉ〜し、分かった……!」
デメルザは舵を離すと、コートの内ポケットから1枚の金貨を取り出した。
「ヤーハッタへ行くかどうかは、コインの落ちた面で勝負だぜ。あたしが裏だ。一回だかんな!次とかないかんな!」
「早くやれよ……。」
シーラの呆れたような声で、デメルザは金貨を弾く。コインは空中でクルクルと回り、月の光に当たってきらめいた。
そして回りながら落ちて行き、デメルザの手の上へ──。
チャリン。
落ちなかった。
金貨は弾かれた場所から3cm程離れた所の、甲板に落ちた。辺りに沈黙が走る。
出た面は──表だ!
デメルザはしばらく困惑するが、すぐに顔を上げて
「はい、今のなーし!」
と言った。当然シーラは反発する。
「次はないって言ったろ。」
「手の上に落ちなかったら例外なんですー。今のは認められないんですー。」
デメルザは口を尖らせる。シーラは呆れてものも言えない。
「とにかくもう一回!行くぞ!!」
デメルザは再び金貨を弾く。
回りながら落ちて行き、今度こそデメルザの手の上へ──。
チャリン。
落ちなかった。
しかも、また表だ。
「何でだ!!!」
デメルザは怒鳴りながら何度も金貨を弾き飛ばす。しかし一向に手の上へは落ちて来ず、裏も一切出なかった。
「おかしい!呪いがかかってるぞ!」
デメルザは子供のように喚いた。流石にシーラも見るに耐えなかったのか、話を進める。
「じゃあ、表だから“行く”って事でいいな?」
だが、デメルザは強情だった。
「ダメだ!よし、ならなんか……。腕相撲とか!それで決めよう!!」
男相手に随分な自信だ。シーラは渋々承諾した。
2人は船の手すりにひじを置き、互いの手を握った。
「今度こそ次はないからな……!覚悟しろよ?」
「へいへい。」
──Ready?Go!!
「強いよ……。」
決着はついた。デメルザはほんの一瞬で倒されてしまい、あまりの力強さに腕を痛めていた。
「じゃあ行くぞ。もう次なし!」
シーラは勝利の余韻にすら浸らず、淡々と事を進めた。デメルザは彼の脚にしがみつく。
「待って待って、シーラさぁん!!そんなに急がなくったっていいでしょ!?」
シーラはデメルザをキッと睨む。
「いや、ちょっと……。冗談ですよ、もう。」
ようやく言い伏せた。
夜更けになると、シーラは1度眠りに入った。海は静かだ。波もほとんどない。そんな中、デメルザは船首の方へ歩きながら空を見上げていた。
「もうじきか……。」
デメルザはほくそ笑む──。
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