第4話
インフルエンザが職員間で大流行したせいで、夜勤、明け、夜勤、明け、夜勤、明け、日勤、という信じられないような勤務になった。
これはさすがにこたえた。
うちの施設がホワイトなんて嘘だ。いっそインフルエンザになった方が楽だ。 と思った。
でも、僕は自分に一日の勉強のノルマを課していたので、それを破るわけにはいかなかった。
なんとか必死に勉強した。
最後の明けの次の日の日勤、なんとか午前の仕事を終わらせて休憩室に入ると誰もいなかった。きっとまだ他の人は仕事が片付いてないんだろう。
長椅子に腰掛ける。
食欲がない。
今朝買ったカロリーメイトをなんとか飲み込もうとするが、口の中の水分が奪われてそれがさらに食欲を失わせた。
僕は、なりたい自分に近づいているのだろうか。
こんな所で、働いて。
帝國出版に1ミリでも近づいているのだろうか。
全くそんな気がしない。
僕は疲弊しきっていた。
おとなって、もっと余裕があるものだと思っていた。
僕はまだ何も知らない。
十四歳の頃の僕から僕はすこしでも、”おとな”に、近づいているのだろうか。
ズルズルと体がずり落ちていく。
その時、高橋さんが休憩室に入ってきた。
僕は慌てて背筋を伸ばす。
「今日は忙しいね」
「そうですね」
高橋さんは昼食も取らずにコップを取りだし、資料片手にコーヒーを飲んでいる。
きっとまたなにかの研修会の講師として呼ばれているのだろう。
そんな高橋さんが羨ましかった。
僕は介護の業界で働くわけでもないのに。
そんな自分も嫌だった。
見栄ばっかりじゃないか。
帝國出版に就職したいのだって、結局見栄なんじゃないか。
必死に押さえ込んできた感情が少しずつ溢れてくる。
お前はいつまでたってもこのままだ。
弱いままだ。苦しいままだ。子どものままだ。
どうしようもない。何も変わらない。何も知らないくせに、何か知ったような気でいる。どうしようもないやつだ。
眼の前にいる人を見てみろ。
自分にできることを精一杯、誇りを持ってやっている。
それなのに、
それなのに、お前はなんだ?
お前は何様だ?
お前は何者だ?
気がつけば、感情が涙になって溢れていた。
それに気付いた高橋さんは驚いたような顔で、
「ど、どうしたの?」
と言った。
僕は嗚咽をもらしていた。
分からない。もう、なにも分からない。
ぜんぶ。ぜんぶだ。
もう、どうしようもない。
「大丈夫?」
という言葉が降ってくるのと同時に左肩に手が添えられた。
あぁ、もう。吐いてしまおう。
「分からないんです」
「僕は…僕は、どうしようもないんです。僕は、ちっとも大人になれてる気がしない」
「ぜんぶ、ぜんぶ、うまくいかないことばかりで、死んでしまいたいと思う毎日で、苦しくて、泣いてばかりで、情けなくて、どうしようもなくて…」
ほんと、どうしようもなくて。
もうぐちゃぐちゃだ。
何が言いたいかもわからない。前も見えない。
何も言わないで欲しい。
情けない。恥ずかしい。
すぅっと、息を吸い込む音が聞こえた。
「あのね。この世界にはね」
囁やくような声が聞こえてくる。
「大人なんていないんだよ」
え、と僕は思う。
だってあなたは、
「わたしね、十八歳の時にがんになったの」
突然殴られたような気分になる。
涙が引いた。
そして、がん、という単語に強く引っ張られる。
「手術も、放射線治療も、化学療法も全部やった」
「辛かったなぁ」
「だって、周りの友達は女子大生を謳歌してるんだよ。そんな時にわたしはずっと病院」
「成人式のときだってわたしは髪の毛がないの。みんな朝早くから美容院に行って綺麗にしてもらってるのに」
ほんとに辛かったなぁ、と遠くを見ている。
「専門学校に入ってすぐのことだったから、辞めようかなとも考えたの。でも、『今は治療に専念して。でも、あなたが後で自分で選べるようにした方がいい。』って親が言ってくれたから退学じゃなくて休学にしたの」
そのおかげで今ここで介護福祉士として働けてるんだから親に感謝しないとね、と高橋さんは笑っている。
高橋さんは笑っている。
「どうして」
「どうして、そんなに強いんですか」
「どうして…」
わからなかった。そんなにも壮絶な人生を送ってきてるのに、なんで結婚もして子どももいて、今、元気に笑っていられるのか。
それが”おとな”っていうものなのか。そんなにも、”おとな”は遠いところにあるのか。
僕なんかの手が届くはずのない場所にあるんじゃないか。
「まぁ、そう見えるかもね」
「でもね、わたし、今でも点滴してる入所者さんを見ると怖くなる時があるのよ」
「点滴?どうして点滴が」
「正確には点滴の色なんだけどね。がんの治療を受けてた時、オレンジ色の点滴がわたしに使われてたの」
「たったそれだけでね。わたし、オレンジ色の点滴が怖いのよ」
笑っちゃうでしょ、と高橋さんはすこしうつむいている。
こんなに話す高橋さんを、僕は初めて見た。
それに、オレンジ色の点滴が怖いだなんて、初めて、初めて知った。
たしかビタミン剤が入っている点滴はオレンジ色のものが多かったはずだ。
そんな点滴、使ってる人なんてたくさんいるのに。
そんなことを考えて、僕が黙っていると、高橋さんは改めて、しっかりと、僕の方に向き直った。
「いま、あなたはすごく苦しんでる。すごく辛いんだろうね」
「あなたがすごく勉強してるのも知ってる」
違った。やっぱり高橋さんはおとなだ。僕とは違う。
やっぱり高橋さんは、
「でもね、あなたのいう”おとな”だって、案外たいしたことないんだよ」
「笑っちゃうくらいに、おとなっておとなじゃないんだよ」
「でもそれは、決してかなしいことじゃないの。きっとそう」
高橋さんは、誰かに言い聞かせるように話す。
「辛いとか苦しいとか悲しいとか嬉しいとか楽しいとか、そんなことをたくさん知ってるのが”おとな”なのかもしれないね」
「だからこそ、弱いのかもしれない。ほら、トシをとって涙もろくなるとか言うじゃない」
「でも、だからこそ強いんだとも、わたしは思うよ」
「いろんなことを感じてきたからこそ、厳しくもなるのかもしれないけど、優しくもなれるんだと思うよ」
これは、僕に言ってるんじゃないのかもしれない。そう感じた。
でも、僕に"も"言ってるんだ。
「喜怒哀楽の真ん中に立っていられる。なんて言うと偉そうだけど、”おとな”は少しは立っていられるのかもね」
「でも、それだって少しずつなのよ。地道に地道に。一歩一歩」
「しんどいこともたくさんある。今苦しいように、辛いことはたくさんある。 でも、それだけじゃない。楽しいことだってあるのよ。 勿論楽しいことだけじゃない。苦しいこともある。でも、きっと楽しいことだってあるよ。楽しみにして良いよきっと。でも、覚悟も持たないと。どっちもあるよ。きっと」
「楽しいことも、苦しいことも。黒も白も。0も100も。 どっちも、あるようでないし、ないようである。子どものようで大人で、大人のようで子ども 」
「どっちもあることに怖がらなくても良いんだよ 」
「苦しいことも辛いことも、嬉しいことも楽しいことも、どっちもある。そういうもの。大丈夫」
「今つらくても、いつか楽しい時が来るよ。楽しみにしてて良いと思うよ」
「大丈夫。あなたは大丈夫」
こんなにも、
高橋さんは、こんなにも小さな人で、こんなにも大きな人だったのか。
「だからあんまり何回も泣かないのよ」
ハンカチを手渡してくれた。僕は泣いていた。
まぁ、泣きたい時は泣いたら良いんだけどね、と高橋さんは笑っている。
「さ、ぼちぼち仕事に戻ろうか」
高橋さんは、
高橋さんはおとなだ。
でも、きっとそうじゃないときだってある。
でも、なんていうか、それが本当だ。それで良いんだ。
おとなだって、分かっているようで分かってないんだと思う。でも、それで良いんだと思う。
僕は途中だ。
でも、高橋さんだって、きっと途中だ。
「はい」
それまで”おとな”という別の人種に見えていた高橋さんが、自分と同じ”にんげん”という、より大きなものに見えた。
おとなとにんげん 総一 @soichi
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