第72話 悪夢の香り 其ノ肆

 それ以来、私はまったくの寝不足だった。


 あれは……一種の拷問だ。かなり新手の拷問である。


 若し仮に、我が国があんな拷問の手法を手に入れていたとしたら……戦局も有利に薦めることが出来たかもしれない。


「……さすがに、それは嫌だな」


 勘定場に座りながら、私はそう呟いた。


 あの夢を見た日から、布袋を枕元に置くのは辞めてくれと佳乃に頼んだ。


 実際、裏手の倉庫の中に袋は投げこんだ……しかし、香ってくるのだ。既にこの家に染み付いてしまったかのように眠るとあの夢を見てしまう。


 少しうつらうつらしても、あの夢を見る。佳乃は、私ではない別の男に抱かれている……


 それを私は延々と見せつけられる。自分の最愛の妻が他の男に抱かれているのを。


 夢だと分かっている。そんなことはありえないということもわかっている。


 問題なのは、それが夢だと分かっているのにもかかわらず、現実の佳乃に対しても段々と戸惑いを私自身が見せていることだ。


 佳乃が私を見る度に、複雑な気分になる。段々と……本当に佳乃が不貞を働いているのではないかと思ってしまう。


 夢と現実の境界が曖昧になってきているのだ。私自身の中で……


「……一体何なのだ、あの女は……」


 原因はあの黒い着物の女性……あの女性がなんなのかわからなければ、この苦しみは永遠に続くだろう。


 そんなことがあったら、私は……


「旦那? おーい」


 そこへ、聞き慣れた声が聞こえてきた。


「……ああ、霞か」


 いつのまにか、霞が目の前にいた。


 霞は相変わらずの能天気そうな顔でそこに立っていた。しかし、少し心配そうだ。


「大丈夫? なんか……すごい疲れていそうだけど……」


「ああ……とても眠いんだ。でも……眠りたくないんだ……」


 私がそう言うと、霞はとても不安そうな顔で私を見る。


 それから、何かを抱きかかえて私に渡す。


「はい。これ。柔らかくて安心するよ」


 霞が渡してきたのは……猫だった。


 猫……かつて私の家に侵襲してきた「元」招き猫の麻子である。


「あ……ああ。ありがとう」


 麻子は不機嫌そうに私に抱かれている。私は少し困った。


「あ! そうだ! まだ配達が残ってんだ! いやぁ、麻子ちゃんが来てから忙しくなっちゃったんだよね! 麻子ちゃん、預かっといて!」


「え……おい! 霞!」


 そう言って、霞は出ていってしまった。私は麻子を抱えたままで呆然としている。


「……旦那様、大丈夫ですか?」


 猫の姿の麻子が何事もなかったかのように喋る。麻子は特に心配そうでなく、私に聞いてくる。


「……見ての通り、ダメだ」


「やれやれ……旦那様がそんなでは、吾輩の旦那様に仕返しするという計画がダメになってしまうのですが……」


「……お前に仕返しされる前に……私はもうダメだ……」


 さすがに限界だった。私は麻子を強く抱きながら、そのまま俯く。


「……旦那様?」


「……夢なのか、現実なのか……もうわからないんだ……眠るのが怖い……あの女が私に言ってくるんだ……受け入れろって……今も、佳乃が買物に出かけていることはわかっているのだが……信じきれないんだ」


 そう言うと麻子は私の腕の中から飛び出る。そして、鋭い目つきで私を見る。


「……旦那様。いつぞやの我輩の变化を見破った憎たらしい旦那様は、どこに行ったのでしょうか?」


「それは……お前が、私の知識の範疇に居る存在だったからだ」


「ええ、そうですね。ですが、少し考えてみて下さい。この世界には似たような存在というのは数多くいるものです。吾輩と似た存在も、吾輩とは別の方法で家を潰そうとする者がいるそうですよ」


 そういって、猫は怪しく目を光らせる。


「……お前と似た存在?」


「ええ。お教えするのはここまでです。いいですか? 旦那様の家を潰すのは吾輩です。わけの分からない存在に勝手に潰されないで下さい」


 そういって、麻子はそのまま家の外ヘ出ていってしまった。


「……似た存在、か」


 そう言われて私の濁った脳みそは少し働きを取り戻した。


 麻子と似た存在……其の言葉をきっかけに私は有る存在を思い出した。


 そして、あの女が私の知識の範疇に居る可能性を見出したのである。

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