第71話 悪夢の香り 其ノ参

 不思議な事だが……私は自身が眠ったことを認識していた。


 そして、なぜか、その瞬間に、杖をついて、店の前に立っていた。


「……これは、夢か?」


 夢……には思えない程に、現実的だった。それにどう見ても目の前の店は古島堂だ。


「あっ……ダメだよぉ……そんな所触ったら……」


 ……声が聞こえてきた。とても聞き覚えのある声が。


 そして、私がその人物から聞いたことのないような甘ったるい声……


「……何だ今のは」


 声が聞こえてきたのは……店の奥からだ。


「もうっ……ダメだってぇ……」


 まただ。聞こえてくる。


 確かに、佳乃の声だ。


 私はものすごく嫌な感じを受けた。そして、脳が直接、店の方に行ってはダメだ、と警告していた。


 しかし……自然と足が動く。私は恐怖しながらみ、そのまま店の奥の方に向かっていた。


「えぇ……ダメだよぉ……旦那が帰ってきちゃうってぇ……」


 ……聞いているだけで胃の奥から何かが盛り上がってきそうな言葉だった。


 違う。これは夢だ。


 声が佳乃だが、違う。


 そうなんとか思い込むようにしながら、私は店の奥までたどり着いた。


「……佳……乃……?」


 私は思わず呟いてしまった。


 そこには佳乃……と、男性がいた。


 見たことのない男性……私に似ているが、私ではない。とにかく、知らない男性だ。


 その男性と佳乃が……抱き合っていた。抱き合いながら、嬉しそうに会話している。


「まぁ……旦那は足が悪いから、まだ帰ってこないと思うけどさぁ……」


 恍惚として表情で佳乃はそう言う。そして、男性と短く接吻を交わす。


「あ……あぁ……」


 間抜けな声が私の口から漏れた。


 あり得ない。違う。信じられない。信じたくない。見たくない……


 それなのに、目の前の光景からは目をそらせず、耳を塞ぐこともできなかった。


 というより……動けないのだ。


「ふふっ……どうですか? 奥様の不貞をご覧になったご感想は?」


 そういって、背後から声が聞こえてきた。


 動けない私だったが……声だけで判断できた。


「……お前……今日の……!」


 そう言った私の前に現れたのは……紫色の着物の女性だった。


「どうも。言ったでしょう? またお会いしましょう、と」


「お前……こんな……趣味の悪い夢を見せられたのは初めてだよ……!」


 怒りを抑えながら、私はそういう。


 分かっていた。この女性は私がよく相手をする不思議な存在……大方、原因はあの匂い袋だ。


 すると、女性は不思議そうな顔で私を見る。


「夢? フフッ……お兄さん、面白いことをおっしゃいますね……こんな真に迫るものが夢だ、と?」


 そう言っている間にも佳乃は私に前で男性と触れ合っていた。


 男性が身体に触れることに、佳乃は全く嫌がっていない。


「……夢だ。私はこの手のことは慣れている。夢だと分かっている以上、私にとって意味はない。早くやめろ」


 私がそう言うと女性は嬉しそうに微笑んだ。まるで勝ち誇ったかのように。


「そうですか……では、このまま続けても問題ないでしょう。夢だと分かっているのなら」


「……え。いや、でも、それは――」


「えぇ? 今日も一緒に寝るの~?」


 私は耳を疑った。


 既に目の前の居間……いつも佳乃と私が食事をしている場所には布団が敷かれている。


「や……やめろ……やめろ!」


 私は怒鳴った。しかし、女性は微笑んでいるだけである。


「問題ないのでしょう? 夢だと分かっているのだから……」


 私は愕然とした。そうだ……これは、夢だ。夢なんだ。


「じゃあ……寝ようか……」


 佳乃は恍惚とした笑みを浮かべながら、男性に長い接吻をする。


 その後は布団の中に潜り、そのまま――


「や……やめろ! やめてくれぇぇぇ!」


 私は絶叫した。女性は笑ったままだ。


 耳を塞ぎたくても塞げない、目を背けたくても背けられない……逃げることも出来ない地獄。


 私はそれが夢か、夢ではないかと認識していることなど、どうでもいいことだとその時漸く理解したのだった。

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