第37話 作品名『哀楽怒器』 其ノ壱

「ふわぁ……眠いな」


 散歩をしながら、私は大きなあくびをしてしまった。


 眠い……昨日夜遅く起きていたとかそういうことはないのだが……とにかく眠かった。


 最近は特に何もない。相変わらず客足は良くないし、いつもとおりだ。


 ……みたいなことを考えていると、なんだか嫌な予感がしてくる。


 ともすると、不穏なことというのは唐突にやってくるもので……


「……まぁ、そんなわけないか」


 私はそんなふうに思いながら、店に戻ってきた。


「おい、こらぁ! てめぇ、どこほっつき歩いてた!?」


 私は……絶句してしまった。


 店の奥から怒号とともに出てきたのは……佳乃だった。


「え……佳乃?」


「何とぼけた顔していやがるんだよ!? どこ行ってたかって聞いているんだよ!?」


 そいういって佳乃は私の胸ぐらを掴んでくる。私は瞬時に理解した。


 おかしい。何かがおかしい、と。


「ま、待て……な、なんでそんなに怒っているんだ?」


「あぁん!? あたりメェだろうが! てめぇが勝手にどっかに行きやがるからだろうが!」


 そういってさらに胸ぐらを強くつかむ佳乃。


「わ、わかった! 謝るから! とにかく一旦落ち着いてくれ!」


 そう言ったときだった。佳乃は私の胸ぐらを掴んでいた手を離すと急に目に涙をためて泣き出してしまった。


「ひっく……ごめんなさい……旦那ぁ……」


 流石にあまりの変わりように私は何を言ってよいかわからなかった。とにかく、まずは大泣きしている佳乃の肩を優しく叩く。


「佳乃。どうしたんだ? 一体なんで泣いているんだ?」


「ぐすっ……だってぇ……そこの机の上に置いてある箱……勝手に開けちゃったからぁ……」


 泣きながらそう言って佳乃は勘定場にある机の上の箱を指差す。その隣には何やら皿のようなもの三枚ほど置いてある。


 皿はすべて色が異なっているようだった。遠目から見ただけが、一つは紅色、一つは藍色、一つは山吹色に着色されているようだった。


 そのどれもが、非常に精巧に作られていることは遠目に見てもわかる。


 色合いもとても美しい……しかし、どこか不思議な感じのする陶芸品だった。


「三枚の皿、それぞれ違う色……あ!」


 私は瞬時に理解した。そして佳乃のことを見る。


「あはは! でも笑っちゃうよね! お皿が三枚だなんて……あははは!」


 と、今度はなんの脈絡もなく、佳乃は嬉しそうに笑いだした。まるでコロコロと感情が変わってしまっていて、正直、不安定なんじゃないかと不安になる。


 ただ、それは……理由が存在しているのだ。


 三枚の色の異なる皿……佳乃の感情が非常に不安定なのはその骨董品のせいである。


「……哀楽怒器」


 私は目の前で意味もなく楽しそうにしている我が妻を心配そうに見ながら、その骨董品の名前をつぶやく。


 陶芸家、濃部折鶴の傑作の一つの作品名を。

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