第2話 二〇〇三年夏――虫干しとともにまれびと来たる



 祖母の形見分けは四十九日過ぎてから行うことになった。着物は綾子に一任され、祖母の箪笥をあけて次々にたとうを引っ張り出し着物用ハンガーに吊るしていった。八畳と十畳の続き部屋が色彩に埋もれ絹のたゆたいにひたされる。「水戸の着道楽」の言葉があるとおり、お茶もお花も日舞も嗜んだ祖母の箪笥には洒脱な小紋から上品な色留袖、はたまた百亀甲の本場結城紬や優美な紗袷まで揃っている。

 供養と思い、綾子も祖母が拵えてくれたシャリ感のある萌黄色の夏結城を身につけた。母と伯母は途中で買い物に出かけたが、綾子は飽きることなく着物と帯を眺め、職業人らしい几帳面さでメモを取りながらしみや汚れなどの点検をした。

 それから帯揚げや帯締めの整理を始めようと小引出をあけたとたん、玄関のブザーがけたたましく鳴り響いた。ご近所さんだろうかと戸をあけたが誰もいない。首を捻りながら部屋に戻ると縁側の向こうに知らない男が立っていた。綾子は危うく声をあげそうになったが紋付袴の礼装であればそれが何者か想像はつく。夢使いだ。

「これはまた素晴らしいお召し物の数々で……」

 綾子は男の賛嘆のまなざしに気を好くし、軒先にぬっと立っていた無礼を水に流した。

 年のころ四十半ばくらいか。この暑いなか絽の紋付が板についていると言えば褒め言葉だが、いささか襟元が緩くだらしない。といって始終きもので過ごす夢使いらしく、袴の足捌きなどは文句のつけようもなかった。

 名刺を交換すると、夢使いとともに「養蚕教師 大桑糺おおくわただし」とある。養蚕の廃れた今では夢使いより珍しい職業かもしれない。夢使いは桑を神木と崇め、桑の葉を食し数度にわたる「みん」をもって成長する蚕を神獣とする。よって彼らは古くから養蚕に従事し土地から土地へ渡り歩き夢を購いながら養蚕の指導も行っていた。養蚕教師は必ずしも夢使いの素養のあるものに限らなかったが、遊芸の放浪者、または囲い者として不安定な地位に甘んじてきた彼らは明治維新後に蚕種と生糸製造のため国家が養蚕教師を奨励して以来すすんでその職に就いた。世界一を誇ったこの国の繭生産量は富国強兵のための外貨獲得に役立った。その後、養蚕業は世界恐慌と二度の世界大戦によって落ち込んだが、昭和三十年代半ばすぎ、つまり綾子や大桑が生まれたころに再び活気づいた。ところが四十年代には安価な輸入品の絹や化学繊維に押しやられ、また呉服業の不振にともなって急激に傾きはじめる。今では蚕を見たこともない子どもたちがいる時代だ。それでも、養蚕教師には今も恩給が出ると聞いている。

 夢使いは長髪であることが多いが、大桑は短髪だ。養蚕教師のせいと察したが、姓は祖母が長年依頼をしてきた夢使いのそれだ。綾子の疑問にはすぐこたえが返る。

「お邪魔しておりましたのは私の大伯父でしてね。こちら様には大変よくしていただいたのにご焼香も果たせぬまま自分もあの世に逝ってしまいました」

 綾子のお悔やみの言葉をさらりと受けて、お恥ずかしながら整理がつきましたのがつい先日で、今日は御親族のどなた様かおいでになるかとかわりに挨拶にまかりこした次第ですと続けた。その物言いに、たかだか年に一度あるかないかの付き合いではなかったのだと思い当たる。差し出された包みから立ちのぼる芳香はさすが夢使いと言うべきか、夢を香音かねと呼びそれを降ろすことを生業にする者らしく美事だった。

 しかも、仏壇の前で手を合わせる男の足袋は白く清潔だ。履き替えたのが見てとれた。綾子は冷えているだけが取り柄のペットボトルの麦茶を注いで出すのが恥ずかしく思えた。

「祖母は、あなたの大伯父様にどのくらいの頻度で依頼をしていたかご存知ですか」

 綾子の単刀直入にすぎる質問に、大桑は通りいっぺんの言葉を返した。いわく、我々には守秘義務がありまして云々と。

「後生ですから、そんな杓子定規なこと言わないでくださいよ。せっかくこうしておいでくださったんですもの、祖母について何かお話ししてくれたっていいじゃありませんか」

 綾子がそう詰め寄ると、

「私はちょくせつ故人様を存じあげません。それに、世の中には知らなくてもいいことはあります」

 大桑は黒縁眼鏡の向こうの瞳を眇めてこたえた。いかにも剣呑な顔つきであったので綾子は殊勝らしく肯いてみせたが、引き下がるつもりは毛頭なかった。

「……勝子さんも言い出したら聞かないおひとだったそうですが」

「わたし、祖母に一番似てるって言われてますもの」

 すかさずそう口にした綾子に、大桑はさきほどと打って変わって遠慮のない様子でわらった。それに安堵した綾子がお茶を差し替えようとすると、大桑は目顔で止めた。

「これでお暇します。次の仕事がありますもので」

 座布団をおりて端然と頭をさげた。仕事と口にされてしまっては、綾子は引き留める言葉をもたなかった。

 雪駄に爪先を引っかけた男はふりかえり、恐ろしいほどに真剣な表情で綾子ではなく室内の着物と帯へぐるりと目をやった。何を言いだすものかと綾子は身構えた。すると、

「本当に素晴らしいお召し物だ。どれもこれも貴女に似合う。もらっておしまいなさい」と砕けた調子でそそのかされた。それを聞いてちいさく肩をすくめて首をふった。貰い受けるものはすでにもう手許にある。祖母は綾子に着物をたくさん拵えてくれていた。

 縁側をおりて見送ろうとする綾子を再び視線で押しとどめた男の、いくらか薄い頭頂部を見おろす。綾子はすっかり我が物となった客商売の身振りではなしに声をかけた。

「お仕事で近くに来られたら店にいらしてください」

 ご縁があれば、そう言って大桑は深くお辞儀した。

 夢使いの身分をあらわす扶桑紋をあしらった背を眺めながら、これはふられたな、と綾子は思った。職業柄、着物を仕事着にする夢使いには縁がある。夢使いは癖のある人物が多いが、綾子は苦手ではなかったし好かれもした。だが、大桑は例外のようだ。

 晴れ渡る夏空を仰いで一息つき、綾子は小物の整理をし始めた。そろそろ母と伯母が返ってくる。 

 

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