第3話 二〇〇三年八月――再会
藍鼠の紗紬に一つ紋姿でぺこりと気さくに頭をさげた大桑を奥の商談室へ案内した。いちばん古株のパートの京子がすぐにお茶を運んでくる。大桑は頂いた御香料のお返しになればよろしいのですがと口にして、箱の蓋をそうっとひらいてみせた。
はたして、そこにはまるまると肥えた蚕が十数頭、顔をあげて蠢いていた。綾子は御礼の言葉もそこそこに立ちあがり、お蚕さまよ、ちょっと来てみてと声をあげた。左右から女たちに取り囲まれた大桑は居心地悪そうにしていたが綾子は上機嫌だった。入社二年目の舞衣はいやだ~と思いきり眉をしかめたのに、触ってもいいですかと返事を待たずに手を伸ばした。ひょいと持ち上げるマニキュアに彩られた指よりも蚕はずっと白い。いっぽう休日だけ出勤しているパートはこわごわと首をすくめて腰がひけているし、着付け対応で本社から来た制服姿のOLはそもそも興味なさげだ。それに気づいた綾子はふたりに売り場の小物の整理整頓お願いした。本来なら手伝いのひとを先に休ませるべきだがこうなってしまってはしょうがない。できるだけ柔らかな声でそう伝えた。
「これ、もう繭を作りそうじゃないですか」
お茶を淹れてくれた京子の質問に大桑はうなずいた。続いて、説明してくれと乞うように綾子のほうを流し見る。養蚕教師のくせにと可笑しかったが綾子はひきうけた。
「そのとおりですね、もう
こうなるともう、桑の葉を与えないでもいい。まぶしって何ですかとたずねた舞衣に、お蚕さまが繭を作るベッドみたいなものかなと綾子はこたえた。ボール紙か何かで作れば事足りるかと考えたところで大桑がこたえた。
「新聞紙を丸めて筒を作ります。いま、小学校の夏の課外学習だとそう教えてます」
舞衣がまだ掌にまっしろな蚕をあそばせたままなので、半分持って帰る? と首をかしげて問うた。はい、と元気よくこたえた舞衣に京子が先輩風を吹かせ、育て方は知ってるのと聞いた。すると平然と、ぐぐります、と返事した。
「大桑さん、今日この後は」
綾子の質問に仕事はありませんと苦笑が返る。それを耳にした舞衣が、日時報告しておきますから後は任せてくださいと微笑んだ。綾子が御礼を述べる前に、何かあったら遠慮なく電話しちゃいますしと胸を張ってつけたした。京子が、そこはえばらなくていいのと小声でつっこんだ。身長が百七十にほんの少し足らないだけの舞衣と百五十センチあるかないかの京子のやりとりにはいつも笑わせられている。
大桑の車で少し走ってもらい老舗の鰻屋へ案内した。飲まれたらいかがですかと勧められたが綾子は首をふった。明日も仕事ですのでと遠慮した訳ではないという意をこめて伝えた。料理を頼んですぐ、大桑は信玄袋から封筒をとりだして中身を綾子へとさしだした。富岡製糸場をユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクトと記してあった。綾子は失礼しますと口にして書類を捲った。
「この八月二十五日に公表されます」
「ユネスコ世界遺産というと、たしか結城紬も何か動きがあったと聞いていますが」
商品開発部出身なので各産地の動きは知らないではなかったがこの件は初耳だ。
「あちらは無形文化財としてですね。こちらは製糸場を筆頭に絹産業の遺産群としての登録を目指しています」
綾子はどうしてこの話しをされているのかが理解できなかった。だから差し向かいの相手の顔をのぞきこんだ。
「
「風穴については聞いたことがあります」
「写真や当時の様子を詳しく知るひとがいたら教えてほしいのです。荒船風穴は一九二〇年頃にはアンモニア式機械冷蔵庫の普及にともない使われなくなりました。今は、ただ岩を積んだだけの場所になってしまっている。なにぶんにも昔のことでしてね、世界遺産登録へ向けて復元するとしても資料の整理も何も覚束ないそうでして……」
綾子は母や親戚に聞いてみますと返しながら、この男は肝心のことを教えてくれないと感じた。その不満を感じとったのか、大桑は箸をおいた。視線がかちあい、綾子はどう切り出そうかと考えあぐねいたが大桑は話しをずらした。
「それにしても、みなさん仲が良くていいお店ですね。すみずみまでよく行き届いている」
まんざら世辞にも聞こえなかった。ありがとうございますと綾子はひとまず受け取った。それから、はじめは喧嘩ばかりでしたけど、いえ、今もよくぶつかりますと言い添えた。
「女のひとはみな気が強いから」
「そうですね。でも、わたしはこれでも弱いところがあるんです」
綾子の言葉に大桑がまたまた御冗談をと軽口を返す。
「ほんとうです。祖母が亡くなって毎日泣いてばかりです。なんだか支えがなくなってしまったみたいで」
大桑は続きをうながすように綾子を見た。
「大学の四年間は祖母の家で暮らしたんですよ。あのころがいちばん楽しかった。学生で気楽なせいもありましたけど、祖母とは阿吽の呼吸でなんでもできました」
「たいへん聡明な方でいらっしゃったとうかがってます」
「あれを聡明っていうのかしら、ただなんていうか、明治女らしく昔気質で何事もぴしっと筋を通すところがあって、わたしはそれが快くて……」
嗚咽のかたまりが喉奥へ押し寄せてきて綾子は慌てた。お茶を口にしてそれを飲み下し、その一部始終を見られてしまったことに言いようのない羞恥をおぼえた。何故こんな話しをしてしまったのかわからない。なにか違う話題に振りかえようとしたところで、帯に差し込んだままの携帯電話が振動した。すみませんと声をかけて表示を見ると店でなく、義母のそれだった。一昨年の誕生日、綾子が便利だからと贈ったものだ。
綾子は狼狽を隠せなかったと思いつつ席を立つ。店の外に出て重く湿った熱気のなかで電話をひらく。綾子さん、と義母の切羽詰まった声が耳を打つ。もともと喉の細いひとで、聞き取りづらい声の持ち主だったが何を言っているのかわからない。
「すみません。いま打ち合わせ中なので、後でこちらからかけ直しますから」
綾子は強引に電話を切ったじぶんを恨めしく思った。一昨年に夫を亡くし、綾子夫妻と暮らしたがっていた。弟夫婦が一駅しか離れていない場所にいるのに、お嫁さんと反りが合わないと漏らしていた。綾子さんはいつも朗らかで一緒にいると楽しいわと喜んだ。物静かでおっとりとした義母は好きだった。
この数分のあいだに酷く汗をかいてしまった。夏帯の下が痒い。どうやら汗疹になっているようだ。しかも、身につけている紗の小紋は黒地だ。変に汗をかくとそれもシミになる。こんな想いをしなければならないことの何もかもが煩わしい。浮気と離婚という夫婦の問題を夫のせいだけにすまいと考えていたはずが、それすら守れなくなっていると気づいてため息をついた。なにもかも更年期のせいにでもしてしまおうと考えて夜空を仰ぐが何も、見えない。
大桑に家まで送ると言われたのを断らなかった。あの後は、当たり障りのない情報交換をした。祖母のはなしを聞きだすことはしなかった。
「お顔が広くてらっしゃるのね」
「いや、このくらい動かないと暮らしていかれないんですよ」
大桑は綾子の褒め言葉をかるくいなした。楽ではないだろうことは容易に想像がつく。呉服に限らず繊維業界は不況の嵐が続いていた。まして養蚕農家の数が凄まじい勢いで減っているのは呉服業界にいなくともわかるくらいだ。
綾子は運転席の大桑を見ずにたずねた。
「ご結婚は?」
指輪をしていないのは気づいていたが、夢使いはたいてい指輪をしない。香音を爪弾くのに邪魔になるそうだ。
「こんな男のところに来てくれる奇特な御婦人はいませんよ」
言い慣れているし聞かれ慣れてもいるのだろう。ならばこちらもそれらしく応答すればいいと綾子が割り切って口をひらきかけたとき、
「べつに、言う必要はありません」
大桑が言葉を被せた。
綾子は大桑の横顔を見た。
「私は夢使いですのでひとさまのおはなしを聞くのも仕事のうちです。それで気が楽になるならいくらでもおうかがいしますが、依頼料は頂戴します」
不躾な物言いには聞こえなかった。綾子は俯いて膝のうえのアザミ模様を見つめ、重ねあわせた手に力をこめた。これも、祖母の若いころの着物だ。黒地に刺繍で朱のアザミを散らした小紋は祖母の気に入りだった。他に娘や従姉妹がいるなかで、綾子にそれをもたせてくれた。
「私みたいな人間は、そうやって相手をすべきものです。まともに取り合っちゃいけません」
言葉と裏腹に、それがこの男の矜持かと思えた。
綾子は視線を前にもどした。花火大会のせいで交通規制のかかった道路はそれが終わった時間でもいつもより混んでいるようだった。
夫と花火を見た最後は何年前だっただろう。
あのときは手を繋いでいたはずだ。風のない夜で、打ち上げ場所に近いせいか花火が煙にまみれてよく見えなかった。
そうして追憶へ這入りこむ隙を与えられたのだと綾子が気づいたのは、義母の泣き声まじりの長い電話を切ってからのことだった。息子が本当に酷いことをして、と謝罪する義母はひとことも綾子を責めなかった。世間的にいえば浮気した夫が悪くて当然だ。けれど、それをさせてしまった妻についてひとが心のうちで何を思っているかはわからない。綾子はじぶんがそう考えている事実にぞっとする。
お茶を淹れようやく落ち着いて箱をあけ、言われたとおり新聞紙を丸めて筒を作って置いてやった。蚕はあたまを振りながら中へ潜りこみ、支えになる糸を張り巡らして態勢が整うと尿をする。知識としては知らないわけではなかったが、ほんとうにそのままなので綾子はひとりで笑ってしまった。
大桑に八月二十五日の懇親会に誘われた。懇親会なら部外者でも名刺一枚でどうにでもなると言い含められたのだ。綾子の休みがとれたら富岡製糸場や荒船風穴はもちろん、樹齢千五百年の御神木である蓮根の桑の大木も案内してくれるという。それまでに何かしらの情報を聞いて欲しいと頼まれた。
お盆に帰ったときに養蚕農家だったという祖母の生まれ育った家に行ってみるのもいいかもしれない。もう養蚕は廃業しているだろうから、上蔟につかう回転まぶしや繭から糸をとる座繰機の写真など撮って店のみんなに見せてあげたらいい。
綾子は着物姿のまま座りこみ、箱のなかの蚕が繭をつくる神秘的な刻をじっくりと堪能した。
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