あやとりゆめむすび

磯崎愛

第1話 二〇〇三年五月――祖母の死


 百歳に一年足らずの九十九歳で祖母が亡くなった。おばあちゃん子だった綾子は知らせを聞いて泣き崩れた。浮気した夫と別れ独り暮らしをはじめて間もないころで、夫の言い訳を聞くあいだには少しも零れなかった涙が、祖母の死には身体中の水分が出尽くしてしまうかのように溢れでた。


 綾子の別居に母親の純代は当然いい顔をしなかった。一度の浮気くらい我慢できないのと口にした。その年で離婚して将来どうするつもりなのと同じ質問を幾度もくりかえし、しまいにはおばあちゃんが生きてたらなんて言ったでしょう、知らないまま亡くなってよかったかもしれないと頭を振ってため息をついた。綾子は、おばあちゃんは我慢しろなんて言わないと反論したいのをぐっと堪えた。言い合いになって消耗するだけだ。この手のことで母親とまともな会話ができたためしがない。たしかに祖母は六十前に夫を亡くし長く孤閨を守ったひとではあるが、どんなときでも彼女の味方をしてくれた。ごくたまに曾孫の顔が見たいとねだることはあったけれど、したくなければ結婚なんてしなくてもいいのよ、と笑いもした。

 父親はそもそもかける言葉すら見つけられない様子でいた。ただ一言、葬儀を終えて特急列車を待つあいだ、ひとりで暮らしていけるのか、と低い声で問うた。母が化粧室へ行ったのを見計らったようなタイミングだった。

 新緑を洗うように風が吹いている。父の、すっかり薄くなってしまった白髪を風がさらう。父は綾子のこたえを待たず、煙草がないと待ち時間が手持ち無沙汰で弱るなと苦笑した。酒も煙草もよく呑むひとだったが数年前に食道がんを患って煙草をやめていた。喪服の肩が落ち、細くなった脚のせいでズボンのサイズも合っていない。勤め人だったころの父はこんなふうではなかった。

「これでも店長だから、稼ぎはそれなりにあるの」

 綾子が都内と千葉県を中心に十二店舗ある呉服チェーン店の店長になったのは一昨年の四十一歳のことだ。店舗の販売員でなく、商品開発部からの転身だった。今日も母親をはじめ親戚一同がレンタルした喪服を着るのを手伝うときにも綾子はもちろん自前のそれをまとっていた。

 父親は、そうか、とだけこたえた。そして特急列車の時間を確かめるために電光掲示板へと顔を向けた。頑張れよとも、身体に気をつけろとも、何かあったら連絡しなさいとも口にしなかった。

 綾子は撫で肩をさらに落とした。早く列車が来ればいい。席に着いてしまえばそれぞれに新聞を読むなり飲み物を手にするなりで間がもつにちがいない。

 そっと、冷房よけのストールの端にある絹の房飾りを指先に触れさせた。どうしようもない気詰まりが癒されるようだった。


 祖母の名は勝子という。日露戦争の最中に生まれたせいでそんな名をつけられたそうだ。ずいぶんといい加減ねえと綾子が言うと、昔はそんな塩梅だったのよと朗らかに笑いとばした。年をとっても髪が豊かで腰も曲がらず、七十まで真夏以外は着物で過ごした。さすがに八十を越してからは洋服を着たが、ここぞというときは着物をまとった。従姉妹や友人たちより遅い結婚をした綾子の式のために、新しく訪問着を誂えるほど喜んでくれたものだ。

 祖母の着道楽は茨城の富裕な養蚕農家に生まれたせいだ。敷地には大きな水車があり、鶏卵も煙草も扱っていたが、やはりいちばん養蚕がお金になったそうだ。母屋の他に、お蚕さまのためのとても立派な家があったと誇らしげに話した。綾子は残念ながら、水車もお蚕さまのための家も知らない。 

 綾子は祖母の口にする、お蚕さま、おこさま、という言葉のやわらかな、甘ったるいような抑揚が好きだった。祖母とふたりでいるとき、たまにからかうように呼ばれた、綾ちゃまという音と似たような響きがあった。お蚕さまには御と様をつけるのだと、お姫さまとお殿さまと同じくらい大切なものだからと教わったのは幾つのときだったか綾子は忘れてしまった。

 祖母はまた、お蚕さまが明治維新からずっとこの国を支えてきたのよと話してくれた。学校で殖産興業という言葉を教わる前のことだ。蚕の卵を蚕種と野菜のように言いあらわすのは、それがかつて農家の主要産業だったからだ。年に一度、春にしか飼育できなかった蚕を、風穴という天然の冷蔵庫へ蚕種を貯蔵して農閑期の夏と秋にも育てられるようにした。こうして蚕種と生糸は世界中へ輸出され、この国を豊かにしたそうだ。

 綾子はそのはなしを初めて聞いたとき、まるでSFに出てくるコールドスリープみたいだと思った。祖母は当時を思い出すようにまぶたを閉じて口にした。夏はひやっこくて気持ちよくてねえ、あのころに御商売のために電話を引いたってんだからたいしたもんだったんだよ、山ん中だから車が通れなくてね、中学生のお兄ちゃんたちが荷物を運ぶのを真似して手伝ったら褒められてお小遣いもらえて嬉しくてね。いつか綾ちゃんも連れていってあげたいねえ。祖母は目を細めて綾子を見た。その約束は、果たされなかったのだけれども。


 白菊に埋もれるように棺におさめられた祖母をみて、綾子はふと、そんなことを次々に思い出した。

 おばあちゃんは繭のなかで眠っているみたいだと感じたからだ。


 祖母の忌引きなので三日ほど休みをもらった。今回ばかりはみなに甘えた。それでも店にはこまめに連絡を入れた。女ばかりの職場で離婚の相談をしてからは年上のパートさんたちがみなやさしかった。店長に就いてすぐは気負っていた部分もあったのだろう。意見がぶつかっていくらか波風が立った。本部へ移った前の店長とのやり方の違いもあった。綾子はたんたんと根気よく店の展示を変え在庫を減らすキャンペーンを組んだ。あまり細かいところには口出しせず、けれども何か言いたそうなサインは見逃さないよう気をつけた。しばらくしてぽつぽつと愚痴を聞けるようになった。前任の店長は社長の甥でやりづらかったらしい。こうなればしめたものだ。そのときよりは上手くやれる自信はあった。そして、実際そうなった。


 夫が浮気したころ、綾子は仕事に夢中だった。それで愛想をつかされたのだと友人たちに告げてはみたものの、若い女に奪われたのだとは口にできなかった。しかも、本気ではない遊びだと繰り返し言い張られては気持ちが冷めるばかりだった。だから、まるで学生時代に男と別れたような気楽さで離婚したい旨を告げた。

 夫は信じられない言葉を聞かされたという面持ちで綾子を見た。それに驚愕した彼女へと夫がぶつけた。お前だって上司と何かあったから店長に引き抜かれたんじゃないかと。 

 それが別居の決定打になった。たとえ手をあげられたのだとしても、こんなには腹が立たなかっただろう。

 夫とは仕事上の付き合いで知り合った。仕入れ先の小物メーカーに勤めていた。お互いの仕事も知らないではなかったし、けっして仲が悪い夫婦ではなかったつもりだ。熱烈な恋愛結婚というのではなくとも、それなりに好き合っているし理解もあると信じてきた。けれどそうではなかった。


 風呂からあがり、寝る前だというのにお薄を点てた。苦さのなかにしっかり甘みのあるお茶独特の味を教えてくれたのも祖母だった。

 こんな日は懇意にしている夢使いを呼んで祖母の思い出など夢に見せてもらえばよかったのだと思いついたが遅かった。いや、今からでも身体が空いていれば来てくれるかもしれない。そうは思ったが、綾子の店のお客でもある二十代の娘を人通りのないこの家まで歩かせたりはしたくない。深夜料金のタクシー代を払うくらいならお寿司でも御馳走したほうがずっといい。

 眠れないときはいつでも呼んでくださいね、そう言って綾子の手をとった振袖からのぞく瑞々しい手を思い出す。じぶんも昔はあんな手をしていたのだと。

 男性客の依頼は受けないと言っていた。変な要求をする男もいるからと。夢使いを娼婦と勘違いしている客もいるそうだ。

 綾子さんみたいに優しいお客様ばかりだったらいいのに、そう呟いた娘の横顔には客商売らしからぬ本音が見え隠れした。それがお得意さまに対する純粋な媚びへつらいだけでも、気安い本音だけでもないことに綾子はひっそりと微笑んだ。


 綾子の母親は誰かの命日などに夢使いを招く風習を嫌った。むろん七歳の夢見式は行われた。十三歳のそれは祖母がすべて準備してくれた。いまどき十三歳の式は省略するのが普通だが、綾子は祖母の一声で頭を桃割れに結い肩上げをした振袖を着て夢使いを迎えた。あいにくその夜の夢は忘れてしまった。けれど、目が覚めて花の匂いがしたことだけはよく覚えている。それは吉夢の証しだと祖母がたいそう喜んだので綾子も嬉しかった。

 一般に夢使いは命日や夢見式でなくとも自由に呼んでいいものなのだが、祖母がそうしていたので綾子は中学の社会科の授業で習うまでそういうものだと信じ込んでいた。

 どうして命日だったのか、それを聞き忘れたと綾子は思った。それだけでなく、着物についても教えてもらいたいことがまだまだあった。そう思う間に葬儀のときに零れなかった涙が溢れだし、頬から喉をつたい両手に持った楽茶碗へと落ちていった。綾子は慌てて茶碗をテーブルに置き、ティッシュの箱をつかんだ。泣き腫らした顔で売り場に立つわけにはいかないのに涙はとまらなかった。

 祖母の死から、綾子はよく泣くようになった。


 布団にもぐりこむと、綾ちゃん、た~んとお眠りなさいと言った祖母の声が聞こえるような気さえした。あれは第一志望の高校に落ちた報告にいった夜のことだ。祖母に布団を敷いてもらったのは幼児の時以来だった。あらそうと言ったきり特に残念がりもせず、盛大に励ましたりもしなかった。躾には厳しかったいっぽうですんだことをくだくだ言うことはまるでなかった。祖母は、今夜は寒いから電気あんか入れたげようねとそれをそうっと押しこんで、おやすみと囁いてそのまま布団をかるく撫でていった。あのときの祖母のあしおとが懐かしく耳によみがえった。

 あの夜、家でも学校でも笑顔で過ごしていた綾子は、襖の閉まる音を聞いてはじめて、込みあげるものを堪えず流れるに任せた。

 おばあちゃん、安らかないいお顔だったなあと思い出してはじめて、あれを永眠と呼ぶのだと腑に落ちた。

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