第4話 おすすめのボロネーゼ


「いらっしゃいませ。お食事いかがですか?」

 上半身を覗かせるような体勢で、わたしの方を見ながら男はそう言った。


 扉をくぐって出てきたその人は、すらりと伸びた細身の長身に白いシャツを纏い、捲った袖からは白い腕を覗かせている。

 長めの黒髪が切れ長の目に掛かり顔を少し隠しているので、見た目では年齢を感じさせない所がある。落ち着いた雰囲気を纏ったその姿は三十代半ばにも思えるが、本当はもう少し若いかもしれない。


 ただ立っているわたしを不審に思ったのか、彼が繰り返す。

「お食事、いかがですか?」

「あ、すみません」

 結構です、と言おうとして止まる。開けっ放しになった扉の隙間から、なんとも言えない良い香りが漂ってきた。思い出したかのように、急に空腹を感じる。


「あの、何かおすすめとか、ありますか?」

「そうですね、今日はボロネーゼが我ながらいい出来です」

「じゃあ、お願いします……」

 おすすめまで訊いておいて、じゃあやっぱり、と引き返す度胸はない。わたしは覚悟を決めて扉をくぐった。


 店内に入ってみると、こういうと失礼だろうが、意外とちゃんとした内装だった。全体は暗めの色調の木材で統一されており、落ち着いた雰囲気を醸し出している。何より、先ほど感じた香りがいっぱいに立ち込めて何とも食欲を誘った。


 入って右側の壁沿いには、コンロや食器が並んだ調理用のスペースが縦長に奥まで伸びている。それを囲むようにL字のカウンターがあり、長い側に七席、短い側に三席が並んでいる。ラーメン屋さんでよく見るような具合の配置だ。


「お好きな席へどうぞ。荷物は空いている席を使って頂いて構いません」

 そういわれたので、入り口に最も近い席にトートバッグとポーチを下ろし、その隣の席に腰かけた。

「注文はボロネーゼでよろしかったですか?」

「あ、はい。お願いします」

「かしこまりました」


 こちらがお客とはいえ、明らかに年上の男性から丁寧な言葉遣いで話されると何ともむずむずした気持ちになる。とはいえ、それを口に出すのも変な話だ。口には出さない。

 代わりに、思いついた疑問を投げかけてみる。

「ここの店長さんですか?」

「まあ僕一人の店ですからね、店長と言えば店長です」


 何か不満げではあったが、そう言いながらパスタを軽量し、慣れた手つきで茹で始めていた。

「おひとりで切り盛りするなんて大変そうです」

「確かに、猫の手くらいは借りたいところですよ」

 笑ってそう言う。バイトとか、と思わず口にしかけるが、思いとどまる。突然なぜそんなことを言おうとしたのか、わたし自身でもわからなかった。


 わたしがじっと眺めているからだろうか、店長さんは時々こちらの様子を窺いながらしばらく鍋やら食材やらを出し入れしている。作業をする手を止めてこちらを向き、調理台の下から何かを取り出したかと思うと、

「どうぞ」

 目の前に透明なグラスが置かれる。多少歩いて疲れた身からすると、大変ありがたいものではある。

「あの、これって」

「カフェラテです。コーヒーは苦手ですか?」

「いや、そうじゃなくて……」

「サービスです。お疲れのお客さんに。蓮戸駅からはそこそこ距離があるでしょう?」


 ありがとうございます、と言いかけて止まる。

 あれ、なんで私が蓮戸駅から来たって知っていたんだろう。疑問が沸き上がる。正確にはわからないが、この辺りはちょうど蓮戸駅と見取駅の中間くらいのはずだ。断言するのは少しおかしい。


 余程わたしが不思議な表情をしていたのだろう。彼は鍋でパスタのソースを揺すっていた手を止めると、こちらに向き直ってわたしに問いかけた。

「その様子だと合っていましたか、蓮戸駅で」

「は、はい。でもなんで……見取じゃなくて蓮戸だって」

「まあまあ、落ち着いて。塾のバイトだとたくさん喋らないといけなくて疲れているでしょう。カフェラテでも飲んで」


 確かに言うとおりだ。わたしは刺さったストローからカフェラテをすする。強すぎない苦みが心地良い。再び違和感に気づく。バイトを言った覚えはない。

「もしかして、どこかで会ったことありますか?」

 ふふ、と店長さんは笑う。

「合っていたか、とは聞くまでもないみたいですね」


 初対面ですよ、多分。と続けたあと、いたずらが上手くいった少年のような笑みを浮かべた店長さんは続けた。

「ちゃんと理由は説明しますよ。ストーカーだと思われたら困りますからね。」

 でも、と前置きしてこちらに皿を置く。


「ボロネーゼです。冷めないうちにどうぞ。」

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わたしと夕陽と喫茶店 @K_MaTsusaKa

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