第3話 いつも通りの一日。あるいは、


 心地の良い微睡の中で、何かに呼ばれている感覚を覚える。止まないそれは次第に大きくなり、ついには無視できない程に知覚を刺激する。上下も、左右も、自分が何をしているのか、今が何時かもわからない中で、俺は手を伸ばし……


「あ、やっと出た。久しぶり、優介君」

 手に持ったスマートフォンの向こう側から、柔らかい女性の声が聞こえた。


 彼女の声に水を打ったように、次第に朦朧としていた意識が覚醒してくる。それと同時に、電話の相手にも見当がつく。

 ただ、掛けてきた要件が思いつかない。


「ああ、おはよう。いや、久しぶりか」

「その感じはまだ寝起きかなあ。個人事業主さんは気楽に重役出勤できていいねえ」


 そう皮肉る彼女は、間違いなく高校時代の友人である瑞希だ。懐かしい声に、思わず顔が綻んだのを感じる。

「一度でも売り上げに貢献してりゃ、言い返すことはないな」

「あれ、一度もお誘いが無いから、てっきり入店拒否かと」

 手厳しさと、歯に衣着せぬ物言いは相変わらずのようだ。この様子だと、さっさと本題を聞いた方が良さそうだ。


「それで、突然どうしたんだ、何か用でも?」

「そうそう、それなんだけどね。多分そのうち実家に戻る機会があるから、久しぶりに顔を見に行こうかなって思ってさ。何か用事でも被ったら嫌だから、一回連絡しとこうと思って。」

 まだ日は決まってないんだけどね、と彼女は笑う。


「それにしたって、突然電話を掛けてくることもないだろうに」

「そうなんだけどさ、久しぶりすぎてメッセージ送るだけっていうのも違和感あったからさ。こんな機会じゃんいと電話なんて掛けることもないし」

 電話の向こう側で笑う、懐かしい彼女の顔が瞼の裏に浮かぶ。いや、最後に彼女と会ってから三年も経っている。もしかしたら、雰囲気もだいぶ変わっているかもしれない。


「まあそうか。とりあえず連絡ありがとう。長く店を空ける予定はないから、いつ来るのか分かったらまた連絡してくれ」

「だね。そうするよ。じゃ、それまで潰れないように気を付けて」

 と、縁起でもないことを言う。


「善処するよ、じゃあまた」

 そう言い、通話を切り上げる。

 時計を見ると八時になるかというところだ。五分後に迫った目覚ましアラームを切る。思えば、ちょうど俺が起きるかどうかの時間を狙って掛けてきたのかもしれない。

 モーニングコールの相手としては悪くなかったな、などと考えながらベッドから身体を起こした。


 その後、朝食を済ませた後に「電話ありがとう。連絡待ってる」と彼女にメッセージを書く。

 送っていいものか少し悩んだが、連絡してきたのは向こうだ。構わないだろう、と送信ボタンを押した。


 さて、仕込みを始めなければ。言われた通りになりかねない。




 一度部屋を出て、通りに出る。見慣れた店の外装が変わらず佇んでいた。

 鍵を取り出し、ウォールナット色の扉に差し込むと、そのまま錠を開けて戸をくぐる。見慣れたカウンターと椅子が俺を迎えるが、それらを通り抜けて奥から調理場へ入る。


「よし、やるか」

 迷わず食材を取り出し、下ごしらえを始めた。香味野菜を細かく刻み、多めの油でじっくり炒める。それと同時に隣のコンロでは大量の湯を沸かし、牛すじをぐつぐつと煮込む。こういった作業にももう随分と手慣れたものだ、と自分でも思う。


 香ばしい匂いが立ち込めてくる。火が通った野菜を一旦取り分け、今度は同じ鍋で牛ひき肉を焼き始めた。パチパチと油の弾ける音が聞こえるが、焦ってはいけない。じっと鍋の端を見つめ、焦げる直前まで焼き加減を見極める。

 肉がこんがりと飴色に染まったのを見計らい、鍋を振って中身を返す。同じように裏面にも焼き色を付けると、野菜と同じく中身を取り分けた。


 用意した具材にたっぷりの赤ワインとトマト、ハーブを加え、鍋の中でかき混ぜる。後で味を調えれば完璧だろう。蓋を閉め、火を弱火に落とした。昼の営業には間に合わないが、夜にはいい具合に仕上がるだろう。

 ふう、と息をつく。時刻は十一時過ぎ。そろそろ店を開けてもいい時間だ。




 昼の営業は可もなく、不可もなく終わった。一旦表の看板を準備中に戻し、遅めの昼食を済ませた後に休憩を挟む。

 朝一の電話は想定外だったが、それを除けば今日はいたって平凡な一日だった。鍋をかき混ぜながら今日きたお客さんを思い返す。


 きっと、夜の営業もいつも通りだろう。瑞希からの返事はない。きっとまだ仕事だろう。

 もうずいぶんと会ってもいないというのに、返事に期待する自分がおかしくて眺めていた携帯をしまう。


 窓が夕陽に照らされ、店内を朱色に染めている。随分と陽も伸びてきたな、と時計を見ると間もなく十七時だ。

「そろそろか」

 開店の準備をしなければ。出していた食器や鍋を手早く片付け、カウンターの上を布巾で拭う。ドリンクの準備はしていないが、すぐに客が来る訳でもないだろう、と先に店を開けに表へと向かう。


 ちょうど、扉の向こうから午後五時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。気持ちを入れ替えて、接客の言葉遣いを意識する。

 ガチャリ、と扉を開け、身を乗り出すようにして掛かっているプレートを準備中から営業中へと付け替えた。


 ふと、傍に立つ紅い人影に気が付く。夕陽で真っ赤に染まった人影からは表情を窺い知ることは出来ないが、シルエットから女性だということが分かる。

 この店が目を惹くのはいつものことなので驚きはしない。こちらも商売なので、一応声を掛けておかなければ。


「いらっしゃいませ。お食事いかがですか?」

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