第3話 人は死して名を留む

 誰の涙かわからなかった。


 落としていた視界の先には、ぽつりと地面を濡らす水滴が一つ。けれどそれ以降増えることもなかった。

 隣には父がいた。空は暗いが、まだ雨が降るほどではなかった。よく考えなくても、誰であったかはすぐにわかる筈だった。

 だけど分からなかった。今まで一度も、その姿を見たことがなかった。顔を上げて見える父の顔も、泣いているとは思えない、いつも通りの能面だった。


 埃混じりの、濃い青葉が茂る匂いがする。空をいちばん近くに感じる時の匂いだ。

 頭上は暗く淀み、見上げた皮膚をぽたん、と濡らす。次第に匂いは更に濃くなって、雨は砂利道を強く打ち始めた。

 さっきの一滴は雨に紛れてもう分からない。

 透明な傘が灰色の背景に浮かぶ。黒い人型が傘からはみ出て、クラゲが取り憑いているみたいだと思った。

 列を成すそれは、冥途への案内人のように厳かで無口だ。生の気配を感じない。着いた先で香る、渋く烟る線香の匂いと僧侶の唱える言霊だけが確かな気さえする。さしもの私も幼心に不安でいっぱいだった。


 さむいさむい、冬みたいな六月だった。


 父は、ずっと。

 母の事を見ていた。私に目をくれず。

 もう動かなくなった、母だったもの。

 とおく、とおく、流れてゆく。

 時間が、記憶が、匂いが。

 腹底に打ち付ける鐘が鳴って、お堂に響く。

 かねてより家の間柄が深いというこの寺では、先祖の霊でも住み着いているのかも知れない。陰鬱で、天候も相まって更に名物らしい古くて複雑な木造の天井は、陰ってよく見えなかった。

 ぼんぼんぼんと、丸みある木魚の音が頭にまで鳴り散らす。時折、鐘の鳴る音が底にある意識を浮上させる。繰り返される流れに身を任せながら、脳はぼんやりと思考する。


 ほんとうに置いて行かれたのは誰だったのだろう、と。

 あのとき、この世の絶望を最も感じたのはどちらだったのだろう、と。

 



 母が死んだときのことをよく覚えている。

 私が小学三年生、おおよそ七年前のことだった。

 あの日は冷たい雨が降っていた。霧雨のような細かな水滴が私の頬を濡らして、卸したての黒いワンピースを更に黒く染めあげていた。

 視線の先には表道の砂利が雨を吸って影を落としていた。どこを蹴っても色を変えることのないそれらは、嘆いたって動かぬ現実を叩きつけているようだった。

 雨が止まないから、顔はいつまでも濡れたままだ。

 喉がひくひくと痙攣するのは、六月なのに風も気温も冷たい日だからだ。何処も彼処も雨で潤っているのに、この場所に集まる人々はみんなカラカラだ。


 母が死んだ。


 その言葉は音として認識している。事実も把握している。ただ実感だけ、私に追いついてくれない。

 父がかけた言葉一つが、一層それを阻止している。だから涙のひとつさえ溢れてはくれない。

 有象無象である親戚の人達は可哀想にと私を見る。

 違うのだ。そうじゃない。何もわからない奴が語るんじゃない。私がなのは、何処か欠けているからだ。

 物心がついた時からあった違和感が加速していく。他人との差が嫌でも目に付く。どうすればいい。どうしたら、まともでいられたのだろうか。

 思考の仕方も、挙動も。

 私は、万人が思う、とやらからはみ出ている。

 答え一つとっても、私の出す答えと他人が出す答えは違う。他が左と思うことに、私は何処其処の右と入り組んだ方を選ぶ。

 物事の解は幾つもあれど、相手の理解に及ぶ範囲外ならば話は別だ。赤い花の横に咲く、青い花の様に明らかなそれ。見目が違えば、人は簡単に拒絶の対象にする。

 だが悲しいことに、姿形は凡庸だった。だから、返ってその反動は大きい。

 奇異の目は徐々に増えていき、やがて私は完全な浮き彫りへと遂げる。蝶の群れの中で、汚い羽虫が一つ混じる様に。



 ふと、人の行き交う祭儀場へと目を向ける。真摯ともいえぬ表情で喪主を務める父を思う。

 彼は、どうか。

 あの人は、もう一人のわたしは。

 これを一体どうしてきたのか。

 実の血の繋がった身内が死んだ今だって、悲しまなければならないと思っているのに、分かっているのに、頭の中はずっと凪が鳴り止まないままだ。ピーと甲高い機械音が流れて、心根は静かに静かに息を潜める。

 まるでそこにいないみたいだ。自分のこころと、うまく動かすためのプログラム。それが無くては、どうしたって生きているようには見えないだろう。だって。

 人は嬉しくて笑うのだと。

 哀しかったら泣くのだと。

 腹が立てば怒るのだと。

 痛ければ痛がって、嫌になれば叫ぶことだってある。

 母にそう、教わったのに。

 瞼を閉じて思い浮かべる。わからないものを思い描く。

 はて、感情とは。想いとは。

 一体どういう、ものなのか。

 自分の中を覗けば、ポッカリとした穴ひとつ。風がささやかに、ほそく通るほどの冷たさが頬を打つ。

 あぁ、父はこんな気持ちを、味わったことがあるのだろうか。


 母が死んだ。


 どうであれ、目の前にあるそれだけが、動かぬ事実だった。

 葬儀は実に、密かに行われた。ひとクラス分の大人が入って少し狭いくらいの真っ白な部屋に、棺桶に収まったちいさな躰。噎せる白百合の甘香と、それを打ち消すような渋い線香の匂い。

 黒い人型が無意味に参列する。ざわざわと囁く様な騒めきは消えない。

 かあいそうに、かあいそうに。周囲から聞こえるのは、そんな無意味な言霊だ。

 夕暮れの烏のようだ。かぁかぁと喚かしい。本気で無いくせに。ぎり、と歯が力んだ。

 だってこの列に、本当に悲しんでいる人は居ないのだ。

 大して関わっていないのに、あの人はああだった、と並べ立てる。それは周囲に広まり、伝染し、作り上げられた偽物に中身のない情を寄せられていく。本当なんてまるで無い、空の人形の出来上がりだ。


 なんて、くだらないのだろう。


 チーン、と仏具の鐘が鳴る。木魚と僧侶の仏念が加速する。

 終わりが向かう。終わりへ辿る。

 その生が、その人生が、私の中で当たり前とされてきたものすべてが。

 一つの場所へ、集結される。

 祭壇上の棺に入れられた母を思う。

 閉じた瞼にはかつて何を映していただろうか。やや高めの声は、笑うと出来た笑窪は。

 顔にはなに一つ映し出さない。

 もう、何も。

 母はいなくなってしまった。

 それらが全て、火葬場に着くなり竃へ入れられ燃えてゆく。自分の中に薄く残っていた色彩さえも、火にくべられれば灰となる。

 施設から少し離れれば、空へ燻る煙がもくもくと煙突から這い出てゆくのが見えた。

 嗚呼。この人は一体、何を噛み締めてこの世を去ったのだろう?

 天に向かって吐き出される黒煙を見上げて、私はある種唯一の理解者を想う。

 死んですら、名を残せないだろうこの人は。

 咲くも咲かぬも定かでないまま、己を己として見出せぬまま。

 人は死んでいく。


         ✷


 八束辺知代乃、一六歳。

 世界で私は、ひとりぼっちになった。


 納戸から皿を持ってきてちょうだい。

 何度戸棚を見返しても見つからないものに困った様に笑む祖母に乞われ、私は古びた木造の廊下を突き進む。先ほど硝子戸からちらりと覗いた台所では、最後の晩だからと祖母はやけに気合を入れて夕食を拵えていた。私が暫くは寄り付く気がないのを見越しているのかもしれない。それで普段使いの食器では足りなくなっているのも考えものだけど。

 祖母の家を訪れて一週間が経つ。私もそろそろ日常に戻らなければならない。

 かのアーティストの訃報は緩やかに、しかし確実に世間から薄れていた。

 当時はあんなに特集が組まれていたのに。少し経てば人は興味を持たなくなる。

 人の記憶は複雑故に単純で、簡単に忘れてしまうのだから。

 先ほどまで広々とした日本家屋の一室を見渡し、もうここに来ることは二度とないのだろうと何となしに思って、目に馴染み始めた景色を見返す。

 と、思考を彷徨わせているうちに目的地に着く。部屋の戸を開ければ真っ暗闇で、空気も心なしか淀んでいる。雨戸さえ締め切られればそうもなるか。

 廊下からの灯りが差し込む納戸には、幾つもの木製の棚に、大中小と材質の違う四角がごちゃりと置かれていた。桐の箱の中。そう特徴を伝えられていたけれど、ぱっと見は似通ったものばかりだ。

 祖母は案外うっかりなのかもしれない。脳裏で知らなかった一面を記憶する。

 暗い中で恐る恐る踏み出せば、埃が一足ごとに舞う。踏み込めばギィ、と床板が鳴った。暫く手を入れていないのか、そこ彼処に厚い埃が被っているのが見てとれた。

 このままでは拉致が開かない。電球を手探りで探そうと手を伸ばした、その矢先。

 何かをゴン、と蹴っ飛ばして痛みに悶えた。

 震えながらなんとか立ち上がり、ほつれが目立つ紐に手をかける。カチン、と手応えと共に、辺りがパッと明るくなった。

 足元には、使い古された道具箱がひとつあった。小学校とかで使っていたような、分厚い紙製で出来たあれだ。大分ひしゃげて、埃だけでない汚れが目立つ。そぅと開ければ、熱っぽい、籠った埃の匂いがぶわりと広がった。

 中に入っていたのは紙束だ。年月による茶染みが至る所に散っている。紐で括られたそれらは手紙のようだった。上に重なった束を退かし、下の方を覗けば、隠すように使い込まれた茶皮の手帳があった。

 表紙には引っ掻き傷みたい名が刻まれていた。不恰好で、拙いひらがな。子どもが自身の持ち物を記したのだとわかる。目でなぞり、情報が脳に到達し、意味を完全に理解して、反射で口元を片手で押さえた。急激に細まる気管と、肺が激しく振動する。

 これは目的だ。私がここに来た、目的物だ。だのに、それを知ることが、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

『やつかべ しゅういち』

 子供らしい字でなんとか読めたそれは、父の名だった。

 みてはいけないのかもしれない。しってはいけないのかもしれない。

 これは私の、ひいては一族の因縁にきっと関わる。

 秒を重ねる毎に増す心臓音が煩わしくて、転がり出そうな拍動を服の上から握りしめてた。上り迫る胃液が万が一にも零れるよう、きつく口元を塞ぐ。

 父という存在。とは相容れぬいきものたち。

 どの位そうしていたのか。額からしたたった薄い汗が埃だらけの床板に染みを作る。口を押えたまま、腕を伸ばしカサついた指が紙を捉える。指の腹が頁に掛かる。

 はらりと捲れた紙面をみて、私はそっと慟哭するしかなかった。




「知代乃」

 何時まで経っても戻ってこない孫を見つけた祖母は、何度で私を見つけ大層慌てていた。その場でなんどもなんども、やさし気な声で私の名を呼ぶ。

 大丈夫かと、案じているのがみえる。わかって、しまう。

 わかるだけ、だけど。

「大丈夫、ですよ」

 気に掛けなくていいんですよ、ほおっておいて大丈夫。言外にそう伝われと願う。声に出そうものなら、祖母がどうあれ傍から見たら恩知らずと罵られることだろう。それに、無駄に相手が傷つく顔を見るのは得意ではない方だ。

 静まらない動悸を、掻いた汗の多さを悟られないよう、私はゆるりと口だけ弧に描く。

 祖母は一般的な人だ。そして今もふつうの情を見せた。

 具合が悪くなった人が居るならば、心配になるのが世の常であるらしい。それが、人に生れながら備わった優しさ、というプログラムであると言う。

 なんとも言えぬ居心地の悪さだ。自分の体の内から、ドロドロとしたものが吹き出るよう。そこはかとない疎外感が私を支配する。気分が悪い。有り体に言えば、そう思っても仕方なかった。

 ねぇ、と祖母が口を開く。父がいなくなって無理をしているんじゃないのか。強がっているんじゃないのか。要約すれば、そんな言葉たちだった。

「貴女さえ良ければ、ずっと此方にいたって」

「いいえ」

 祖母が言い終える前に言葉を遮る。手中に、額に沸く液を無視して、きっと顔を上げた。

 私は、ここにいてはならない。もっとひとりになる前に、孤独が私を殺す前に。

「大丈夫。大丈夫、なんです」

 私が私を守らなければ。

「お婆さまの手を煩わすわけにはいきません。私は大丈夫ですから」

 この家は毒だ。土地から染みついた巨大な毒だ。ジュクジュクと腐って身に這いずる。忍足で寄ってくるのは先祖の亡霊か、それとも。胸元を掴んだ掌を意志の分だけ握り直し、自らを奮い立たせるのに、そう時間は掛からなかった。

 あの人が出たがるはずだ。きっと、これまでの私たちも同じだった。檻に閉じ込められた欠陥者たち。心に空を作って、息をするだけし続けた。何にもなれないがらんどう。

 ただ生を受けて死ぬだけ。

 そんなの、嫌に決まっている。

「私、帰ります。帰る家が、あります」

 顔を上げて祖母の、自分と似ていない顔をとくりと見つめて、一文字区切るように確かに言い切る。

 道具箱を身に寄せて、自我が折れぬよう意識を掻き集めた。

 たとえ、これから帰る場所が誰もいない、寒い場所でしかなくても。

 待ち受けているのが、あの人の残骸にしがみつく亡者でしかなくても。

 身体に重たい何かが絡みつく。ああ、引きずってでも這ってやろう。私についてきた事を後悔させるくらい。

 鬱蒼とした貌に先が灯る。刄を持て、と己を叱咤した。

「帰らなきゃ、行けないんです」




 名前は最後の墓標だ。

 場所のいらない、万人其々の中に作れる墓場。

 しかし、だ。

 記憶なんて曖昧な内部装置に頼っていた所で、他人との齟齬は目に見えている。

 何が好きだったか。

 何をすれば笑ってくれたのか。

 人は優しいといったが、どんな時に優しかったのか。

 ひとつひとつ、特定の人物の長所短所を上げ連ねても私と他人とでは全く異なる人物が出来上がったりする。 

 私の中のあなた。それは私が作り上げたあなたでしか無く、本物には程遠い。

 好物はなにか。どんな事が得意だったか。

 写真さえ残さないあなたは、どんな人だったの。世間からもてはやされる、アーティストではないあなたは。

 あなたは生来の変わり者であった

 いや、正しくはその人生をもってしてやっと変わり者になれた、というべきであろうか。

 名前は最後の墓標だ。

 何かを成した人が死んだ時だけ、その人生墓標は暴かれる。生まれや育ち、何をしてどんな両親でいかに教育されてきたのか。だけど、大多数が日の目にあたることなく死んでゆく。

 この世に『八束辺 愁一』は残ったが、父としての名は終ぞ残らない。そして、今まで見向きしなかったあの人の人生は暴かれた。残り物を漁るように浅ましく。死人に口などないと隅から残らず。無様に食い散らかされて、飽いて終わるのだ。

 彼は人にあらず。消耗品として終える人生。客観的なだけが永久に、うつくしいものとして遺される。そこにほんとうは一切存在しない。

 名前は最後の墓標で、そこには手向けがあるべきだ。だけども、私は手向けるべきものがわからない。私はあなたをしらないのだから。

 変わり者で、元々欠陥者で、母を失って心が欠けたひとりの男。

 それしか、私は何も知らないのだ。



 騒々しいプロペラ音を遮るようにブラインドとカーテンを閉めた。帰宅してこれだ。もはや何も残っていない死骸をなお貪ろうと這い寄る虫けらが煩い。

 遺族の声だの、どんな人物だっただの。想像しただけで悍ましい。マイクを向けられたなら、私は親戚に向けた態度だけでは済まない自信があった。

 高層階の壁際は音がどうしても聞こえてしまうから、早々とリビングを後にする。自分の部屋に行く前に、一つだけ和室としている部屋に入った。

 生活で必要とされる家具一切は置かれていない、けれども掃除が行き届いたその部屋。掃除していた主の部屋よりも綺麗にされていると断言できる。

 部屋の目立つ場所には、隅々まで手入れされた仏壇が一つ。その中央に、またもや御位牌と写真が一つずつ。そこに、私は父の御位牌と写真を並べた。

 その並んだ二つと、私はとっくりと眺める。静かに眠るものと、そっとされないもの。一つ下の段に、私は母が好きだったという桃の菓子を置いた。どうせ数日経てば私の腹に納まるのだけれど。

 座り、線香をあげ、りんを鳴らして手を合わせる。目を閉じて細くなる金属音を聞く。

 母と父は死んで、私は生きている。

 母はこれから先も暴かれない余生を、この時代が続く限り送るのだろう。

 父と違って、何も為さないつまらない女!

 ねぇ、お母さん。

 母の前で問いかける。柔らかな、自分によく似た顔がこちらを覗く。

 何であの人と一緒になったの。なんであなたは母と一緒になったの。

 無機物は何も答えない。写真の中の微笑みは、いつだって褪せずこちらを見つめる。

 優しい笑みも、柔らかい声も。

 私にもあればよかったのに。

「ねぇ、お母さん」

 そぅと嘯く。軽いニュアンスと重みの全く無い言葉を口にする。首傾げて黒い石碑を見つめる。

 私は知代乃。母の、知恵理の写身で身代わり。

 母がいなくなって求められたのは、母の様な、父の精神安定剤だった。

 私の存在は別にいらない。私が私である必要はない。

 廃棄物になった私は、一体どうすればいい?

「ねぇ、お母さん」

 目以外はよく似たその顔に微笑みかける。

 もうひとりの私。私ではなくて、いるべきだったひと。


「私は、今すぐにでもそちらに行きたいのよ」





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欠陥少女 若槻きいろ @wakatukiiro

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