第2話 人はパンのみにて生くるものに非ず


 愛なんて言うのは優しいものではない。

 優しいものであったなら、私はこうはなってはいなかっただろう。愛とは氷の如く冷たいものである。そう定義して、話を進めていこう。

 あの人は欠陥品だった。紛うことなく、心がない人形だった。

 私の一族には時折心を忘れた人が生まれ堕ちる。見てくれこそ只の人間だが、中身はてんで空っぽだった。何も思わぬ。何も執着しない。少し見ていれば、他の人との差は歴然だった。

 一族はこうした人間を嫌味を込めて欠陥品と呼んだ。差別用語にしか聞こえないそれは確かに差別用語だった。一族内では軽蔑を込めて呼ばれていた。言っても何ら問題はない。何故なら何も感じないのだから、と。人格や人権さえも否定しかねなかった。

 それでも彼は一応は人間だった。何もない胸の内を持てあます人間だった。だから彼は心を求めた。人が持つぬくもりを求めた。自身にとっての安全地を、彼は誰よりも求めていた。

 だから、なのか。

 母を失ったとき父の衰弱ぶりは目も当てられなかった。

 父にとって、母は唯一の理解者で、半身だった。愛すべきもので、与えられなかったものを与えてくれる。

 すべてだったのだ。自分のなにもかもを投げ打って構わぬほどの。

 私なんて、入る余地がないくらい。

 私は、ただ欲しかった。親子としての絆。或いは関係性。世にある、一般的な子どもが得るであろう感情、思い出を。大それたものでなくていい。ささやかな、情を。


 ✳︎


 父の通夜は筒がなく終え、残すは告別式のみとなった。一般の会葬者は既にいなくなり、身内だけの場となる。

 周りの親戚たちが世間話で花を咲かせる間、私は会場の端の席に座り、黙々と出てくる料理を口に運ぶだけの空気に徹していた。本来ならこの場の話題の中心になるような位置ではあるが、私にはとんと興味がなかった。ただの八束辺秋一には、興味がなかった。巻き込まれたら最後、面倒ごとにしかならないと、わかり切っていた。

 だけど、その言葉が投げられ理解した瞬間、私は殺意に限りなく近い感情を抱いた。

「ようやっと身内の恥さらしがいなくなったな」

 だが金回りはいい奴だった。死んで清々したよ、と。

 そう言ったのは叔父ではない、歳がいった本家の庶流という男だったか。その言葉にざわざわと周りが蠢きだす。憤り、嘲り。嘲笑に見え透いた下心。

 体内の血がざっと逆流するようだった。私は血の気が引くほど唇を強く引き結んだ。

「昔からそうだ。何を考えているかわからない。何を見ているかわからない。気味が悪い奴だった……。成人してから鳴りを潜めたかと思ったが、そんなことなかったな」

 男は酒の入ったグラスをゆらゆらと揺らして煽った。周りが同調する。口元が歪む。目付きが厭らしい。くすくすと響く声が煩わしい。まるで外れものを指差して嗤う餓鬼のようだ。

 ああ、あの人は。ここが心底嫌いだったに違いない。ここは地獄だ。あの人を追い詰めた、一人にさせた。この場所が、あの人を。

「無駄に喧しい下品な声ですこと。そこまで仰る貴方にはさぞかし誇らしい経歴と生き様がおありなのでしょう?」

 突如周りがどよめく。男が此方を凝視する。ああ、やってしまった。気づけば私は皮肉を口に突いていた。如何にも尊大な口調と態度で。ちらりと相手を見遣れば、男の顔は羞恥で埋め尽くされていた。そりゃそうだ。こんな公衆の面前で侮辱されたのだから。だからと言って此方も言われたままで済ます訳ではないのだが。

 誰かが、あの子は確か秋一の、と口にする。男はそれで私が何者であるか勘付いたようだ。はっ、と笑い、元の小馬鹿にした調子に戻る。

「お前があれの子どもか。成る程、親に似て無知と見える。躾がなってない童よ、そもそもお前の父親は欠陥品なのだ。出来損ないに、人間扱いして何になる? 人の感情を母体に置いてきた哀れな奴よ。最期をこうして弔うだけ、救いがあると思わんかね」

 何処までも侮蔑しきった態度で物を言う男だった。常識なぞ既に求めていなかったが、人が当たり前に持つ情まで無い様にいっそ呆れさえ出てくる。

「貴方の方が常識を知らないお子様みたいだわ。情云々の前に人として躾がなっていないのはどちら? 見送られるにしたって、貴方の顔は見たくなかったでしょうね。醜いもの」

 目を逸らさず、睨みつけて言ってやれば、男の弛んだ顎肉がぶるりと震えた。小娘と中年のやり取りに、見ているだけの聴衆は静かに笑う。先程まで酒を煽っていたことも手伝って、男の顔は見る間に真っ赤に染まってゆく。

 脂肪を蓄えた巨漢をブルブルと震わせて、

「この罰当たり者がっ! お前ら欠陥が世間に出たら一斉に排除されてしまうんだ。なのにお前のその態度は何だ?! 私らがいるからお前らは平穏を保っていられるのだ。感謝されこそ、この様な侮辱なぞ以ての外! 下等な不届き者、覚えていろ。お前ら欠陥者なんか、生きている価値なんて端っからないことをな!」

勢いに任せて男は怒鳴り捨てた。この場がどういうところであるか、今の男には頭の端にもないだろう。周りはドン引きしつつある。先程までの同調は鳴りを潜め始めている。

「お前なんか、今此処で排除することだって容易いんだ。幸い此処は山ばかりの田舎で、私達は地主の一族だ。一生閉鎖された場所で余生を送らせることだって出来る! 若しくはその女の身を最大に有効活用したっていいんだ」

 自分の目がかっと開く。呼吸が出来ず胸が裂けそうだ。外道の戯言は思ったよりも身をえぐられる。それでも私は努めて冷徹な眼を保とうとした。

「そんなのっ……」

「そろそろ言い合いもお開きといきませんか。これ以上はこの場に似つかわしくありませんわ」

 毅然とした声が場に響く。気が付けば隣に立っていたのは祖母であった。彼女の登場に男はぎり、と口を悔しそうに歪める。ふん、と一つ言い捨てて男は出口へ向かっていった。

 じっとその方向を見つめれば、祖母はぽん、と私の方に手を置いた。それにつられて、私は彼女の顔を見上げる。

「大方煙草を吸いに行ったのでしょう」

 言外に気に病むことはない、と言われる。すでに周りの人たちは数分前の光景に戻っていた。先ほどの事なんてなかったかのように。

「……あの人の事を言われました」

 そうね、と祖母は小さく返す。この世からいなくなってしまった、最後の日なのに。くだらないことで気分を害された。

「もう、いないんですね」

 涙は零れなかった。瞼に残るあの夕焼けを見た日から、私の何かが欠落してしまったから。ただ音もたてずに自分の中が静かになくなっていく。

 ここに集った人たちは、明日には何事もなくいつもの生活に戻っていくのだろう。みんなこの日陰を忘れていくのだろう。私は自分の瞼にそっと触れた。最後のギフト。これを見たら、私はいつだって思い出してしまうに違いないのに。

「不条理だわ」

  戻りましょう、と祖母が囁く。私はふと窓の外をのぞいた。窓の向こう側は雨雲で暗くなっていたけれど、私たちが帰るときになっても、雨が降ることはなかった。


 ✳︎


 数日後、私は祖母の家を訪れていた。最近の物は家に帰ればあるが、あの人が実家を出るまでに使っていたものに関しては、来なければどうもできなかった。

 あの後祖母は遺品整理をしてほしい、と言った。実際に来てみて、父がいたという部屋の物を見てみたが、アルバムや子どもの頃に読んでいたであろう本など、当時の名残が少しだけ感じ取れるぐらいだった。

 数刻して祖母にお茶にしないかと声を掛けられた。時計を見ればとうにお昼の時刻を過ぎている。

 居間に向かえば祖母は平日だというのにきちんとした着物姿でそこにいた。

「何か目ぼしいものはあったかしら」

「とくには。残っているものはありきたりなものばかり」

 そう、あの人を示すものはほとんどといっていいくらい、その部屋にはいなかった。個性は残っておらず、あるのは誰かの部屋、という情報ぐらいだ。私の言に、祖母はやはり、と息を吐いた。

「あの子がこの家を出るとき、ほとんどを自分で処分してしまっていたの。残していくのも、痕跡を置いていくのも嫌だったのね」

 自分をいなかったことにしてしまっているみたい。そう祖母は言った。

  それから思い出話をしましょうか、と父の話を祖母は始めた。

 祖母は外から来た人間だった。

「嫁いでから、この家のしがらみを私はずいぶん見てきた。ここは異常の上で成り立つ。異常を贄として、この一族は今まで生き延びてきたのよ」

私の、父の一族から始まる話は、悲惨で残酷だった。閉じた世界の、御伽噺。小説みたいな、ほんとうにあった話。

「この家には、異常が時折生まれ堕ちる。まるで呪いのように、脈々と。

 昔はそれで迫害されていたの。この家は犠牲を出すことで、上に立つ者として成り立ってきた。だから、異常者にはことさら扱いが悪い。その風習は贄をださなくなった今でも、あなたの知っている通り。母である私ですら、平等に扱ってはいけなかった」

 狭苦しいこの世界であの人はずっとひとりきりだったに違いない。生きた心地がしないまま、この家に居続けることはどれ程の絶望だろうか。

「だからあの子が外で幸せを知ったとき、私は安堵したの。あの子もちゃんと人の子だったんだって。人としての情を持ち合わせていたんだって、思っていた」

私には幸せを願う資格はなかったかもしれないけどね、と祖母は淡く笑って手元にあった空の湯呑みを引き寄せた。傍にあった急須にお湯を足して、私におかわりを促す。

「知恵理さんがなくなってから、あの子は忘れてしまったのね。元に戻ってしまった。息の仕方を忘れてしまったみたい」

最後の一滴まで急須からお茶を淹れきって、私の元に最初に振る舞われたのと同じ、ほうじ茶の香ばしい香りが漂う。私の湯呑みを受け取ろうとして、失敗して卓上に一滴の染みができた。

「結局、人は変われないのかしら。魂に染み付いたものは拭うことが出来ないのかしら」

今となってはわからないわね。と祖母は言った。そのまま湯呑みに口をつける。私は零した一滴を指で拭うように引き伸ばして、先程の話を反芻する。

残念なことに、祖母は勘違いをしている。

 どこにでもいる人間のように、振る舞うのは簡単だ。

 言葉遣いや動作の一つ一つを、たくさんの人から見て、自分のものにする。

 それだけならば、誰だってできる。出来てしまう。環境に、社会に順応することなぞ、誰しもやってきたことだ。

父がしてきたことはこれで、先天的に人とはズレていたからそれが顕著に見えたのだろう。だけど。

 問題なのは、その先。

 人がその言葉を話すのは。人がその動作をするのは。感情が人を動かすから。

 故に人の行動には理由がある。

 感情が剥離する。意識が乖離する。思考が散逸して、使い物にならない。言葉に質量が伴わない。なんとも空っぽで、意味のない。

それが、私たち。だから私には、あの人には、欠陥品には。人間になる資格がないのだろうと、思った。

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