断絶の仮面

緑茶

断絶の仮面

 私の友人であるTは、薄弱な容姿に生まれたが、知性と教養を兼ね備えた両親によって愛情深く育ち、繊細ながらも確かな優しさを兼ね備えた少年へと成長した。


 しかしどういうわけか、時流は彼をあっさりと飲み込んでしまった。

 小学校に上がって間もなく、彼は熾烈な虐めを受けるようになったのである。


 もともとが素直、悪く言えば騙されやすく、愚鈍な少年である。悪意を持った者たちの言動をかわすすべを知らず、その毒牙にかかるのはある意味で当然とも言えた。


 まず彼が教室に入ってやってくるのはクラス全員からなる嘲笑と謎の合言葉である。黒板消しの粉が彼の器官に入り、むせる。それだけでは飽き足らない。授業中は絶えず彼のもとに罵詈雑言が注がれた紙が送られてくる。無視をしたところで意味がない。供給が続く。とはいえ、反抗する手立てもない。彼が目に涙を浮かべて立ち上がり抗議したところで、教師は何も知らない。怒られて廊下に立たされるのは彼だけということだ。


 ――隠れるようにして給食を食べて、午後の授業もやり過ごすと、ようやく帰宅になる。彼は帰り道をまっすぐ行かない。クラスメイト達が待ち構えているからだ。

 なので、わざと遠回りする。そうなれば親は遅い帰宅を心配する。だが彼はただ笑っている。察しの悪さに苛立ちを募らせても、それを悟らせない。

 そしてまた次の日。彼は帰宅時と同じようにして、回り道で登校する。だが結局教室に入れば黒板消しの洗礼だ――ただし、暴力よりはましなのだ。


 私はそんな彼の行動を常に見てきた。だが、何も出来ないもどかしさに悩んでいた。そうして、月日だけが過ぎていったある時。


 私は昼休みに、ひとり校舎の屋上に行っている彼を見つけた。気になって後をつけると、そこには何もない空間に話しかけている彼が居た。


 とうとう気が違ってしまったのか、と私が言うと、彼はゆっくり微笑んで首を振る。それから言った。

 ここに居るのは僕を救ってくれるヒーローなんだよ。君には見えないのかい……と。

 私が首を振ると、彼は私の手を掴んで、やや強引に袖をめくった。そこにあるのは痣だ。――これで、私と彼が友人である理由がおわかりになっただろう。


 私が痣を注視すると――不思議な事が起こった。何もなかった空間に、ふいに現れた存在があった。それはテレビのヒーローのようだが、見たことのあるどんなデザインにも似て非なる姿をしていた。私は彼にその存在の正体を尋ねた。


「僕がこの現実から逃げ出すために作ったんだ……今、ようやく出来た。長かったけど、僕はようやくこの世界から抜け出せる。いいものは助かって、悪いものは懲らしめられる。そんな世界がやってくるんだ」


 彼の言っていることはにわかに信じられるものではなかったが、そう語る瞳はあまりにも純粋で、私はその熱意に感じ入った。そして間もなく、彼の発言が真実であることを知る。


 彼の作り出したヒーローが、実際に動き出したのである。


 それは彼に悪意を向けてくる者達を撃退し、日々の彼を慰めた。そして彼自身をも強くしていった。

 ヒーローの出現は多くの者達を困惑させたが、それは一段落すると恐怖に変わり、やがてT自身への敬意へと変わっていった。悪意を持つ者達もその虚しさに気付き、彼への嗜虐から離脱していった。やがて彼が虐められることは完全になくなり、一躍誰からも好かれる存在へとなったのである。

 彼の本来持っていた優しさや気遣いの面に、ようやく光が当たったのだった。

 

 私はその過程のすべてを見ていた。だからこそ、彼のことを心の底から応援していたし、その先を支えていきたいと願った。


 だから、私は提案した。君は、君の作り出したこのヒーローをもっと多くの人達に広めるべきだ。そうすれば、君の願っているような世界――誰にも悪意が向けられない、善意で互いの手を取り合える、そんな世界が実現するはずだ、と。

 彼は始め半信半疑であったが、私は彼の生み出したものの力を間近で見ていた。ゆえに、強く強く、主張を押し通した。結果として彼は私の考えを受け入れた。その時の彼が浮かべていた、困ったような笑みを忘れない。


 私は彼のヒーローを世間に周知させる運動を始めた。

 一人の少年を救ったヒーロー。その生命だけでなく、周囲の人々さえ幸せにしたヒーロー。その素晴らしさを、世界中へ。私が宣伝し、彼が壇上に上がる。そしてヒーローを前へ前へと押し出していく。そんな活動を始めた。

 時折私は自分の行動に自信を失ったが、私がそれを打ち明けると、彼は静かに笑い首を横に振る。それもあって、私は振り返らず前進することを決断した。


 それからも活動は続いた。彼のメディア露出への機会は増えていった。

 テレビに出て、かつてのつらい体験から復活したことを何度も話した。彼のヒーローは、いじめという現場が、未だ社会では続いているということを何度も訴えた。民衆はその言葉に感動し、ファンレターは絶えなかった。

 もはや彼のヒーローは、彼を守るためのものではなく……人々の象徴となっていた。

 私はグッズ展開なども推し進めたし、テレビドラマ化にも許可を出した。ヒーローと言う存在は、人々のすべてに広がっていくものと思われた。


 ……そんなある時。ドラマの撮影が終わり、ヒーロー役の男がTの傍へとやってきた。男は突然仮面を脱いだ。


 そこに現れたのは……かつて、Tを虐めていた男だった。


 Tは混乱し、心をかき乱されたが――男は熱く語った。

 自分はこのヒーローによって全てを知った。君がそんなに苦しんでいたなんて知らなかった。これから自分はヒーローとして、世の中の弱い子供達のために戦うことを決めた、と言った。

 Tは何も言えず、口をパクパクさせているだけだった。そんな場面を逃す手はない。私はテレビスタッフに連絡して、その和解の場面にカメラを回させた。

 光景は世界中に中継された。カメラがやってくると、Tは青ざめた顔を拭い去って、困ったような笑顔になった。

 それから、フラッシュが何重にも閃く中で、ついにかつての敵対者と電撃的な和解を果たしたのである。Tは――泣いていた。笑顔で泣いていた。私もそれを見ておおいに満足した。

 活動は続いた。彼は一日の仕事が終わったとき、私に言ったものだ。ありがとう、と。

 私は言った、当然のことをしたまでだ、君はもっと多くの人に知られるべきだ、と。君はいじめられた経験さえもバネにした。それは多くの人を感動させるものだ、と――。

 そう言うと、彼はまた困ったようなあの笑顔を浮かべて、私にこう言った。


「僕は今まで、ずっとひとりだった。一人で、日陰の中に居た。でもそれはそれで、心地が良かったんだ」――私達のいる部屋は、薄暗かった。


「もう、僕はあの場所には戻れない。真っ赤な太陽の下で、僕の体の中身は、すべて暴かれた。それらが腹の中に戻ることは、二度とありはしないんだ」


 ――私は、その言葉を聞いていなかった。



 それからしばらくして。不意に彼が居なくなった。

 彼の家族に連絡すると、こうかえってきた。


 ――彼は、遺書も残さずに、遠い森のなかで自殺したのだ、と。



 彼が何故死んだのか、私には理解できなかった。

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