薄雪草

絹糸

薄雪草

午前11時、8月のコンクリートはまだ目覚めない。

緩やかな坂道が続く住宅街を歩く僕の目の前に雪が降った。こんな真夏に溶けずに降る雪なんて。深い瞬きをしてよくみると、それは雪ではなく小さな白い花弁だった。

呆然と降る花弁を眺めて突っ立つ僕を上からクスクスと笑う声がする。見上げると、ベランダの陰にさっと誰かが隠れた。その仕草があまりに無邪気で、子供かと思ってずっと見ていたら僕よりも少し歳の上の女性が顔を出した。

「気づいちゃったね」

彼女は、悪戯がばれた子供の笑みを浮かべた。そうして、ベランダから青白い腕をにゅるりと出して、花弁を一つ二つ、三つ四つと落とした。その花弁を僕は掌で受け止めてまじまじと見つめる。

「ウスユキソウですか」

冷たいコンクリートで出来たマンション三階のベランダと日の差さないなだらかな坂道の中腹で、僕らは二人きりだった。

「そうよ、花は好き?」

「花は嫌いです、すぐに枯れてしまう」

彼女はすっと目を細めて笑った。

彼女の長い髪がするりとベランダの外に出る。彼女の白蛇に艶めいた黒のコントラストが映える。

「きっと、花が君のこと好きなのね」

「花が?」

「私には分かるの、この子達の気持ち」

坂道が日の光に蝕まれていく。彼女はそれに気づいたのか否か、すっと手を引っ込めて、つんと冷えているコンクリートの一室に戻って行った。

僕だけが、白い花弁に包まれていた。


次の日、またあのマンションの下に行った。

僕がここに来る理由はない。

強いて言うなら、大学への遠回り。行きたくない気持ちに決着を付ける散歩だ。

そんな僕を待ちかねたように、ウスユキソウが僕の頭上を舞った。

「花は好き?」

彼女は昨日と同じ質問を投げ掛ける。僕はウスユキソウを払いのけて彼女を見つめた。彼女の白い腕に絡む黒髪がどこかに消えていた。

「髪の毛どうしたんですか」

「きっと要らなかったの」

彼女は、慈しむようにざんぎりにされている髪の先をねじりつまんだ。

「僕はあなたのその髪と腕が美しいと思った」

「じゃあ、見に来てみる?302号室」

そういって彼女は手にウスユキソウを残したまま、部屋に戻っていった。

僕はどうしてなのか、わからない。

マンションの玄関に向かっていた。

彼女の言った数字を打ち込むと静かにドアが開いた。エレベーターに乗り込んで3のボタンを押す。機械的で冷ややかな音が僕を降りろと後押しする。

「302」僕はそれだけを見つけて、ノブを捻った。鍵はかかっていなくて、その扉先には薄暗くて冷たい午前の光が立ち込めていた。そのなかで彼女が床に倒れ混んでいた。あまりにも美しく青白くて、死んでしまったと思っても仕方ないほどだった。

白いワンピースの裾を無防備にぶちまけ、目を閉じ、口を微かに開けなだらかな丘陵を上下させている。

「来たのね」

彼女はゆったりと起き上がる。きっと黒いあの長い髪なら、彼女の白い肌を舐めるように流れたのに。

ベランダから見えなかった彼女の全貌が今僕の目の前にある。

彼女はただ白いわけじゃなかった。

ワンピースの先から見える脚には墨を落としたかのように痣が何個も何個もあって、肩辺りには切り傷が細かくある。

痛々しい。痛々しいのに、僕はそれさえも息を飲むほど美しいと思えた。

僕は、彼女の伸びる脚に手を滑らせ、その内側へと、そうして彼女の全てを見た。

体に何個もある赤や黒や紫の墨一滴は僕がいくら吸ったって消えなかった。

彼女にはこの白い肌を独占していると思っている男がいるのだ。そして、それを我が物ののように傷付けられているのだ。

いつまでも消えないものとして。

彼女はウスユキソウを育てていた。

そして、その花弁を乱暴に千切っては僕に降らせる。大切な思い出をまるで誰かに慰めて欲しいと言わんばかりに。

ああ、そうか。きっとこれは運命だったのだ。僕が彼女と会った理由。きっと意味もなく僕らがやっていたのはお互いの寂しさの埋め合わせ。運命の気まぐれなんだ、と。

僕らの運命の為せるものを、きっと彼女の男

は知らない。秘密と言うには足らず、必然には遠い僕らのこの純潔な寂しさを。


僕はその後、散歩でそこを通るのをやめた。いつでも僕らは寂しさの埋め合わせをしてしまいそうだったから。しばらくして行ったときにはその部屋から人気が無くなっていた。


ただ、ベランダの隙間から茶色い鉢植えが見えていた。きっと、その先には尊い白さを称えた小さな花が咲いているのだろう。僕の記憶はその白で埋め尽くされている。


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薄雪草 絹糸 @silk_thread

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