HIGH HOPE

緑茶

HIGH HOPE

 我らが友人エポー氏は、年若くしてすでに世界の真理をその手に掴んだと噂されていた。私はことの真相を知るべく、彼に会いに行った。


 私の出会った彼は酒に酔ったように浮ついた足取りで、ふわふわした奇妙な笑みを浮かべていた。彼はそれを恍惚と呼び、自分はずっと幸せの中に在るのだと解説した。その意味を尋ねると、彼は洗面所で顔を乱雑に洗い、少しだけ冷静さを取り戻した顔で椅子に座った。それから私に語り始めたのである。


 彼には恋人が居た。それも、並の女ではない。この世のものとは思えぬほど美しい髪を持ち、世界のすべてが羨むような美貌をした、すらりと背の高い女性であった。二人の出会いは些細な事であり、そこから徐々に距離を縮めていった上での交際と相成ったという。決してどちらか一方だけが熱烈に恋慕を寄せたというわけではない、と彼は強調した。


 二人の幸せの時間は長く続いたが、やがてその生活の中で、両者の差異が浮き彫りになっていった。

 それは――恋人は、容姿と素朴な思いやり以外は凡人とさほど変わらないか、またはそれ以下であるということと、エポー氏が、それに反する如く、先のことを見据えることの出来る明晰な頭脳を持っているということだった。

 その事実が、やがて彼の中での『愛』というものの定義を変えていったのだ。間違いなく幸福な暮らしであったが、彼はその幸福についての詳察に至ってしまったのである。

 彼は考えた――愛とは、純粋な混ざりけのない愛とは一体何であるのか。自分が持つべきものは、そんな愛であるべきはずだ。では、今自分と恋人の間を行き交うものは一体何だ。


 そして至った――あぁ、これは愛ではない。決して愛ではないのだ。


 なぜなら、私は彼女を確かに日々思いやり、その熱の中で生きている。だが同時に、それと同じだけのものが向こうから渡ってくれることを日々確認せずにはいられない。相手に、要求せずにはいられない。自分の都合を、ある程度押し付けずにはいられないのだ。それは結局、純粋な愛の行為とはかけ離れている。


 彼はあまりにも賢明すぎた。それゆえに、常人であれば躊躇する思考にも、すぐにたどり着いてしまった――そうだ、ならば向こうからの見返りを求めないようにしてしまおう。互いの交歓という状況をやめてしまおう。


 そして彼は行動した。

 恋人の前から完全に姿を消し、失踪同然になったのである。

 

 彼女は悲しんだ――来る日も来る日も。そこから長い時間、彼はかつて恋人だった女の行く末を観察した。見つからぬよう、影に隠れて彼女を見続けた。


 やがて変化が起きた。


 彼女は、エポー氏への愛に疲れてしまったのである。その過程で、いかなる心理的変化があったのかはうかがい知る事はできない。だが時間の経過は、彼女のかつての恋人を忘れる決断をさせたらしかった。

 ――彼女には、やがて新しい恋人ができた。それから、失った年月を取り戻すべく、熱烈に愛し合い始めたのである。


 今私の前でこの話を語るエポー氏は現在、その女が恋人と住んでいるすぐ近くに居を構えている。別人を装い、決して姿を見せぬようにして。そして日々、彼女のことを観察しているのだと言った。

 そのことについて語る時、彼はやはり恍惚となっていた。

 彼は私に言った。


「あぁ――これこそが愛の極致。彼女からこちら側に何ももたらされる事はないと分かった以上、私は真の意味での愛を彼女に捧げることが出来るのだ。ねぇ君、人を愛するとはこういう事だよ……私は今、とても幸せだ」


 なんというおろかで賢い男なのだろう。彼は愛という行為から雑然としたエゴを取り払おうとした。確かに表面上、その目論見は成功したように見える。だが、彼の自分勝手な計画と実行が、彼女の人生を大きく狂わせたという事実も、頑然として存在する。そのことに目を向けず、ただ自分の思惑の成就に歓喜する目の前の男は、どうしようもなくエゴイストであるように思える。

 私は混乱を抱えながら、彼の住居から退出した。


 究極の愛とは、一体何なのだろう。その定義を定めるのは一体誰なのだろう。答えは出ない。エポー氏はもう、そのことについての解答を持ち合わせていないのだろう。だから私は、彼にこう問うことさえしなかった。


 ――純粋な愛を求めるという行為そのものが、不純な欲望に塗れているのではないか? と……。

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