玖万辺サキ

 糸


 木こりは一人、山の中に住んでいた。

 来る日も来る日も、木を切り倒す。

 別に苦ではなかった。

 生きるとはこういうことだ。


 ある日の仕事帰り、滝壺に女の姿を見た。

 美しかった。

 目を見張るほど美しかった。

 この世のものとは思えなかった。

 自分と同じ生き物とは思えなかった。


 木こりは滝壺に降りていった。

 近くで見る女は一層美しかった。

 女は木こりに近づくと息がかかるほど顔を寄せて「おや、まぁ」と言った。

 木こりは息を呑んだ。

 その声色の、鈴ののような美しさに。

 その吐息の、あやかしのようななまめかしさに。

 女は微笑ほほえむと、木こりの首筋に唇を当てた。

 しばらくそうしてから、女は姿を消した。


 それから木こりは毎日、仕事を終えると滝壺に出かけた。

 木こりは女を眺め、女は木こりの首筋に唇を当てた。


 †


 木こりは一人、山の中に住んでいた。

 来る日も来る日も、木を切り倒す。

 だがもうそれだけではなかった。

 生きるとはこういうことか。


 木こりは日に日に弱っていった。

 痩せさらばえて、しかし目だけは爛々けいけいと輝いていた。

 まるで何ものかにかれたようだった。


 ――木こりが夜な夜な一人で滝壺にたたずんでいる――


 村人の話を聞いた和尚おしようが木こりのもとを訪ねた。

「滝でいったい何をしているのかね?」

「女と逢っております」

「女?」

「はい」


 一人ではなかったのか……しかし滝壺に女とは?


 翌日、和尚は山に向かった。

 苦心して滝壺まで降りると、少し離れた木の根元に腰を下ろして日暮れを待った。

 やがて辺りが暗くなり始めた。

 ふと気付くと滝壺の前に一人の男が立っていた。

 だいぶ暗くなってはいたが、まだそれが木こりであることは見て取れた。

 やはり一人か。

 和尚はつぶやくように経を唱えた。

 すると滝壺から長く伸びた白い糸が木こりの首に巻き付いているのが見えた。


(……女とは絡新婦じよろうぐもであったか)


 和尚が九字くじを切ると糸はするすると滝壺に戻っていった。


 砂利じやりを踏みしめる音を聞きつけた木こりがこちらを振り返った。

 音の主が和尚だと分かると悪事を見咎みとがめられたように後ずさった。

「いつからそこに?」

 恥じたような腹を立てたような声だった。

 和尚が黙っていると木こりは続けて聞いた。

「女と逢ったら説教ですか?」

「相手は滝の主だ」

「えっ?」

「もう来ぬほうがいい」

「そんな……」

「殺されてしまうぞ」

「しかし……」すでに表情も判然としない夕闇の中で物狂おしげな双眸そうぼうが光った。

「……逢えなければ、やはり死んでしまいます」


 †


 木こりは一人、山の中に住んでいた。

 来る日も来る日も、硬い床の上に倒れていた。

 それはせいではなかった。

 女に逢えぬ日々を、木こりは死にながら過ごした。


 四日目のおうが時。

 木こりはむくろのようにじっと横たわっていた。

 山小屋に入ってくる生温かい隙間すきま風に女の吐息を思った。

 ――俺は欲されている。

 片腕を放り出して半身をよじると天井を見た。

 何も食べていないのに少しも腹は減らなかった。

 ――女は俺を喰いたいだろう。

 横になったまま片膝を立てた。

 両肘をついて半身を起こした。

 ――他に俺をほつする者は?

 木こりは小屋を飛び出すと滝へ向かって走った。


 ――居ない。


 やがて水の落ちる音が聞こえてきた。

 立ち止まって滝壺を見下ろした。

 女は居なかった。

 一度、空を見上げた。

 白い月と白い星が一つ見えた。

 再び滝壺を見下ろした。

 木こりは躊躇ためらうことなく身を投げた。


 ――俺は喰われたいのだ。


 すると滝壺から無数の白い糸が立ち昇った。

 糸は、男を迎え入れるように落ちてくる体に巻きつき始めた。


 まるで弱った男を

 いつくしむように

 苦悩する男を

 いやすように

 優しく柔らかく

 男の体を包んだ。


 木こりの体は

 糸に包み込まれ

 白く柔らかい塊になると

 音もなく

 滝の中に飲み込まれた。

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玖万辺サキ @KumabeSaki

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