第44話 雪の果てに、にわか雨
「
伝えるべき言葉じゃないことは、わかっていた。
それでも、いま言わないと――そんな焦燥感が僕の中にあった。そんなものに急かされていきなりこんなことを言うことなんて、きっと初めてだった。
今までこういうことを言うのは、きっとその場の空気を読んでのことだった。
それこそ、相手も僕のことをそれなりに好きになってくれている――そういう確信があるときだった。逆に、そんな確信のないうちから告白するなんて、怖くてできたものじゃなかった。
こんなに、言わないことが苦しくなるようなことはなかった。
苦しくても、耐えられないような痛みはなかった。
喉の奥がひりつくような熱を感じることもなくて。
だから、いつだってとても楽で、息も詰まらない。
ドキドキはしても、胸を掻き毟りたい感触はない。
僕がしてきたのは、そういう種類の恋だった。
もちろん、今だって怖い。返事はほぼ決まりきっている。
「ごめん、
ほら、もうこう返ってくることは
たぶん、こんな風になるなんて思ってなかった。
むしろ、こんな風にならないようにしていたし。
自分勝手な――相手の事情も一切関係ない――気持ちだけで突っ走るなんて、相手に嫌な気持ちを残すだけになりかねないのに。
それだったら他の方に向いたらいいんじゃないか、って。
そんな風に思ってなかったか、前の僕は? たぶん、あのとき。
こんなに、言ってしまえば「分が悪い」ことをしようなんて思ってしまったのは、きっと卯月さんに惹かれたからで。それがいつからか、思い出そうとしても、もうわからない。それくらいに、僕は卯月さんのことが好きになっていた。
胸の奥から、いや、胸なんかよりずっと深い所から何かがせり上がって。
このまま放っておいたら身体なんて
「……わかってる、さっき華乃ちゃんへの返事を聞いてたから」
「だよね」
街は、ただ静かで昏い。
家々や街灯や、そんな風にぽつぽつと灯る明かりを飲み込むようにただ深い、黒と言い切ってしまうには青くて、紺と言うにも暗い、夜の色をした景色。時々遠くから聞こえる電車の音以外、聞こえる音といえば電球が切れかかっているのか、時々点滅する街灯の立てる音くらいのもの。
それに紛れて、言葉を探す僕らの息遣い。
動いているのは、遠くを走る車らしきライト、それに真っ白な僕らの吐息、同じように無機質な街灯の白を透かしながら地面に向かって落ちてくるぼた雪だけ。
「…………」
「静かだね」
「うん」
まるで、この世界がもうカーテンコールも全部終わった舞台で、観客も他のキャストもいない、僕と卯月さんだけになってしまったような、少しの安っぽい高揚感を伴った孤独感。
たった2人だけのエンドロールだ。
だけど、このまま舞台を降りる前に。
まだもう少し、時間は残されている。
だったら、もう少し。
残された時間を有効に使いたい。
「僕は、言ったよ」
「えっ」
勝手な物言いであっても、卯月さんを押したかった――背中を押すという考え方自体が勝手なものであることも、もちろんわかっているけど。
「だから、卯月さんも言った方がいい」
「何を言ってるの、光輝くん? ちょっとわかんない」
「この間、
「――――っ!?」
その瞬間に卯月さんが見せた表情を彼女本人に見せることができたなら、もっと手っ取り早く自覚させられただろうか。その顔は、エトランゼへの行き方を教えていた僕に向かって風香さんの恋人――あやねさんと呼ばれていた――が見せた顔とまったく同じ顔で、たぶん
だけど、その顔は一瞬で消えて、「ふ~ん」と興味なさげな声が返ってくる。少しだけ、震えた声が。
たぶん、初めて会ったとき。
雲間から差す陽光を浴びて輝く雨粒の中で、まるで1枚の絵画のように完成された光景の中心で、ぼう、と空を見ていたあのとき、たぶん彼女は本当に消えてしまっていたのかも知れない。あのまま声をかけずに通り過ぎていたら、完結した景色の中から一切動こうとせず。
その完結はきっと今でも続いていて。
完結させてしまっていたら、彼女はもう動いたりはできない。そんなの、あんまりだ。
卯月さんを知って、僕の日常は確かに動いたのに。
そんな卯月さんが立ち止まっているのをただ見ているだけなんて、嫌だった。
「卯月さんはきっと、風香さんのことが、」
「なんでもそういう風に結論付けようとするのはよくないと思うよ、光輝くん」
卯月さんの目は、とても鋭かった。
僕を拒絶するような瞳。口を出すなとでも言いたげな瞳。それは確かに強い意志で睨み返しているようにも、必死に何かに抵抗しているようにも見えた。
だけど、最後にふっと笑って。
「でも、まぁ、うん。頑張ってみる」
そのときに見せた卯月さんの笑顔は、初めて見るくらい穏やかだった。そのまま、踵を返して遠ざかっていく。
駅のある坂の下に向かって。
去っていく。
僕から、遠くへ。
「…………っ!」
喉から声が出たら、僕はどうしていただろう。
さっきの言葉を
きっと、止めようとしてしまっていた。せっかく進みだしていた足を、後ろから引っ張ってしまっていたに違いない。
緊張で喉がカラカラになってしまっていたから、それをしないで済んだ。
僕は、彼女の背中を押した僕のままでいられる。出会った頃の、何も考えられていなかった頃の僕よりは少しだけマシになった僕でいられる。
……いられる、はずだ。
そう信じて、僕は思い返す。
思えば、卯月さんと出会ったのもこんなような高台だった。
何もなかった、強いて言うなら虚しさと渇きばかりがあったあの雨の日。耐えられなくなってあの公園に行ったときに出会った。
そのときに重ねた肌の温もりが忘れられなくて、感情を揺さぶられて、わかったような気になって、わからないことが増えて、それでも少しずつ卯月さんのことが見えてきたような気になって、それに従って自分自身の醜さも見えてきて。
彼女の、散らせることすらできないでいた初恋の話も。
そのうえで無為に追い続けていた夢の話も。
彼女が求めていたものも。
立ちいる隙すら見えなかった、卯月さんの想いも。
そこにまっすぐに向かえる、狂気とすら思えてしまう、執着とも思える想いも。
その想いの先に辿り着いたときに感じた、卯月さんに対する奇妙な親近感も。
その全部が、今の僕を立たせている。
静かに、雪が降っている。
まるで代わりに泣いてくれているように、鈍色に変わった夜空から、白い雪が降り続けている。ゆっくりと、静かに、まるで僕に想いを反芻させるように、舞い降りてくる。
その様を、僕は見上げている。
ゆっくりと、しっとりと降り続ける姿を。
これで、僕の物語は終わりだ。僕と卯月さんの物語には、幕が引かれたんだ。あとは、もう僕の与り知らないところの物語でしかない。
願わくば、その結末が彼女の幸せに繋がっていますように――
ふと、後ろから足音が聞こえて。
隣に誰かが立つのがわかった。何を思っているのだろう、ただ黙って、じっと立っている。その人は何も話していない。だけど、何となくその人がどんな気持ちで立っているのかはわかったような気がした。
しばらく雪に覆われていく夜の世界を眺めていたらしいその人の声が、はっきりと僕の方に向かう。
「ねぇ、そんなになっちゃって、寒くないんですか?」
僕のコートに積もった雪を見ながらおずおずと話しかけてきたその人に向かって、僕は「そうですね」と笑いかける。
「寒いですよね」
少しだけ近付いた距離からの笑顔は、ちょっと気恥ずかしそうに見えた。
お互いの身体がすっかり冷え切っているのを、感じながら。
僕は最後にもう1回だけ、坂を下る暗闇に視線を送った。
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