第42話 深雪を乱して

『うん、行く! 待ってて、すぐ行くから!』

 もう遅い時間だったのに――とっくに日付の変わった時間だった――、そう言って卯月うづきさんは通話を切った。あとで場所を尋ねる電話がまたかかってきたけど、荒い息遣いやいつになく真剣な声から、彼女の必死さが伝わってきた。


 あるいは、早く取り返さなくてはという焦りだったのかも知れない。

 彼女からロケットを奪った華乃はなのちゃんがまだ僕と一緒にいることは知らないだろうから、恐らくは彼女の秘密に触れてしまう可能性への恐怖。彼女にとっては、僕もまた信用できない赤の他人の1人に過ぎないんだということを、痛いくらいに突き付けられる。

 きっと、それは華乃ちゃんも感じていたことなのだろう。僕と同じくらい、いや、卯月さんの秘密に触れてしまったからこそ、僕なんかよりもずっと強く、深く。鋭い感情に刺され続けていたに違いない――自分を一切顧みてくれない、一途過ぎる感情に打たれて。


 それに、華乃ちゃんにはどうしたって、卯月さんからロケットを奪ったという事実がある。その相手に出会うというのは恐ろしいものなのかも知れない。何をされるかわからない、どんな感情を向けられるかわからない、少なくとも好意的な感情はむけられないだろう。それしかわからない状態だ。

 そんなの、僕には耐えられるかわからない。

 だから、僕は華乃ちゃんに言った。


「もし、いたくなかったらもう帰った方がいいよ。確かに心細いけど夜も遅いし、これから会うのは僕がただ卯月さんに会って言いたいことがあるだけだから」


 今感じている気持ちを、彼女にうまく伝えられる自信はない。もしかしたら誤解を与えてしまうかも知れないし、不愉快な思いをさせてしまいそうだ――不愉快な話をするのはきっと間違いないんだけど、不必要な部分で彼女の気分を害してしまいそうで少し怖い。

 それでも、僕は言いたかった。

 言わなきゃいけないなんて思い上がったことは言わない。別にそれをするのは僕でなくてもいい。というより、本来なら他人が言うべきことではないのだろう。

 それでも、だ。


 そんな、ただのわがままに近いことに華乃ちゃんを付き合わせるのは申し訳ない気もしたし、何となく情けないような気もした。想像できる自分の姿が、およそ昔を知っている人には見られたくない姿でもあったし。

 だけど、華乃ちゃんは退かない。

「確かに前島まえじまさんが言ってくれることもわからないではないです。でも、だったらそんな夜遅くて危ない時間にあたしだけで帰らせるんですか? あんま見られたくないんでしょうけど、それもそれでどうなんでしょうね、お姉ちゃんも幻滅しそう」

 くすっ、と笑う華乃ちゃんに、僕は何も返せない。

 彼女を帰らせようとした口実で見事に帰らない理由を作り出されてしまった。そんな風にして言葉に詰まる僕を、また華乃ちゃんは笑う。


「そうやって簡単に言いくるめられちゃう前島さんのことをサポートしながら、あたしもあたしの用事を済ますだけなんで、気にせずにいさせてくださいよ」


 あぁ、これは駄目だ。

 窓の外で降り続く雪が辺りの音を吸い取ってしまっているみたいに静かな夜のスイートルーム。抑えられた照明の下で向けられたその言葉に、これ以上ないほどの頼もしさを感じてしまっている。

 その時点で、彼女を帰らせるなんてことはできないのだろう。

「ごめん、えっと……。大丈夫なの?」

「別にあたしの心配はいりませんから。別にあんたにそうされたところであたしには何の得もないですし、何となく気持ち悪いんで」

 それだったらあの人の心配でもしてあげてくださいよ――そう呟いた華乃ちゃんの視線は、変わらず僕の手元にあるロケットに向けられたままだ。そして、「いつ来ますかね?」と僕に問うているのか独り言なのかわからないような声で言った。

「うーん……」

 それに答えようとして、僕は彼女がどこに住んでいるかすらも知らないことに気付いた。どれくらい時間がかかるのだろう、その予測すら立てられなくて、改めて僕と彼女との距離を思い知りながら。

「たぶん、もうすぐ来るよ」

 そう答えたとき。


 ブー、ブー

 聴き慣れた低いバイブ音。

 かかってきた通話に出ると、相手は案の定卯月さんで。


『着いたよ……!』


 灰を傷付けてしまいそうなほどの荒い息。

 電話越しから伝わるような真剣な切望。

 初恋の相手を求める、純粋無垢な情念。

 僕らの想いを糧に続いている遠い初恋。


 そこに割り込んでしまった、僕の想い。

「いまロビーに行くから、ちょっと待ってて」


 たぶん、もうすぐそのどれかが終わるんだ。

 胸の軋みを押し込めるような笑みを作りながら、僕はベッドから立ち上がった。

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