第39話 灰雪は嘘白く
どうしてだろう。
だから、口汚く卯月さんを罵る彼女の姿を、見たくなかった。
それはきっと、そのまま。
「最初はね、ちょっとそのミステリアスっていうか、どこか掴みどころがないっていうか……。そういうところにちょっと惹かれたんです。もちろん、そういう意味じゃなくて、人間としてね? まぁ、何か無防備で仮にそういう意味の欲求不満ぶつけても相手してくれそうだったから頼ったところはありますけど。でもね、あたしはあの人を助けてあげてるつもりだったんですよ?」
その言葉は、きっと彼女の本心なのだろう。
血を吐くような叫び。
叫んでいるわけではないけれど、きっと今の華乃ちゃんの言葉ほどそう言えるものを、僕はあまり聞いたことがない。
「初めて会ったとき、雨の中でぼーっとどこかを見てて、まるで風でも吹いたらどこかに飛んでそのままいなくなっちゃいそうな儚げな雰囲気があって。だからつい声をかけたんです。
よくあるじゃないですか、雨が降りしきる街角で段ボールに入った仔猫を見つけて情が湧くっていうの。ドラマみたいな話ですよね? 馬鹿げてますよね? でもね、あたしのはそうだったんです。でね、声をかけたらあの人、色々話してくれたんですよ? 前に失恋したところを狙った男にひどい目に遭わされて、それで人が怖くなって、って……。それ聞いて思ったんですよ、何とかしてあげたいって!」
半ば怒りにも似た感情をぶつけるように、華乃ちゃんは声を荒げる。その姿を見ているのは、辛かった。
そんなことを口にし続けるのは、何より華乃ちゃん自身を傷付けることに他ならない。……そのことを、僕は卯月さんを見ているうちに思ったから。
「もういいよ、華乃ちゃん」
それ以上言い続けたら、壊れてしまう。
「もうそれ以上、言わなくて」
人がそうなるところを見るのは、嫌だから。だから、もうやめてほしかった。華乃ちゃんの言葉を遮るように更に大きな声で「もういいから!」と言ったとき。
「ふふっ、馬鹿じゃないですか?」
嘲るような、冷めた声が聞こえて。
また、少し冷たくて柔らかくふわふわした感触の指が、上下に蠢く。思わず体が震える。どうにか彼女を止めようと伸ばした手は、華乃ちゃんのもう一方の手でベッドに押さえつけられてしまう。
「これくらいで腰砕けになっちゃうような腑抜けは黙っててくださいよ、マジで」
冷たい声が続く。
「あたしね、前島さん。もしかしたら昔からちょっと思ってたことあるんですけど」
「――、な、なにを、」
「たぶんあたしはあんたのことけっこう嫌いかも、ってことですよ」
そりゃ、普通に話はしますけど――そう添えられた言葉は何のフォローにもなっていない。僕は、どんな顔をしていたのだろう? 僕を見下ろす華乃ちゃんの口から、おかしいものを見ているような笑い声が漏れる。
「あぁ、ごめんなさい。でもね、前島さんってたぶん自覚なしに嫌われるタイプですよ? だって、何でしたっけ? あたしが傷つくだけだから言わなくていいって? あんた何様なんですか?
結局ね、あんたは聴きたくないだけなんですよ。だって嫌でしょ? 自分がぬくぬくと部屋で過ごして――なにしてんでしょうね、もっぱらひとり寂しくご自分でしてたりするんですかね? そんな呑気なことしてる間に、自分と関わりのある人間が悲惨な目に遭ってるなんて話、聞きたくないでしょ? どうしたって、罪悪感みたいのを感じてしまうから。自分と相手の違いを、否が応にも意識させられちゃうから。あたしだって嫌ですもん、そんなの。
でもさ、それってちょっと調子よくないですか? あたしはそう思うんですけどね、ねぇ、前島さん?」
華乃ちゃんは、そこで言葉を切る。
それから、蠢かせていた指を止めて、まるでそのまま潰そうとするように、強く握りしめた。
「――――、ぁ、ぃっ!!?」
痛みに、思わず声が上擦ってしまう。そんな僕を嘲笑うように顔を歪める華乃ちゃん。僕の姿はよっぽど滑稽に見えているのだろう、笑い声まで漏れている。しかし、その顔は笑ってなどいない。
「だから、あんたは聞かなきゃ。だって、このかさんとも散々したいことしてきたんでしょ? それで自分が嫌なことはシャットアウトとか、ありえませんよね? 黙って聴けよ」
威圧するような、低く荒っぽい声。
そこには、再会したときの明るそうな雰囲気はもう窺えない。
「あの人はいろんなことを話してくれましたよ。それこそ、男の人には聞かせられないような話だったりとか、色々ね。たぶん相当心を許してくれてたんです。ルームシェアしてる子がいるから……
でもね、このかさんに色々話聞いてもらって、それでたぶんそれ以上に色々聞いてあげてるとき、ほんとに満たされてたんですよね。雨に濡れた仔猫みたいなあの人を見て、そんなあの人を癒せてるんだって思うと……あぁ、あたしはまだまだうまいこと生きていけてるな、って思うから」
そう呟く華乃ちゃんの顔を、僕はまっすぐに見られない。
何故ならその感情は、紛れもなく――
「ああいう人に比べたら、って。安心するんです。不安定でいつどうなってもおかしくない生き方を敢えて自らしてるあの人に比べたら、あたしはまだいい、って。たとえつまんないと感じることがあったって、それでも安全ですよ。安心ですよ。そんな場所にいればね、ちょっとした聖人ごっこだってできるんですよ。興味本位で首を突っ込んで、適当に掻き回して、ね?
汚いでしょ? たぶん口に出したら軽蔑されるに決まってます。それでも、そういう感情なんですもん、あたしがこのかさんに持っている感情の側面にそれがあるんですもん! しょうがないじゃないですか! それを認めようともしないで善人ぶってるやつの方がよっぽどタチが悪いじゃないですか」
――僕には否定できない感情だった。
少なくとも、僕には否定のしようがない。
薄汚いものだというのは、わかってはいる。ただちっぽけな自尊心を満たしているだけの、とても好意などと綺麗な名前をつけるには値しない感情だっていうのも、きっと心のどこかではわかっている。
だけど、“タチの悪い”僕には認めることができずにいる感情だった。
卯月さんといるときは、僕は彼女の面倒を見ているつもりだった。どこか上に立って、乾いた日常に添える何か――刺激材料のように扱ってしまっていたことは間違いなかった。
でも、そんなの認められるわけがないじゃないか……!
こうして「そうだったのかも知れない」と思うだけでこんなにも胸が痛い。自分が醜い化物のように感じてしまう。
情けない。
僕は、そういうやつだったのか。
恥ずかしさと自己嫌悪で、思わず涙がこぼれる。
そんな僕に、華乃ちゃんはさっきまでの激しさが嘘だったみたいな優しい笑みを浮かべて見せる。
「でもね、安心してください。あの人よりは全然マシですから」
その囁きは、艶やかで。
まるで、蛇が囁いているみたいに聞こえた。
「あたしたちだけじゃなくて自分にまで嘘をついて、そうやって誰も彼もを裏切ってるんですから、あの人は」
そう言って、ロケットを明かりの中で振る。
「このかさんが本当に好きなのは、このロケットの中の人だけなんですから」
そう言った華乃ちゃんの顔には、深い嘲りの色が見えた。
それが誰に対するものかは、わからない。
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