第34話 徒花は白く降り積む

 雪の降り始めた夜の帰り道。

 自販機で缶コーヒーの温かさを堪能して歩き出そうとしたとき。


「あの~、すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」


 そう尋ねてきたのは、明るい花のような感じのする女の人だった。年恰好は、ちょっと幼くも見えるけど、たぶん僕と同じくらい。

 

 ふんわりした雰囲気の彼女は僕を見て柔らかい微笑みを浮かべて、そのままずい、と上着同士が触れ合うくらいのところまで近付いてきた。

「あの、この辺りの方ですか?」

「え、えぇ、まぁ……」

 距離の近さに戸惑いながらも答えると、彼女は漫画のように両手を打ち合わせて嬉しそうな顔をした。可愛らしい――というかあざとい感じがするけど、不思議とそれが嫌みにならない人だ。

「よかったぁ~! この近くにあるエトランゼっていうレストランを探してるんですけど、道に迷っちゃって……。ここまでどうやって行けばいいかわかりますか?」

 言いながら、彼女は僕の腕の中に収まるような位置に来て、スマホの画面を見せてきた。

 エトランゼは最近夕食を食べに行ったばかりだから正直見なくてもわかるくらいだったけど、寄ってきたゆるくウェーブを描いた髪から香るシャンプーがとてもいい匂いだったからか、それとも彼女の笑顔に惹きつけられたからか。

 

 それとも。


「あ、えっと……」

 僕は吸い寄せられるように彼女の肩越しにスマホを覗き込んで、画面表示を確認していた。近過ぎる位置とか、背中から伝わってくる柔らかい温もりとかを意識しないように気を付けながら、地図に集中する。

「うんうん」

 頷きながらこちらを見つめてくるその人を見つめていると、本当に思う。


 どうしてこの人から目が離せないのだろう。

 その理由も、段々わかってきたような気がする。

 たぶん、いま僕の腕の中で「へぇ~」とか「そっかぁ」とか相槌を打ちながら僕の示した道順を指でなぞって頷いている彼女は、どこか卯月さんに似ていた。 

 ちょっと幼く見えるところも似ているといえば似ているし、何よりも雰囲気が似ていたのだ。

 気を抜くとどこかに飛んで行ってしまいそうな、少し危うげで儚い感じ。隙が多い立ち居振る舞い。なのにきっと誰もその内側には立ち入らせない――そんな、底の見えないところが、きっとよく似ているんだと思う。

 といっても、勝手な印象に過ぎないんだけど。

 第一、初対面(というかただ道を聞いただけ)の相手だから底が見えないとか当たり前だし。


 ただ、距離感が妙に近いところとかも、似ているような気がした。


「あれ、それからどう行けばいいんですか?」

「えっ? あ、あぁ」

 思わず言葉が止まってしまっていたらしい、すぐ近くから尋ねてくる上目遣いに不安げ――というより不審げな色が窺えて、慌ててスマホ画面に意識を戻す。

 えっと、どこまで説明したっけ……!

 とりあえず場所を変えよう。彼女の正面に移る。不自然かも知れないけど、あのままの体勢だと周りから変に誤解されてしまいそうだから。


「あ、ここからまっすぐ行ったところにちょっと大きな十字路があるからそこを右に曲がってください。それからちょっと行くと小さいタバコ屋が右側に見える角があって……。で、ここの角を左に曲がったら右側に見えると思いますよ、……ん?」


 順を追って地図を指し示しながらエトランゼへの行き方を教えていると、数メートルくらい先から誰かが走ってくるのが見えた。街灯に照らされたシルエットを見るとたぶん女性で、こっちに向かって手を振っているように見えた。

 そして、段々近付いてくる。

 肩越しに見えた顔は、ちょっと焦っているようにも。

 どうしてか、泣きそうにも見えて。


風香ふうか、ここにいたの!? 駅とかで電話くれたら迎えに行ったのに……!」

 だけど、彼女にかけられた声にはそんな気配は微塵もない。気のせいだったのだろうか……?

 そう考えている間に、後から現れた女性――風香と呼ばれた彼女とは違ってダークグレーのコートを着た、何だかしっかりした印象の人は風香さんの手を引いて、僕から離れていく。


 その前に「あ」と忘れ物を思い出したような声を上げて「ご迷惑をおかけしました」と僕を振り返ったときの顔を見て、何だか少しわかったような気がした。

 その目からは、僕が自分の知らない卯月さんを想うときに黒いもやのように浮かび上がってくるのと同じ種類の感情が窺えたから。この2人の間で行き来している感情は、きっと僕も持っているものだ。


 そして、離れていく2人を、僕はじっと見つめることしかできないでいる。

 風香さん。

 もしかしたら同じ名前の別人かも知れない――そんな可能性だってもちろんある。だけど、きっとそれはないだろう。


『これは、風香ちゃんからもらったやつなの』

 卯月さんが打ち明けてくれたの話――そのときに見た、彼女の月明かりに揺れる瞳。風香さんに声をかけて連れて行った女性の目も、それと同じ揺らぎ方をしていた。


「ていうか風香はちょっと無防備過ぎ」

「えぇ~、そっかな?」

「……そうだよ」


 静かな夜道では、あまり大きくはない声でのやり取りもはっきり聞こえてきて。

 だから、わかったのだ。さっき僕に声をかけてきたのが、僕の聞いている風香さん――卯月さんのお姉さんみたいな存在で、そして初恋の相手だった人――だったんだって。

 街灯に照らされた夜道を、きっとエトランゼに向かって行くのだろうその後ろ姿はとても幸せそうで。ついさっき声をかけられて道を教えただけの僕が思わず惹かれてしまいそうになった笑顔は、今はもう1人の彼女だけのもので。

 思わず、嫉妬してしまった。

 何故なら、彼女に会ったことではっきりわかってしまったから。


 きっと、卯月さんの初恋はまだ終わっていないんだ、って。


 徐々に勢いを増してきた綿雪は、そのまま全てを白く塗り潰していくように見えた。この心は、全く染めてくれないまま。

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