第31話 雪明りが見つめているような
「あれ、
指先が痛くなるくらい寒い深夜の帰り道。酔い潰れてしまった
アパートへ向かう裏路地にある、十数段ほどの石段。
鉄製の手すりで左右に区切られたうちの左側を歩くのが通例みたいになっているその石段をちょうど昇りきった所に、卯月さんは立っていた。
僕が酒に酔っているからなのか、それとも本当にそんな状態になっているのか、無機質な白い街灯の下に立つ卯月さんは左右に揺れているように見えた。影になってよく見えないその顔を見ようと目を凝らしてももちろん俯いたその顔は夜闇に隠されたままだ。
声の様子を聞くと口角は上がっているようだったけど、だからといってそれがイコール笑っていると断定することはできないような気がした。特に、彼女の場合は。
最近降った雨がまだ流れきっていないせいで所々に水溜りができている。そこで街灯の光が夜の路地に乱反射して、普段なら見向きもしないような周囲の古びた住宅街も、まるで純白のイルミネーションを付けたみたいになっていた。味気ないはずの石段も、所々が白く光っている。
その上にいる彼女も、白い光の中、夜闇から浮き立っている。
真新しいモカブラウンのコートはどこか卯月さんの趣味ではないような感じがして、そして明らかに高価そうなのが見て取れて、色々な想像が頭の中を駆け巡りそうになるけれど。
今はそれよりも、眠っている室谷を家に運びたかった。
何か言われてしまっても、今は答えたくない。
それに、やはりどこか今夜の卯月さんはどこかいつもと違っているような気がして、警戒せずにはいられない。
「……ぁ、」
思わず声を漏らしそうになったとき。
卯月さんが僕の肩を見て「おっ?」と雰囲気の違う声を上げた。
「あれ、もしかして光輝くんが担いでるのって
ふーん、とかほー、とかそんな興味津々そうな、というよりどこか面白がるような視線をこちらに向けてきて、卯月さんはニヤニヤと笑っている。
「な、なに?」
「えっとね、こないだ会った時にちょっとだけお腹が痣になってたから訊いてみたら、『久々に会った友達と飲んでたら殴られたからそれかも』って言っててさ~。そっかそっか、そのお友達って光輝くんだったのかな?」
あー……、その心当たりならないわけでもない。
そもそもその原因は卯月さんにあると言ってもいい。室谷と2人で飲んでいるときに彼女から電話が来て、それがきっかけで室谷の自慢話が始まったのだから。
でも、それを今ここで卯月さんに言っても仕方がない。
たぶん必要以上に気にされることはないだろうけど、それでも「お前のせいで僕たちは喧嘩したんだ」なんて言われていい気持ちにはならないだろう。室谷とも、そのあたりのわだかまりは解けたような気がしている。
もう、そのことは今こうして酔い潰れている彼を部屋に連れて行く行かないとはまるで関係がない。
だから、まずは室谷を部屋に運び込まないと……。
「あっ、わたしも手伝う手伝う~」
勢いを付けて担ぎなおした僕に、思わぬ軽い調子でそんな声をかけられる。そして僕の返事も待たずに逆側から担がれた室谷の体に押し潰されそうになりながら、どうにかアパートに辿り着いた。
玄関で下ろすときに頭からゴン、という小さな音がしたような気がしたけどすぐに「もっとのめ~、もっとのめ~」と思しき呑気な寝言が聞こえたから気にしないことにした。
「幸ちゃんけっこう重いよね。力抜いてるとほんとに……、ふぅ」
あまり聞かない、疲れきった卯月さんの声。
室谷の重さについて語ったその言葉については深く考えないことにして、とりあえず「おーい、着いたぞ」と声をかける。「う、う~ん」とか言いながらむにゃむにゃ言い始めた室谷の頭を膝の上に乗せて、頬を叩きながらまた声をかける。
「室谷、おい起きろって。聞こえるか?」
「きこえりゅきこぇりゅ~、前島きゅんの声、俺にはしっかり聞こえてっから、ぎゅぅ~」
「ちょっ、やめ、抱きつくな! 重い、暑苦しい、酒臭い!」
「ぎゅぎゅ~♪」
僕の声が聞こえてるとか言いながら抱きつくのをやめない室谷。さてはこいつ、相当酒弱いな!? 抱きつくというより押し倒すの域に入っている僕らの体勢を面白そうに眺めている卯月さんに助けを求めるしかないのが、辛い……!
「あの、卯月さん。ほんとに重いんだけど、た、たすけて……」
「写真撮っていい?」
「な、何の?」
「光輝くんと幸ちゃんのツーショット☆」
何だか嫌な予感しかしないけど、もうそれでもいいから……っ。
酔っ払ってもぞもぞと動いている室谷の気持ち悪い感触と、その薄い唇から漏れ出るアルコール臭に満ちた呼気の中、藁にも縋る思いで頷くと、「へへへ~」と心底楽しそうに鼻歌混じりに数枚ほど写真を撮ってから、ようやく僕を室谷の腕の中から僕を引っ張り出してくれた。
「これ貸しにしといたげるね~♪」
「その写真じゃ相殺されないの?」
「えっ、これはプレゼントでしょ?」
「違うけど」
「けーち。けちけちけーち!」
「子どもじゃないんだから……」
「光輝くんよりは子どもだし~」
そんな屁理屈じみた事実を聞き流しながら、部屋のソファーまで室谷を運んで、横向きに寝かせる。本当なら水も飲ませたかったけど、ソファーに横たえたところでとうとう眠ってしまったからそれは断念した。
部屋の暖房を弱めにつけて、やっと落ち着いたとき。
卯月さんが先程とは違う笑みを浮かべながら、僕の隣ににじり寄ってきた。
「ねぇ、光輝くん?」
「駄目だよ、室谷が……っ」
「さっきの光輝くんたち見てたら何か……ね? 自分たち以外の誰かがいる部屋でするのって、初めてじゃない?」
やはり面白がるような声で囁きながら僕の手を握る卯月さんの手は、温風が出始めた部屋の空気よりもずっと熱かった……。
「ねぇ、今日って何でここに来たの?」
声を殺しながらだったからか、それほどまでに深酔いしているのか、結局室谷が途中で目を覚ますことはなかった。それどころか、卯月さんの声が聞こえなくなるくらいのイビキをかき始めて、思わず止めたくなってしまったことは数えきれない。
それで今は台所に移って、夜の静けさを思い出しているところだ。
しばらく降っていた雨が嘘みたいに晴れた夜空からは、青白い月明かりが擦りガラスの窓を通り抜けて冷たいフローリングの床を照らしている。
一応来客用に準備してあったガラスのコップを片手に水を飲んでいた卯月さんは「ぷはっ」と可愛らしい声を上げてから、「光輝くんに会いたかったから、じゃ駄目?」とわざとらしく小首を傾げながら尋ねてきた。
もちろんそれでも嬉しいといえば嬉しいけど、それくらいで寒空の中を待つ彼女だとは思わない。会えなければ他のそういう相手のところに行ってしまうのが、卯月このかという人だ。
それをわかってしまっているから、きっと何かがあったのだと思ってしまう。
「もしかして、探し物のこと?」
人に言いにくいようなことを続けている彼女が、それでも誰にも知られたくないと思っているらしい、隠し事。
思い出してしまうのは、僕らが出会った公園の大木の下。
ボウリング球くらいの大きさの袋に入っていたらしいもの。
すり替えられていたと知って、彼女が
掘り返そうとした僕に向けられた、夜のように暗い敵意。
できることなら、目を背けておきたかった現実。
僕らが繋がれているのは、その怪しげな探し物のお蔭なのだということ。
その問いに、卯月さんは真剣な顔で頷いた。
「言いに来たよ。やっと決心がついたから」
つかなくていい決心ばかり、どんどん早くについてしまうんだ。いつか心に灯った気持ちを告げる代わりに、僕は「そっか」と呟いていた。
それなら、何があっても彼女の傍にいるという『毒を食らわば皿まで』と紙一重の決心くらいは守りたい、と思いながら。
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