第29話 その感情は天泣のように

 そのメッセージに気付いたのは、昼休みになってからだった。

 結局、寺崎てらさきとの飲み会の後は帰宅してすぐに倒れるようにして眠ってしまったし、翌朝――つまり今日も、起きてから出社するまでの時間に余裕があったわけでもない。

 珍しく社内での業務に追われていた(1ヶ月間の業務成果とか、そこで得意先から聞いた要望とかを書類にまとめなくてはいけなかった)ために携帯を見る機会も特になく、そのまま午前中が終わったのだ。

 初めてチェックできたのは、昼休憩の途中。会社ビルから数分くらい歩いたところにある定食屋で頼んでいたランチメニューを待つ間携帯を開いたときだった。


『久しぶり! もしよかったら今日一緒に飲まないか?』


 そんなメッセージを送ってきたのは室谷むろやだった。

 正直、室谷と飲むことを考えたとき少しだけ憂鬱になった。

 別に室谷個人のことが嫌いというより、室谷についていい思い出で終われる事柄が見当たらないというだけなんだけど。


 中学時代に、公開告白みたいな形で当時好きだった幣原しではらさんを、言い方は悪いかも知れないけれど、奪われてしまったこと。

 最近一緒に飲んで、その最後に卯月うづきさんとの親しげな話し方や、彼女に関するを聞かされて思わず殴ってしまったこと。


 案外近くで働いていることを知ってはいたけどそれ以来顔を合わせていないから、いざ会うとなっても少し気まずい。そもそも、あんな別れ際になって室谷はどう思っているのだろう。かなり嫌な別れ際だったはずだけど、それでも誘ってくるのはどういうわけだろう……?

 色々勘繰ってしまうところもあったが、同じ状況のはずの室谷が僕を呼んだことも少し気になったから、その後に予定がないのを確認して『了解』とだけ返した。


『じゃあ上がったら駅前で』

『了解』


 そんなやり取りをして、午後の仕事に入る。どうにか今月の事務処理を終わらせて、得意先からの要望とかを企画課に提出して、やっと今日の仕事が終わった。まぁ、定時で上がれるなんて思ってはいなかった。定時をそこそこ過ぎている時計の針を一瞬だけ見て、僕は駅前まで走ることにした。

 そろそろ年末も近づいてきて、街ではクリスマスイルミネーションが灯り出して、歩いている人もどこか浮き足立っている様子だ。


 ふと、幸せそうに歩く人たちの中にありえない幻を重ねそうになって、慌てて首を振る。そんなのはありえない。あの笑顔は、たぶん僕に向くものではない。

 虚しくなるだけの想像を終わらせて、どうにか足を進める。

 街路樹に巻きつけられた電極が放つ暖色の光から逃げるように、僕は駅に向かう足を速めた。

 程なくして見えてきた駅。

 やはりイルミネーションで彩られているロータリーを素通りして待ち合わせ場所に来てみると、電灯によりかかるようにして立っているロングコート姿の室谷がいた。傍にある灰皿には室谷が吸ったのだろうタバコの吸い殻がたくさんあったし、コートにもタバコの臭いがしみついていた。

「あぁ、悪い。けっこう待ったよな?」

「別に。ついさっき戻ってきたとこだし」

「戻ってきた?」

「おぉ」

「どっか行ってたのか」

「ま、ちょっと近くの店にさ」

 言いながら唐突に投げて寄越してきたのは、肝臓の負担を和らげてくれるドリンク剤だった。どうやら駅にくっついているコンビニで買ってきたものらしい。

「……ここまでいるか?」

「あった方が気兼ねなく飲めるだろ?」

「まぁな」

 まだそこまで……と思わないでもなかったけど、この間一緒に飲んだときはお互いかなり悪酔いしたような気がする。それで、体の方にもそこそこ酒が残ることになったので、やっぱり必要なのかも知れない。

「ありがとう」

「いいってことよ。今日は2人だから金額もそこまでいかないし」

 他人と飲むことに慣れてるような微笑みに、どこか僕と室谷の間に横たわる距離のようなものを感じながら、2人並んで室谷の予約しているという店に向かう。


 室谷と歩く町並みは、先程と変わらずクリスマスイルミネーションに彩られ、そしてクリスマスプレゼントを選んだりしているのだろうか、混雑の中、窮屈そうにしながらもどこか幸せそうな顔で、通り沿いの店で品物を見ている。

 僕も幼い頃は、たぶん彼らくらいの年齢になったら自然とああなるものだと思っていた。もうすぐで追い付きそうな今、そういう当ては全くない。そんな微妙に寂しくなる――そして焦りが込み上げてくることを考えていたら、隣で室谷が口を開いた。

「何かさ、こうしてると思わないか?」

「ん?」

「隣を歩いてるのが野郎じゃなかったらどんなにかいいか、って」

「……どういうことだよ、それ」

 少し脱力しながら、突然の発言にそう返す。室谷はというと、「まぁそう深く考えんなって」と笑うだけで、本当にただ口から出ただけの言葉だったらしい。そういう室谷自身に浮いた話はないのだろうか……。

「あったら苦労しねぇっての」

「だよなぁ」

 まるで僕の心の中がわかるとでも言わんばかりに髪をぐしゃ、と撫でられる。その手つきはやっぱり昔と変わらない。いつだって僕より少し大きくて、温かい。


 間違いなく、いいやつなのだ。

 それを曇らせてしまう思い出を共有してしまっている自分が、少し恨めしかった。


 冬の寒気と人の熱気にもみくちゃにされながら歩いて着いたのは、この間行ったのとは少し雰囲気の違う、個人の営む風の居酒屋だった。カウンターで2人並んで座る。室谷は早速焼酎のお湯割りを頼み、僕はというと、昨日の今日だったこともあって、ウーロン茶を頼むことにした。

「おいおい前島まえじま、ここは酒だろ~」

「昨日も同期と飲んでたから微妙に残ってるんだよ」

「またまた~、俺と同い年なら大丈夫だって! すみませーん、麦焼酎お湯割り、もう1こ追加でお願い!」

「お、おい室谷……」

「1杯だけ、1杯だけだからさ? この分は俺払うし」

 室谷のいい笑顔と、注文を受けてくれた店員の生温かい笑顔とに挟まれながら僕は麦焼酎を待つことにした。


 待つ間、店の大将が点けていたテレビに映し出される野球のナイター中継をぼーっと眺めていると、室谷が不意に口を開いた。


「そういえばさ、前島ってこのかちゃんと知り合いなの?」


 その一瞬、全てが止まったような気持ちになった。

 流れているのは僕の荒くなっていく呼吸の音と、暖房のせいだけではない汗と、鳴り物入りでプロデビューしたスラッガーが三振をとられたことを知らせる中継の叫び声だけだった。

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