第27話 Reign under the rainy sky
雨がじっとり降る朝。
今日が出勤日であることを無慈悲に告げるような、もはやセットするのが本能的な動作になりつつあるアラームの音に叩き起こされてみると、まず目に飛び込んできたのは、いつもの木目調の古ぼけたそれとはまるで違う天井だった。
「ん……?」
耳に染み込んでくる、地雨の音。
見上げてまず目に入ったのは、とても僕の住む安アパートとは思えない真っ白な天井。中央にある大きなシャンデリア風の照明を中心としていくつも並べられた小さな照明器具は、まるでホテルの天井のようで……。
どうしてこんな所にいるんだろう?
「すー……」
僕の疑問に答えるように、すぐ隣から聞こえた寝息。
慌てて見ると、そこには健やかに(というのはおかしいだろうか)寝息を立てている
「…………」
一瞬のタイムラグがあって、ようやく僕は昨夜の顛末を思い出した。そして、その時に芽生えてしまった黒い感情をも。
起きているときどんなに周囲への壁みたいなものを堅牢にしている彼女でも、やはり眠っているときはとても無防備だった。そんな無防備な寝顔をずっと見ていたいような気持ちが生まれる一方で、もう1つの誘惑も込み上げてくる。
もしも今、この寝息を手で塞いでみたらどうなるだろう。そんな子どものイタズラみたいな――だけどイタズラでは済まされない範囲にまでいってしまいかねない誘惑が襲ってくる。
だめだ、目を覚まそう。
きっとまだ寝ぼけているに違いない。
急いで顔を洗いに行く。
その前に部屋の暖房を強めておいたのは、たぶんよぎった誘惑への罪滅ぼしにならない。
鏡に映った“酷い顔”は、きっと寝起きだとかそういうのは関係なくて、きっと心の中に芽生えて離れない誘惑のせいだ。それら全部を洗い流すように、敢えて強く力を入れて顔を擦る。
冷たい水と妙な力加減で曲がった指が目を掠めて少しだけ痛かったけれど、その痛みくらいではあの思いつきは完全に洗い流されなかったから、あまり甲斐はなかったのかも知れない。
「…………」
それ以上どうすることもできなくなって洗顔を終える。
もう1度見た鏡越しの顔は、それでも出社できるくらいにはまともな表情になっていたように見えた。
冷水で洗っていくらか覚めた頭で部屋に戻ると、乱れたベッドの上ではもう卯月さんが目を覚ましていた。
「んー、…………」
寝ぼけたような声を出しながら大きく伸びをする彼女の裸身は、もう何度も見ているというのに、見るたびに僕の中の何かを目覚めさせてしまう。
昨夜のように、これまでのように、欲望に身を任せたくなってしまう。
きっと、彼女は拒まないだろうから。
首を振って意識をしっかりさせようとしていると、彼女はまるで日向ぼっこしている猫のようなあくびをして、眠そうな声で「おはよ~」と声をかけてきた。その声は本当にいつも通りのリラックスしたような声で、その無防備さがまた、僕の中の何かを疼かせた。
さっき芽生えたのとはまた違う、さっきの洗顔では流しきれなかった暗い欲望が。
「――――おはよう」
どうにかそれを抑え込んで返した挨拶に、卯月さんは特に何の疑問も持っていなさそうな「うん」という寝言とも返事ともとれない声を返してくれる。今は、その声の主をまっすぐに見られそうになかった。
「ん~、何か
「い、いや別に何もないよ……」
明らかに苦し紛れの返しをしてしまったけれど、たぶんそこまでの興味も持っていないのか、それともあまり人の言動に疑問を持たないようにしている人なのか、卯月さんは「ふーん」と言ったきりで、浴室へ「うわ、寒!」と言いながら入っていってしまった。
……さて、どうしよう。
シャワーの音を聞きながら、僕は急に冷めてきた頭で考える。
このホテルは、意外と会社から近い。だからもしかしたら家に1度戻って着替えるなんていうのもできるだろうか。たぶんここから家まで数分くらいだから……とか色々な手順を考えているうちに卯月さんも出てきて、たぶん僕の様子で察したのだろう、「それじゃもう行こうか」と彼女の方から切り出してきた。
備え付けのシャンプーやボディソープのものだろう、まだ少し濡れている髪や体から香る花の匂いをもう少し堪能していた誘惑に駆られながら、僕はホテルを後にした。
「それじゃ、またね。たぶん今日はこっちの方来ないと思うから」
「うん、それじゃあまた」
会社へ行く身支度を整えてから訪れた駅前。
こっちの方には来ない、というその言葉に次々と浮かんでくる言葉をどうにか収めて、いま必要な言葉だけをどうにか返した。この時間は通勤客が多いのだろう、駅からこちら側に向かって歩いてくる方が圧倒的に多い人の波に逆らうように遠ざかっていく彼女の姿をどこまでも追っていきたい――ふと芽生えたそんな衝動を振り切るためにも、僕はその姿が人影に飲まれた瞬間に踵を返した。
あのまま見つめていたら、きっと駄目になっていた。
彼女の後をつけたい、彼女が僕といないとき誰とどんな風に過ごしているのか知りたい、“こっちの方”にいないときの彼女の顔を見たい、人波に逆らって進む彼女の藍色の傘を目印に辿っていきたい、そんな欲求が芽生えてしまったなんて、言えるはずもない。
僕らは、そんな間柄ではないのだから。
口の中が少し苦くなって、せっかく洗い流したはずの暗闇は、また僕に付きまとい始めていた。
「あっ、珍しい!
「僕が定時上がりしてるのはそんなに珍しいのか?」
振り返った先には案の定、スラっと背の高いいわゆる“キャリアウーマン”と聞いて世の人がイメージしやすい容姿をした女の姿。声をかけて来たのは、同期の
寺崎
彼女の言動は単刀直入で、わかりやすいことが多い。逆に言うと、あまり遠慮をしてくれない。だから社内では敵に回る人も少なくないらしいけれど、彼女としては「帰れば旦那がいるし」とのことらしく、どこ吹く風である。
「違うよ~、私も最近この時間上がれてなかったから、あんまり人と帰るってなくて。前島さんとも、何か研修のとき以来?」
「ん~、まぁそんな感じかな」
正確に言うと、毎年忘年会帰りには『どうせ駅通るんだろ? 送ってやりなさい』という上司命令(無礼講なんて絶対に嘘だ)で肩を貸しているし、それ以外にも同期会と称する飲み会があった頃はほぼ毎回彼女に肩を貸していた気がするけど、そのときのことを話すのは寺崎自身にとっても酷かも知れないから、忘れたことにする。
色々仕事上で完璧に見える寺崎の欠点を敢えて挙げるとしたら。
たぶん知っている面々は満場一致で「酒癖が悪い」と答えることだろう。
「あっ、今日空いてる! 前島さん、もしも時間あったらちょっとここ入らない?」
不意に袖を引かれて立ち止まったのは、チェーン展開している居酒屋が並んだ通りにあって少し浮いてすら見える、手狭な外観をした個人店の居酒屋だった。
始末に負えないことに、彼女は酒癖が悪いのに酒好きなのだ。
よく話に出てくる旦那さんもさぞや苦労しているのだろうな、と差し出がましいことを言いたくなる程度には、タチが悪い。
「大丈夫、旦那にも言われてるからあんまり飲まない!」
……寺崎の『あんまり飲まない』は、係長の腹痛と同じくらい信用できないんだけどなぁ。思わず口から出そうになったそんな言葉は飲み込んで、僕は彼女の笑顔に引っ張られるようにしてその居酒屋に足を踏み入れた。
たぶん、朝からずっと頭にこびり付いている『今日はこっちの方に来ない』という言葉と、芽生えた暗い欲求を酒で流してしまいたかったから。
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