第26話 雨夜の月を望む
「お願いします、どうかあれを見つけて……っ!」
消え入るような、濡れた声。
あるのは、ただ無機質な色の街灯の明かりだけ。
厚い雲に覆われて、月もよく見えはしない。陰ってしまった風景の中、僕は卯月さんを見つめる。
さっきまでの――まるであのまま殺されてしまうのではないかという恐怖は、もうどこにも感じられない。寄る辺のない小さな子どものようにただ涙をこぼしている彼女の姿に胸を締め付けられながらも、僕の中には少し違う感情も芽生え始めていた。
今、僕と彼女は対等なんだ、って。
さっき言われた言葉のせいで、僕は卯月さんに逆らえないような立場だと思っていた。何故なら、その通りだったから。どう言い繕ったとしても、僕がしていたことというのは、絶対に断られないだろうと思った女性で自分の欲望を満たすだけの行為だったのだから。
それは卯月さんだって求めてくれるような素振りはあった。だけどそれは、きっと僕たちが望んだからだ。彼女はそれに答えただけ。
きっとそれは、彼女にとってはこの間話してくれた、散ってしまった初恋の記憶から逃れ、そのうえで本気で愛したいと思える相手を探すための――言ってしまえば不毛に思えてしまう行為なのだから。その為に課せられたものなのだから。
その弱みを、握られているから。
彼女の『夢』を利用している存在であることを知られているから。
だから、彼女は僕に対して絶対者で、その言葉には逆らえない――もちろんそれは僕の抱いている場違いな感情もあるけれど、不興を買ってしまったら危ういという単純な恐怖心も働いていた――関係だと思っていた。
でも、今は違う。
今、きっと彼女は他の誰にも見せたことのない必死な顔で、心の底からの願いを曝け出した執着剥き出しの決して綺麗とは言えない形相で、いつも装っている可愛らしさなんてかなぐり捨てて、弱みを見せている。
僕の前で、普段の彼女からしたら「醜態」とも言えてしまうかも知れない本気の姿を見せてくれている。
さっきまで晴れていたのが嘘みたいに曇っていく夜空の下、風はもう肌を切り裂いてしまっているみたいに冷たい。卯月さんの耳は、電灯の下でもはっきりと赤くなっている。きっと僕の耳もそうなっているだろう。
鼻の奥から少しずつ表面へと流れだしてくる鼻水をどうにかすすり上げながら、騙し騙しで会話を続けようと試みる。
「えっと……」
だけど、口を開いた瞬間に、何を言うべきか躊躇してしまう。
言葉が見つからないというわけではない。言いたいことが多過ぎた。関係が急に変わったような気がして、それを理解した途端に、遠慮して言わなかったようなことまで言いたいような誘惑が襲ってきた。
それと同時に、どこまでが言っていいことなのか、そもそも今までの僕らはどこまで踏み込んでいい関係だったのか、そんなことにまで考えが及んで、逆に二の足を踏んでしまうところもあった。
僕に言えたのは当たり障りのないところまで。
「それでさ、その……、えっと、あれってどんなものなの? それがわからないと探すのも大変だと思うんだけど……」
それは探し物に協力するというなら当たり前――というかまず知っておかなくてはいけないことだったし、それに僕は確認しておきたかった。
卯月さんの探しているものが、他人に頼んでも大丈夫な探し物であるということを。見つけたことで何かが大きく変わってしまうようなものではないことを。
それで、僕が抱いている漠然とした恐怖を否定してほしかった。
『えっ、○○だけど?
笑うだろうか、呆れるだろうか、もしかしたら怒るだろうか、そのどれでもよかった。とにかく、僕のそんな馬鹿な思いつきを否定してくれる反応なら何でもよかった。必要以上に緊張したこの問いかけをただの杞憂にしてほしかった。
だけど、彼女の反応はそんな僕の期待を裏切った。
「えっ、それは……ごめん、ちょっと今は、言いたくないかも」
吐く息も少し白くなってきて、下手すると手もかじかんでしまうような、痛いくらいの寒さの中でさえ
肩を掴んで、それはどういうことだと問い詰めたくもなった。
それじゃ、わかるはずもないじゃないか。
いや、そもそも言えないようなものを探させるつもりなのか?
仮に探し出したとして、それは僕が何かしらの罰を負ってしまうようなものなのではないか?
頭の中を駆け巡る不安と恐怖とで体中の血が一気に熱くなるように感じたし、1番大事な部分を明かしてもらえていないような疎外感が、尚更僕を感情に向かって駆り立てそうだった。
そんな内面になっていた僕は、きっとよほど怖い顔をしていたに違いない。
僕を遠慮がちに見上げた彼女の顔は、それまで見たことがないような恐怖の表情を浮かべていた。漏れ聞こえた悲鳴に、思わず我に返る。
目の前で、彼女はひどく怯えていた。
「ご、ごめんそうだよねっ。言わないと探せないよね……。そりゃそうだよね。ごめんなさい……! えっと、それは、さ。今すぐには、言えないけど。
で、でも、ちゃんと言って大丈夫って確認してからちゃんと言うから! ほんとだよ!? ちゃんと、言うから……っ」
目が泳いで、早口になって、少しずつ動作にも落ち着きがなくなってきて。そんな彼女を僕はただ見下ろしていて。
「…………っ」
耐えられなくて、思わず抱き締めた。
僕は、彼女にそんな顔をさせたいんじゃない。
ただ笑っていてくれたらいい。
普通の友達として、ただ。
怯えさせたりとか、涙を流させたりだとか、そんなことをしたいわけじゃないんだ。
だからこそ、ようやく対等かも知れない関係になれたことが嬉しかったんだ。フラットにやり直してもいいかも知れない。今度こそ、改めて。
こんな風に見下ろして、怯えさせて、言いたくないことを言わせて……そんな関係になりたいんじゃない。
そう思っていたのに。
肌を突き刺すような冷たさとともに急に降り出した雨はそう時間も経たないうちにどんどん強くなっていって、そのまま全てを飲み込んでしまいそうな気がしたから、僕たちはそこから逃げるように高台の公園を後にした。
だんだんと冷えていくすぐ隣の温もりに、何か黒い感情の火種が灯るのを感じながら。
雨音は、すぐ隣から聞こえるはずの話し声までも遮ってしまうほど強くなっていた。肌を重ねているときさえも、卯月さんと僕の声に割って入るように、ずっと、ノイズのように聞こえ続けていた。
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