第25話 月時雨は仄暗く輝いて

「ねぇ、こんなとこで何してんの?」

 全てを包むような夕闇に溶けていくような高台の公園には、1本の大きな木が生えている。公園の中にいるのは、その木の下で立ちすくむ僕と、そんな僕を冷たい視線で見つめる卯月うづきさん。

 何とかしなくては。

 絶対に見つかってはいけなかったのに。

 焦りながら、言葉を紡ぐ。

 逃げ道を探す。


「えっと、あの、ど、どうしてここに?」

「訊いてるのわたしだよ? 答えなよ。ここで、何を、しているの?」

 だけど、卯月さんが逃げを許してくれることはなかった。あくまで、僕がここでしていたことを知るまで逃がさないつもりだ。

 夕闇の中、ほぼ唯一の光源を背負って僕を見つめている彼女の顔はよく見えない。それでもわかる。その顔には、間違いなく僕に対する敵意が満ちているのだろうと。

「ねぇ、そんな挙動不審で黙られててもさ、わかんないよ。教えて? 光輝こうきくんは、ここで何をしてるの?」

 夕闇の中で、ほぼシルエットだけになった卯月さんが小首をかしげる。

 それはいつも通り、男受け――もちろん僕だってそのの例外ではない――を狙ったような仕草なのは言うまでもない。わかってはいる。

 だけど、どうしてだろう。

 そんな彼女の仕草が、今は凄く恐ろしい。

 顔が見えないけど、それでも表情が読めるような気がした。そして、また卯月さんは同じことを訊いてくる。


「ねぇ、光輝くん。そこで何してんの?」


 一段と低い声で問いかけられる。

 じゃり、と足音が近付いてきて、卯月さんが僕のすぐ後ろに来る。背後から、彼女がつけていたのだろう香水の、どこかスッとした甘い香りが漂ってくる。普段ならその香りに、色々な感情を掻き立てられている。

 香りの持ち主に対する淡い感情。そしてそこから端を発する本能的な欲望。それを感じているのが僕だけではないことに対する嫉妬。その欲望を誰のものであってもほぼ受け入れてしまっているのだろう彼女に対する微かな怒り。拒まれないことを見越して欲望を満たしていく男たちへの確かな怒り。そしてその中に僕も入っているという抗いがたい事実への悲しみ。自己嫌悪。そんな彼女に手を伸ばせる自信のなさ。

 様々な感情がこみ上げて、そのまま心臓が散り散りになってしまいそうな時だってある。

 彼女と唇を重ねている間、舌を絡めている間、肌を合わせている間、いつだってそのありったけの感情たちが、割合を変えながらも僕の中で混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。

 ただ、今はそんなことを言ってはいられなかった。

 彼女の対して感じていたのは、ただの恐怖。僕の想像が当たっているとすれば、彼女はあの泣きながら電話をかけて来た日、きっと……。そのがこのスコップの下にあるのだとしたら?

 きっと彼女は死に物狂いで抵抗するだろう。それこそ、今向けている敵意を物理的な形に変えながら。

 その姿を想像した途端、恐ろしさで手が震える。

 手の震えはそのままスコップに伝わって、その先端にあたっている土以外の感触を強調するように何度も当たってしまう。


「ねぇ、ほんとさ。何してんの?」


 卯月さんの声は、もう耳たぶを吐息がくすぐるくらい近い。

「た、タイムカプセル!」

 咄嗟に、僕はそう答えていた。


「タイムカプセル?」

「そ、そう! 昔、ここにタイムカプセルを埋めたんだ。そのことを思い出してさ。何となく気が向いて、今日ここに掘りに来たんだよ!」

 そんなの、嘘だ。

 僕の地元はこの地域から新幹線で数時間くらい行った場所だし、そもそも小学校のときにもタイムカプセルなんて埋めなかった。地域開発が盛んな地域だったから、そのときある空き地がずっと先まであるなんて保証がなかったからだ。

 だけど、幸いにしてそういう過去を卯月さんは知らない。

「確かこの木の下に埋めたと思ったんだけどさぁ、なかなか出てこなくて。でさ、あの何ていうんだろう、やっぱり恥ずかしいからさ。ちょっとひとりでやらせてくれないかな?」

「いやだけど?」

 あくまで冷静な声音で、声が返ってくる。

 それから更に近寄ってきて、背丈の割には起伏のある体が少しだけ背中に触れる。こんな状況なのに高鳴ってしまう心臓が、情けなかった。

「だって、何か出てきたっぽいじゃん。それ見せてよ」

「い、いやいや。やっぱり恥ずかしいものだしさ。あんまり見せられないっていうか……」

「タイムカプセルは、本当にあったんだよね?」

「そ、そりゃそうだよ! まぁ、子どもの頃に考えたやつだし、そんな大したやつじゃないけどさ。だから……」


 言いかけたとき。

 不意に卯月さんの手が、背後から僕のズボンに回された。そして、強い力でまさぐられる。

「痛っ……!?」

 だけど、それは背徳的な欲望を高めるわけでもなく、ただ痛みを与える為だけの力加減で。そのことを教え込むように、その力は更に増していく。

「い、痛い痛い痛い! 痛いよ、卯月さん!」

 訳もわからないまま呻く僕の耳元で、小さく「ねぇ」と囁く声。薄い含み笑いとともに、僕を握り潰さんばかりに力を込めていた手を離し、そのまま僕の首を絞めるようにピタッと当ててくる。

「光輝くんってさ、そんなこと言える立場だと思う? もしかして、すっごい不利な立場なのわかってない?」

「えっ?」

 思わず訊き返した僕を馬鹿にするような含み笑いがまた聞こえて。


「あのさ、光輝くんはわたしと何回もしてるよね? 何回も、何回も。こないだしてからも全然日にち経ってないし。たぶん、着てる服のどれかには光輝くんの付いちゃってると思うよ? もしわたしが警察に行って、今までしてきたことを話してみたらどうなるかな?」

「えっ、そ、そんなの……、」

 それは卯月さんからも誘ってきたことじゃないか。

 まさか自分の口から出るとは思ってもみなかった言い訳が漏れ出す前に、卯月さんはそれをも封じるように「こういうときってね、大抵わたしの方が信用してもらえるから」と笑いかける。


「もしそういうことされたときに、光輝くんってけっこう不利なんだよ? そこら辺のこと、わかるよね?」

 街灯の明かりだけが頼りの暗がりの中でも、これだけ近付いた今なら見える。

 いつも見せる明るい顔とはまるで違う、暗い熱を帯びた顔。それが彼女の本性なのだとは思いたくないけど、たぶんいつもの顔よりは“卯月 このか”なのだろうと思わずにいられない程度には、彼女の様子は自然だった。

「ほら、スコップの先になにか当たってるんじゃないの? 早く出してみなよ」

 嘲笑うような響きではあったけど、その声にはどこか緊張が走っているような気がした。それでも躊躇することも許されないことは、少しずつ力を込められていく両手が教えてくれていた。

 少しずつ息が苦しくなっていく。

「ほら、早く」

 恐怖が込み上げて、もう彼女に従うことしかできなかった。僕がスコップの先にある物へ意識を向けたことを確認して、卯月さんの両手から力が抜ける。

 ……これで、彼女を人殺しにしないで済む。

 だから、これは――彼女が隠していたものを彼女の手元に返すことは、間違ってなんかない。

 正しい……かはわからないけれど、少なくとも最悪の選択肢なんかじゃない。


 引き摺り出したは、白い布の包み。

 ただの荷物にしてはずっしりと重い、ボール大の

 その布の下の方には赤黒い染みがついている。

 吐き気を催す僕の隣で、卯月さんが息を呑んでいるのがわかった。

「あのさ、これ……」

「いいから早くほどいて」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 泣きたくなるのを堪えながら、どんなものが出てきてもいいように心の準備をして、僕は言われるままに布の包みを解いた。

 そして中から出てきたのは。


 小さい子どもが描いたようなニコニコマークがつたない、ボウリング球だった。


「は……?」

 何だ、これ。

 そう思いながらもを掘り起こさずに済んだことに安堵の息をついた僕とは対照的に、卯月さんは呆然としたような表情で佇んでいる。僕の手からボウリング球を取り上げて、上下左右からまじまじと、それが本当にただのボウリング球なのかを確認するように見つめる。

 そして、それを3分くらい続けたあと、それ以上疑うことが無駄だと悟ったように球を地面に置く。ただ黙ってその球を見つめた後、急に僕の方を振り向いて、「光輝くん?」と問いかけてきた。

「な、何が……?」

「光輝くん、ここ掘るの初めて?」

 そう尋ねてくる彼女の目が街灯の下で異様に輝いているように見えて。それが怖くて僕は反射的に「はい」と答えていた。


 数秒間、彼女は僕の答えが本当かどうか確かめるようにじっと目を合わせてきた。それから納得したように溜息をつき、「なんだそっか」と俯いた。

 その姿があまりに憔悴しきっていたから、事情を知らないことなど忘れて声をかけようとしたときだった。


 がっ

 掴まれた手からそんな音も聞こえたような気がした。

「探してっ!」


 急に上げられた顔は、何かにとり憑かれているようにも見えて。

 思わず漏れた「ひっ」という声にならない音は、彼女の耳には届かない。

「探して、あの中にあったのは、わたしの大事なものなの! あれがなくなったりしたら、わたし……どうしよう、どうしよう!! お願い、あれを探して! 一緒に探して! 見つけ出して! お願いだから! お願いします……!!」

 思いつく限りの言葉を使ってくる卯月さんの姿は、恐ろしかったのに。

 僕はどうしても、その手を振り払えなかった。


 頷いたときに見せた、「ありがとう……」という言葉さえまともに作れないほど乱れた呼吸、それがそのまま変化して漏れた嗚咽。そんな、本音しかなさそうな彼女の暗い姿。


 それを見ているのは、きっと僕だけだ。

 僕の中に、何かが灯ったような気がした。

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