第24話 遣らずの雨は、冷たく痛く

 不意に思い出してしまったもの。

 卯月うづきさんが“素”を見せてくれていた――と僕は勝手に思っている――瞬間に、彼女の中に溜め込まれていた憎悪のようなものを一身に浴びせられたときに。

 今でも思い出せるくらいに激しかった罵声の最後に言われたこと。


『死体って、どうやって隠せばいいのかな?』


 暗い、疲弊しきった声音だった。

 言葉に詰まっているうちにその言葉はなかったことにされて、彼女の別のに連れて行かれて、そこで焼き付けられた彼女の忌まわしい思い出を塗り替えようとする為の道具として僕は扱われた。

 そのことでうやむやになってしまったけれど、あのとき、この公園から彼女を連れ出すときの手は、夕陽よりももっと暗く、脂肪を感じさせる赤色をしていなかったか? 握った手の感触は、本当に柔らかいだけだったか? 小さいだけだったか? 思い出してしまった以上、様々な記憶の曖昧さが次々とある種の符合となって僕の心を占め始めていく。

 暗い推測ばかりが黒雲のように立ち込めて、必死に振り払おうとする僕の心を蝕んでいく。


 こんなことを考えてしまうのは、きっと僕が彼女のことを知らないからだ。


 僕が知っている彼女は、人を食ったような笑みを浮かべていて、だけど孤独で、ともすれば簡単に入り込めてしまいそうな雰囲気を醸し出していて、それでも底なんて知れなくて、そもそも知ろうとすることを躊躇してしまう何かがあって、本当に何があるかわからない――何をしてもおかしくない女性。

 それだけじゃないに違いない。

 僕が知っている彼女なんて、それこそ外向きの彼女でしかないのだろう。

 何度もそう考えた。

 そう思おうとした。

 冷静になれ、そんなことをするやつが自分のすぐ近くに現れるわけないだろ?

 今まで26年間平和だった人生に、どうしてそんなやつが現れるっていうんだ?

 不安に苛まれる僕をせせら笑う声が、心のどこかから聞こえてくる。

 もちろん僕だってその声が正しいと思っている。正しければいいと願っている。その通りであってくれと祈っている。そうであるに決まっていると思っているのに、どうしても暗い――ありえない可能性を否定することができない。


 あの朝、彼女は泣きながら僕に電話をかけてきた。

 すぐに来てほしいと言っていた。

 それから7時間近く経った。

 その頃には、全てが終わっていて。

 愕然としていた僕に「遅かったよ」と言いながら現れて、ありったけの――恐らくは僕だけに向けられたものではないのだろう憎悪の言葉を吐き捨てていた。

 まるで、そうでもしていないと気が狂ってしまうとでも言うように。

 積み重なった事実が、想像を掻き立てる。

 点と点が、描きたくもない図形に向かって結ばれていく。


 そんなはずはないのに、どうしても考えてしまう。彼女に対して無知なだけなのに、それがわかっているのに、どうしてこんなことばかり頭から離れないのか?

 心臓が痛い。

 喉が熱い。

 胃がムカムカして、何かを吐き出しそうになる。

 だけど、きっと出てくるのは気持ちばかりが先行した焦りだけだから。

「………………きっとこの下には何もない」

 そう呟いて。

 それを確かめるために、僕はその土を掘り返すことにした。彼女を信じるために。それで何も出てこなければ、この行為はただの骨折り損だ。でも、それでいい。骨折り損ならば、それはよく知りもしないくせに彼女を疑った僕への罰ということにできるから。

 近くにホームセンターがあったから、そこでスコップを買おう。もう暗くなっていたから、ほぼ脇目も振らず、目的のものを買って店を出た。

 走って、走って、ただ走った。

 今日が休日でよかった。これがスーツを着ている日だったら目立つことこの上ないし、長年染み付いた習慣として、やはり汗を気にせずにはいられなかっただろうから。


 地面を掘るというのは、イメージより大変だ。

 踏み固められていたのだろう、思っていたよりも硬くなっていた地面にスコップを入れるのは力仕事だったし、スコップを地面に刺して終わりじゃない、そこから土を出さなくちゃいけなかった。

 加減を間違えて多めの土を持ち上げてしまったが最後、その重さに思わずもたついたりして。

 よろけてせっかく持ち上げた土をまた穴の底にこぼしたりしながら。

 ひたすら掘り続けた。

 背骨と腕と腰が悲鳴を上げるまで、休むことなく掘った。

 もう冬だって近いっていうのに汗が額から垂れて、喉はもうカラカラだ。そこまでしたけど、何も出てきやしない。そうだ、やっぱりこれは僕の取り越し苦労だったんだ。彼女が言ったのはきっと、ただ僕と同じようにその言葉を聞いた人を動揺させるためのイタズラに過ぎない。

 やっと、そういう結論に辿り着けた。

 そこで安心してしまった。安心して、つい携帯の着信などを気にしてしまったのだ。


『おーい』

『どこいるの?』

『ねーねー』

『忙しい?』


 通知欄を埋め尽くすように並んだ、いくつものメッセージ。これが卯月さんのものであることは言うまでもないし、不覚にもドキッとした。いろいろ期待した。今日見たっぽいデート相手だとか、そういうのと別れた直後に僕を呼んでくれているのだろうか……それはつまり、僕の方が彼女の中でそれなるに出世しているのかもしれないぞ? なんて、下らないことを考えてしまう。

 だけど、その最後。


『もーしもーし』

 15分前。


『もしかして、公園?』

 8分前。


『あ、見つけた!』

 3分前。


『おーい』

 1分前。


『あれ』

 40秒前。


『ねぇ』

 33秒前。


『ちょっと待って』

 26秒前。


『あのさ』

 18秒前。


『何してんの?』

 7秒前。


「そんなとこで何してんの?」

 今、背後から聞こえた声。


「………………っ!?」

 驚いた拍子に思わず穴の底へ突き立ててしまったスコップに、それまでの土とは違う感触が跳ね返ってきた。

 夕闇に包まれて陰っていく高台の公園。

 そこにいるのは、僕と……。

「何してんの?」

 そんな僕を、押し殺した低い声で問い詰める卯月さんだけだった。

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