第20話 液雨の通り道
「別に好きでもない人と我を忘れるくらいしたらさ、何か思い出を塗り替えられそうな気がしない?」
静かな夜道に、
「……そっか」
それしか言うことはできなかった。
やがて、彼女は僕から離れるように立ち上がる。慌てて追い縋ろうとしても、その手を伸ばす権利が僕にはないような気がして、思わず躊躇してしまう。僕のそんな姿を見て、何故かおかしそうに笑ってから、卯月さんは手を伸ばしてきた。
「別に大丈夫だよ。さっき言ったじゃん、
少し離れたところに設置されている街灯の薄明りに照らされた左手には、生々しい傷跡がいくつも見えた。その姿はグロテスクにも見えるのに、僕は彼女の手を拒むことなんてできなかった。
「よし、帰ろ?」
「……うん」
握り返した手の柔らかさと、彼女のはっきりとは見えない笑顔に、不覚にも胸が高鳴った。
帰り道、幾度となく彼女の言葉を反芻した。そして、その意味を噛み締めて、無視してしまいたい衝動に何度か負けそうになって。だけどその言葉を忘れた振る舞いをしてしまったら、きっと2度と僕らが出会うことはなくなるだろう。
確信などできるはずもないことなのに、何故かそう確信できた。
ふと、繋いだ手元を見やる。
いつまで繋いだままでいるのだろう――そんな疑問が浮かんだ。繋ぎっぱなしだと、足下の悪い砂利道では少し歩きにくい。触れている所は温かいけれど、その温度を思うたびに彼女の言葉が蘇る。
――別に好きじゃない人と……
最後まで思い出さなくたって、わかっている。全部思い出しそうになったのを慌てて違う考え事で洗い流したけど、流れていったのはその瞬間だけ。またすぐに思い浮かんでしまう。
振り切ろうとしても、意識してしまう。
僕ではなれない【何かを思ってしまう相手】の座にいるのは、今でもやはり彼女の【お姉ちゃん】――
そんな疑問に、もちろん答えなんて見つからない。僕には彼女のことなんてほとんどわからないのだから、当たり前だ。
それでも、意識した途端に激しい感情がこみ上げてくる。
僕と卯月さんの間に存在する隔たりの大きさがわかってしまった。それを越えるのは決して容易ではないことはわかりきっているはずなのに。それでも思ってしまう。
彼女をもっと知りたい。
彼女をもっと愛したい。
いつかは、愛されたい。
馬鹿なことに、そこまで至ってようやく僕は自覚した。単なる興味だとか同情だとか言っていられる次元はとうに終わっていて、いつの間にか僕は彼女に恋をしてしまっていたのだということを。
「じゃあね~」
いつも通り、あっさりとした笑顔での別れ。
手を振って歩いて行く彼女が、駅前ロータリーの人混みに消えるまでその姿を見つめてから、ふと思うのだ。
あぁ、今日は本当に星の綺麗な夜だ。
僕の気持ちなど知りもしない夜の街並みは、空模様にすら無頓着なまま地上の光だけで満足だと言わんばかりに明るく賑わって、他のものを決して受け付けない頑なさすら感じてしまった。
彼女が完全に見えなくなって、もういる必要もないのにしばらくロータリーの近くから動けなかった。もしかしたら、忘れ物でも取りに戻ってくるような気がして? 彼女の乗るだろう電車を見送ってから帰りたくて? 彼女との時間に未練があって? もしかしたらその全部かもしれないし、違うかもしれない。
自分でもよくわからない行動なのはわかっている。
それでも、駅前で彼女を見送ってから、家に着くまで何度か、似たような行動を繰り返してしまった。駅の方を振り返って、戻ろうかどうか迷って、戻ると仮定して、その理由を必死に考える。傍から見たら馬鹿げてしかいない、そんな行動を、何度も。
今なら月にだって手を伸ばせてしまうんじゃないか――そんな非現実的な錯覚すらあって。思わず笑いながら、僕は家路を歩き続けた。
まだその想いが届かない現実に、痛む胸を押さえながら。
優しく蒼白い月明りは、遥かな下界で小さな望みをかけている冴えない男のことになんか興味ないと言いたげに地上全体にその一見優しげな光を僕らに浴びせているだけだった。
近づいてくる冬の気配が足下に絡みついてきて、少しだけ身震いした僕は、自室に帰り着くなり小さめの布団に体を投げ出した。
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