第19話 氷雨のように凍てついて

 たぶん、小学5年生のハロウィンイベントで風香ふうかちゃんの涙を見たとき。それで彼女を笑顔にしたいと心から思ったとき。

 きっとその為には、今までみたいな【妹】のままじゃ駄目なんだって思って。もっと近くで【お姉ちゃん】ではなく、風香ちゃんというひとりの女の子を。そう強く思ったそのときこそ。

 それがきっと、わたしの初恋だった。


 といっても、それがいわゆる『普通』とは違うことはわかっていた。

 当時、小学校とか中学校とかでは、周りと違うことは悪だった。たとえその内容が正しいことでも、周りと違ってたらアウト。逃げ道のない罰ゲームの対象。子どもは気楽でいい、なんていうのはもう昔のことなんだって大人たちに言いたくなるくらい、シンプルで無慈悲なルール。

 そこから逸脱したくないから、わたしは必死にその想いを隠してきた。

 あくまで近所の【お姉ちゃん】を慕う子どもとして接してきた。だって、そこから抜け出してしまったら、被害がわたしだけじゃ済まないかも知れないから。

 それに、風香ちゃんはいろんな人から人気があって、いろんな人を好きになれる人だった。

 もしかしたら、そこの点だけは、たまに心無い人が言っていたような酷い呼び方をされても仕方がない人だったのかも知れない。……ちょうど、今のわたしのように。


 それでやっぱり傷付いて、また泣いて。

 段々その頻度が増えてきて。

 たまに遊びに来る風香ちゃんの友達からも、『風香は誰かが傍で見てないと何をするかわからないところがあるからちょっと気を付けてあげてて』なんて言われてしまったときは、本人にとっては全然いいことなんかじゃないのに、何だか妙に嬉しくて。

 そして、他の同級生たちと同じような感じで見られていることが何となくわかるたびに複雑な気持ちになって。


 ――ねぇ、わたしはまだあなたにとって、他の子たちとおんなじ【妹】じゃなくなれないの?


 そんなことを訊きたくなったこともあるくらい。

 でもそんなことをして、せっかくの関係を壊すのは絶対に嫌だったから、もちろん風香ちゃんに想いを伝えられる日なんてなかなか来なくて。その間にも、風香ちゃんはまた人に傷付けられていて。

 それでまた涙を流すんだ。

 時には、その綺麗な肌を傷付けて、その血まで。

 そんな姿を見ているのはとても辛いのに、それでもわたしたち【妹分】とか【弟分】の前では明るい笑顔を振り撒いて、そんな姿を見ているのが辛くて仕方がないくせに。

 誰よりも近くで、守ってあげたいと思っていたのに。

 それでもわたしには、何もできないの?

 いつしか、そんなことを考えるようになって。無力感に泣いたこともあった。あとは、意識し過ぎて風香ちゃんがどう接していたか思い出せなくなることとかあったりして。そんな時期に風香ちゃんの知り合いを名乗る男の人と知り合ったり――その人はのちに……。

 そうこうしていても、風香ちゃんとの距離は【お姉ちゃん】と【長く仲良くしている妹】以上は縮まらなくて。そうやきもきしている間に、わたしが中学校を卒業するのと一緒に、風香ちゃんは大学を卒業して社会人になった。


 かなりストレスのかかる仕事だったみたいで、その会社にいる間は、時々心配になるくらいボロボロになって風香ちゃんは帰って来ていた。

 で、もう1つ。

 高校に進んでいた当時のわたしは、もう周りの目をそこまで気にしなくなっていた。高校にまで進んでしまえば、小中学校のようにそこまで周りと違うことに敏感になる子も、そんなにいない。

 だから、それまでよりも少し積極的になれていた。

 なかなかわたしが風香ちゃんの【特別】になれる気配はなかったけど、それでも、その当時も人と付き合って傷付いていたから、ちょっと安心していた。このままいけば、いつかはわたしが……?なんて。


 だけど、去年。

 そんな淡くて利己的な期待は、ものの見事に裏切られることになった。


 その日は、強い雨が降っていた。

 ついさっき光輝こうきくんと通ってきた近くのコンビニは当時からガラガラで、しかも何故かイートインスペースまであったから、友達と駄弁ったりするのにちょうどよくてよく使っていた。

 友達が返って行った後も少しの間残って学校の離れた幼馴染たちとやり取りして、それにも飽きてコンビニを出て少し歩いていたところに、雨が降り始めたのだ。

『……最悪、傘ないし~』

 そこからコンビニに戻るのもなんとなく面倒くさい距離まで歩いていたし、かといって家まで我慢できるような距離ではなかった。

 そういえば、あそこにバス停あったかも……?

 ふと思い出して、駆け込んだバス停。


「それがここなんだよね。ここで、風香ちゃんは、女の人と幸せそうにしてた。いつも人を楽しくしようとしてたりとか、それで自分が楽しんじゃってたりとかしてるのはよく見てたんだけどさ。

 そのときが、初めてだったの。楽しそう――じゃなくて、幸せそうに微笑んでる風香ちゃんを見るの。人に対する優しさなんかじゃなくて、自分のことで満たされた表情をしてる風香ちゃんは、それまで見たことがなかったの」


 忘れられない。

 忘れられるわけがない。風香ちゃんが抱きしめていた女性ひとは、肩を震わせて泣いていて。そして、風香ちゃんは、わたしだって聞いたことがないような優しい声で、言っていたんだ。

『今なら泣いてもいいし。わたしは誰にも言わないから。だから我慢しなくていいんだよ、綺音あやねさん』

 いつかわたしに向けられていたかも知れないその言葉を、だけどあれ以上優しく、満たされた顔でかけてくれる風香ちゃんを想像することができなくて。


 そうやって、わたしの初恋は終わった……。


 * * * * * * *


「あんな顔を、わたしには見せてくれないかな、って思ったら……ね」

 卯月うづきさんはそう言って、ベンチを愛おしげに撫でた。まるで、そこに残っているかも知れない風香さんの痕跡に触れようとしているみたいに。


「あとは、こないだ話したのと一緒だよ? 結局相談に乗ってもらってたと付き合うようになって、それで今こうしてる、みたいな感じかな……」

「…………そっか」

 それだけ返すのが、精一杯だった。それは、彼女に同情したからではない。そこまでの想いを彼女から受けていた風香さんに嫉妬したのもあるし、そこまで人を想うことのできた卯月さんにも、たぶん嫉妬していたんだと思う。

 だけど。

「何で、僕をここに連れて来たの?」

 本気で好きだった人の、自身は出てこないものにしても、印象深い思い出の場所なんて、卯月さんにとっても相当大事なところに違いない。そんな場所に呼ばれたことが、どういう意味を持つのか、そんな期待や妄想に困惑していると。

 彼女は、とても素敵な笑顔をした。


「だって、光輝くんはいい人だから。

 風香ちゃんと違って、わたしの中に何の爪痕も残さないし、わたしもたぶん、あなた相手なら何があっても大丈夫そうかな……とか。ごめんね、ちょっとそんなこと思ってた。

 でね、ちょっと思ったんだ。

 あの頃のことを思い出すのが辛いなぁ、って。だって、最後は失恋の記憶に辿り着いちゃうんだもん。しょうがないか……。だから、もうそういうの忘れちゃいたいなって。

 別に好きじゃない人と、もうお互い我を忘れちゃいそうなくらいしたらさ、何か思い出を塗り替えられそうじゃない?」


 晴れ晴れとした笑顔で、告げられた言葉。

 その重さが、ただでさえ疲れ切って倦怠感を覚えてしまいそうな体をもっと重くしているように感じられて、僕は思わず顔を伏せた。

 

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