第16話 山茶花梅雨は甘やかに

 夕風が、隣に立つ大木を撫でる。辛うじてその枝に残っている木の葉をどこかへ散らし飛ばしてしまおうとでもいうように。

「死体って、どうやって隠したらいいかな?」

 突然彼女から尋ねられたことの、意味がよくわからなかった。

 死体? それとも、彼女が妙に暗い雰囲気で言ったものだから、他の『したい』を勘違いして『死体』だと思ってしまったのだろうか。


 だって、死体なんて……。

 少なくとも、僕らが暮らしているこの日常においては異質過ぎるし、あまりにもかけ離れた単語のように思えたから。だけど、彼女が見せる宵闇にも負けないほど陰鬱な表情には、そんな聞き間違えを許してくれるような雰囲気は微塵もなく。

 思わず、尋ねずにはいられなかった。

「どうしたの?」

「…………は?」

 訊き返してくる卯月うづきさんの声は、ぞっとするほど低くて。

 反射的に出た「ごめん」という言葉には不機嫌そうな舌打ちと、「ほんと言葉は選ばなきゃだよ?」という苛立たしげな声が返ってきた。

 もう、そういう目に見えないものじゃないと判別できないほど、辺りは暗い。

 いくら晴れていたって、もう季節は冬に近い。もう夕陽は夜の影に埋もれていき、消える直前のロウソクみたいに激しい輝きを放っている。その輝きに燃やされて、空にかかる黒い雲のふちが不吉な色合いに変わっていく。

 混ざり合う光と闇によって作られる、昏い虹色の空。

 その中央、遥か地平線の彼方で跡火のように燃え盛る夕陽を背に、卯月さんはしばらく黙って座り込んでいた鉄柵から立ち上がる。

 そして真正面から僕を見つめて、口を開く。


「あのさ、もうどっか行ってくんないかな」


 それまでとはまったく違う、どこか拍子抜けしてしまうほどにあっさりとした口調で。

 唐突過ぎる言葉で、卯月さんは僕を解放した。


 解放? 思ってから、つい自問する。

 いま、僕は彼女から解放された、そう思ったのか? 芽生えた感情に、戸惑わずにはいられなかった。だけど、同時にそう思うのも無理はない――とも思った。僕はいま、心の底から安堵しているのだから。

 もしかしたら特に何かがおかしい今日に限らず、いつだってそうだったのかも知れない。

 彼女のことを思うといつも苦しくて、何をしていてももどかしくて、細々とした仕草を思い出せば胸が騒いで、ふとしたフレーズや香りや、少し共通項のあるものを見ただけで彼女を連想して仕方がなくて。

 そのおかげで、このところの僕はずっと、平穏な生活から遠ざかっているような気がする。でも今、卯月さんからはあっさりと――でもかなり強い感情が隠されているような声で、拒絶された。そこまでは言わなくていいとしても、少なくとも今は、彼女の方から突き放された。

 もちろん、それが僕の望む形であったかどうかはわからない。

 これを望んでいたのかも、わからない。

 だけど、今の彼女からは逃げ出してしまいたい、と。触れるもの全てを深々と傷付けるトゲにしか見えない今の彼女からは、遠ざかりたいと。そんなことを思ってしまう勝手さから、僕は目を背けるわけにはいかなくなっていた。

 夕陽は、どんどんその輝きを弱めていく。

 夜空は、徐々に暗さと静寂を強めていく。

 彼女は、少しずつ僕と距離を離していく。


「もう、大丈夫だから。大丈夫だよ、光輝こうきくん。今日はちょっとね、わたしもおかしかった。たまにさ、そういう気分になる日があるっていうか……うん、何かごめんね。全部冗談だよ? もちろん、光輝くんだけにやったわけじゃない。いろんな人にやってみて、それで、まぁ、その……。ね。

 でも、いろんな人が反応してくれたけど、光輝くんの反応が1番面白かったかな……。うん、別に何があるわけでもないから! また会お? ごめんね、こんな所まで呼び出して。

 とりあえずこれで、わたしの用事は終わったっていうか。まぁ、あんまり遅かったからつい色々言っちゃったけどさ。それも、うん。あんま気にしないでおいてよ。ついね、この時間までひとりだとさ……ね?」


 別に大したことがあったわけでもないから。

 必死にそういう彼女に、僕はどういうべきなのだろうか、つい一瞬考えた。思わず逸らしていた目をどこにも持っていくことができず、仕方なく、所在なく彼女の手元を見つめる姿勢になったまま。

 だから、見えてしまった。

 きつく――爪が手のひらに食い込んでしまうんじゃないかと思うくらいに強く握られた手が。さっきはスカートから少し見えた腿しか見えていなかったけれど、その手にも、前に見た時よりも傷が増えているように見えた。

 そして…………。

 僕は、彼女に向かって一歩歩み寄った。

 卯月さんは、戸惑ったような表情を浮かべた。それが本気なのか、それとも僕がそれを予想していることを見越してそういう表情を作っているのか、それは僕には計り知れないところだ。

 僕のこの行動は、もしかしたら彼女の予想通りなのかも知れないけれど。

 ただ、このままの彼女を放っておくことは、たとえ彼女自身に拒まれたとしても、できそうになかった。

 

「わかった。これが……君が冗談を言ってたっていうのは、わかったから。でも、もう帰ろう? これからは、どんどん寒くなってくる。だから、もう帰ろう。これ以上ここにいたら、風邪ひくから」

 適当な言い訳を作って、彼女の手を引く。

 ビクッ、と震えた理由には、目を背けて。

 大丈夫だよ、卯月さん。

 僕は、何も知らないから。

 知らないままでいるから。

 心の中からそう呟く。

 心の中の声なら、きっと彼女だってわからないから。


「どこか温かい場所に行こう?」

「……うん」

 いつもと同じようにして、誘う。

 きっと、この後もになるのだろう、と思いながら。

 その手に付いた、彼女自身の傷ではないから目を背けながら。

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