第15話 横時雨は時を選ばない
「遅かった……」
「うん、遅かったよ」
暗い夜空の下、恐ろしく赤い夕陽に照らされた狭い公園の木陰から姿を現した
「何してたの?」
振り返った先にいる卯月さんの顔は、どこか淡白な無表情をしていて。それはあの時に見たような、僕を含めて誰かと交わったあと、そのときに着けている好色な少女の仮面を脱ぎ捨てた顔にとてもよく似ていた。
また……、そういうことだったのか。
もし僕が応じていれば、僕がその相手だったのだろうか。
そんなことを思いかけて、ふと恥ずかしくなってやめる。
恥ずかしいというより、自己嫌悪に近い感情だ。それはつまり、あの表情を彼女にさせるのが僕になるということじゃないか。自分が恥ずかしくなる。
だけど、僕を呼ぼうとしたということは……?
ふとそんな妄想じみた疑問が頭をよぎる。もちろん、そんなのはありえないだろう。僕だってそこまで夢見がちではない。現実を、理解している。それでも、ふと思ってしまうのだ。
そういうことをするのだとしたら、何故僕を……?
そんな想像……とも言い難い妄想を巡らせていると、卯月さんはまた「何してたの?」と尋ねてきた。
さっきよりもずっと低く、
遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。ひどく割れていて、不気味な音に感じた。
周囲には、僕たち以外誰もいない。
カラスの鳴き声が遠ざかって、あとには木々を撫ぜる夕風の音だけが残った。そんな静かな……音が死んでしまったような、不穏な静けさの中で、卯月さんは口を開いた。
「ねぇ、わたし呼んだよね? すぐ来れる?って。で、
それ以上何を言ったらいいかわからない、と言わんばかりに黙る卯月さん。
少しウェーブを描いた柔らかそうな髪を苛立たしげに掻き毟るその姿からは、少なくともいつもみたいな余裕じみた態度を感じることはできなかった。
たぶん、彼女の素。
以前過去の話を聞いた時にも少し垣間見えたような気がして、どこかで嬉しさすら覚えたのと同じもののはずなのに、とてもそんな風には思えなかった。
彼女は、それまで押し殺していたのだろう感情を、一気に爆発させているように見えた。
「大体、どいつもこいつも体ばっかりだし! 全然思ってたのと違うし……! ま、そんなん今更だけどさ。でもさ、でもさぁ……」
そう言いながら、卯月さんは木陰から歩み出てきて、そのまま僕を素通りしてブランコを囲む柵に腰掛ける。可愛らしいデザインのフリルスカートが静かな風に少し揺れて、その内側に隠れた腿が見えた。
そこに見えた真新しい傷に、心がざわついた。
ついさっきのものではなさそうだったけれど、ここ3日以内についたような傷。それは、僕と肌を重ねた後に付けたものなのか――もしくはその後に自分で付けた傷なのか。
誰かと、自分を傷付けるようなことをした、ということなのだろうか……? きっと僕が抱くには筋違いな感情に襲われそうになったのを、どうにか逸らして。
そろそろ夕闇が世界を塗り潰してしまいそうな空の下。
少しずつ、見えているものが曖昧になっていく、黄昏の世界で。
不意に、ポツリと空から降ってきた雨とほぼ同時に。
また卯月さんは、口を開いた。
「あのさ、そんなのはわかってんだよ。わたしが心から好かれるわけないって。わたしに寄ってくるのは、ただヤリたいだけのやつらなんだ、って。で、わたしも寂しいのが嫌だからそういうやつらの相手して、その中からほんとに好きになれる人を探そうとか思っててさ。
そんなのきっと、光輝くんにはわかんないだろうけどさ。でもね、そういうこと思うくらいは許してもらえてもよくない? 駄目なの? ねぇ、駄目なの?」
泣きそうな声で、聞く者全て――この場にいる僕を呪わんばかりの感情を込めて、卯月さんは雨の中語り続ける。伏せられてよく見えていなかった顔は、更に両手で覆われてしまって余計に見えなくなって。
「結局ね、みんなそうなんだよ。善良そうな顔してたってさ、親切そうな言葉を吐いてたってさ、結局、みんなそう。光輝くんだって、そんな同情したような顔したり同情したような声出したりしてるけどさ、おんなじだからね?
そのくせに自分は違う、みたいな顔をされたりすんのほんとキツいから、もうやめた方がいいよ、そういうの?」
雨はどんどん強くなっていく。
彼女の言葉とともに。
彼女の言葉が抉る、僕の心の傷の深さに比例して。
「どうせあれでしょ? 光輝くんって自分では特に何ができるわけでもない、わりとうっすい人間でしょ? それで自分より下みたいなのを見つけた時だけ上から目線で手を差し伸べて、ちょっとマシな人間を気取ってるんだよ。いるんだよ、そういうの。そういうのに限ってタチが悪いっていうか、粘着質でさ。もうウザいったらないみたいな? …………はぁ」
まくし立てるようにそこまで言った後、疲れ切ったような溜息をついて、卯月さんは言葉を止めた。
閉じられた両手の中で、籠った吐息がこー、と音を立てる。
「ふぅ~」
長めに吐かれた溜息が、少し震えている。そこに彼女の感情が込められているような気がして、胸が痛んだ。痛める資格なんてない、と言われたばかりなのに。
彼女――
僕がずっと黙っているのを気にしたのか、卯月さんは唐突にフォローじみた言葉を繋いだ。
「いや、わからないけどさ? そんなこと言えるほど光輝くんのこと知らないし。ただそういうやつがほんとに多かったってこと。そういうやつらが、けっこう光輝くんに似た感じだったな、ってだけ。たぶん光輝くんもそうなんだろうけど、まだ言い切れないしね。…………、…………あのさ」
そしてその最後に、何かを言いにくそうに切り出そうとした卯月さん。
「今来たのって、朝のずっと気にしてくれたからだよね?」
それはもちろんだった。彼女が困っていそうだったのは朝からずっと気がかりだったし、それに何より、先程の彼女の怨嗟に、思わず何か別の感情がこみ上げているような錯覚があったから。
罪悪感もムクムクと湧き上がっていたし、何より彼女のためにはできる限りのことをしたいと思っていた。
だからだろう、そこで「なに?」と、僕は自然に訊き返していた。
「死体って、どうやって隠せばいいと思う?」
その質問は、あまりに唐突過ぎて。
その言葉の意味を、しばらく理解できずにいた。
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