第14話 仮初めの慈雨

『……っ、光輝こうきくん?』

 自宅に忘れた携帯電話。取りに戻った僕の耳に入ってきたのは、少し濡れた、この電話から聞こえるとは思っていなかった声だった。聞き間違いようのない、卯月うづきさんの声だった。

「もしもし、どうしたの卯月さん!?」

 沈んだ声から何かただならぬものを感じて、思わず尋ねる声も強くなる。少し怯えたように息をのむ声が聞こえて、慌てて口調を直す。

「どうかしたの?」

『あのさ、今からちょっと来てくれる?』

「えっ、今から……!?」

 突然言われたその言葉に、戸惑わない方が無理だった。

 そもそも、僕は忘れ物をしたために、仕事を中断してこの部屋に戻ってきている。ただでさえ、僕はするべきことをできないままここにいる状態なのだ。そのうえで、完全に仕事を抜け出すようなことなんて、僕にはできそうになかった。

 ただ、電話越しですすり泣いているらしい卯月さんの声を放っておくことも、したくはなかった。困っている人をそのままにしておくなんて、したくはない。


 そうは思いつつも、やっぱり会社の仕事を投げ出すわけにもいかない――そういう気持ちがあるから、卯月さんの言葉には咄嗟に何の答えも返せなかった。それを察してくれたのか察していないのか、卯月さんは一瞬だけ黙った。

 その沈黙が、即断できなかった僕を責めているように思えて、胸が苦しかった。

 でも、それもほんの一瞬のこと。

 次に彼女は、小さく言った。

『じゃあ、来られるようになったら、最初に会った公園に来てくれる? 用事があるの、そのすぐ近くだから』

「わかった、絶対に行く! なるべく早く行くから、待ってて!」

 我ながら、なんて無責任な言葉だろう……。

 卯月さんに『絶対に行く』なんて答える自分を冷ややかな目で見つめる僕がいた。当たり前だった。だって、すぐに行けるわけがないのに。僕にはすべきことが何もないのか? 会社の仕事を投げ出すつもりか?

 そんな声が聞こえてくるような気がした。

 だから、それを打ち消すために僕は敢えて口を開いた。


「絶対に行くから」

 ツー ツー ツー ツー


 その声が届いたか届いていないのかは、わからなかった。

 僕が言葉を終えるよりも前に切れたかも知れないし、一応言葉は届いたかも知れない。

 といっても、届いたか届かなかったかは大した問題ではない。

 問題は、僕自身の発言と。

 その発言を、実現させようとしている僕の頭だった。最初は色々な言い訳を考えて、次にどうにか納得させるための手段(今日絶対にしなくてはならない仕事をどうすれば1番早く終わらせられるか)を考え始めた。

 まず、取引先との確認事項。

 これは今、向こうの会社に向かう最中にもできるかも知れない。もちろん、相手が手すきじゃないといけないけど。それから、たとえば相手方の会社に向かうとしたらタクシーの中で最低限書類はまとめておける……など、普段では咄嗟に思いつかないような案が次々に浮かび上がってくる。

 まずは、取引先の社員に電話をかけることにした。



「はぁ、はぁ、はっ、はっ、はぁ…………、はぁ~」

 昼間だと捕まるタクシーは少ない。それも、この辺りは大型百貨店だったり海外ブランドの支店だったり、その他にも人気店舗の集まったデパートが少なくない場所だ。

 空車のタクシーがあったとしても、大体はそういう店舗を利用する買い物客に拾われてしまう。

 卯月さんの電話を受けてから、数時間。

 どうにか今日どうしてもやらなくてはいけない仕事は済ませて、あとは適当に理由を作って会社を早退……そんなことを考えてはいたけれど。実際にそういうことをやってのけるには、僕の技量は全然及んでいなくて。

 それどころか、ふとした瞬間に電話越しで聴いた声がよぎってしまい、いつの間にか数分程度経っている……なんていうことが何度もあり、むしろ昨日よりも終わりが遅くなってしまった。上司からも「あれ、前島くん。何かムラがあるんじゃない? 大丈夫か~?」と笑いつつも心配されてしまった。

 その言葉に答えるのもそこそこに、僕はすぐさま会社を出て走り出した。

 道に出てみれば昼間の状況はまだ続いていて――むしろ昼間から夕方にかけてたっぷりと買い物を楽しんだ買い物客がここぞとばかりにタクシーを利用しており、捕まえられるはずもなかった。


 だから僕は、例の公園までの道のりを走った。

 思えば、初めて彼女に出会ったときも、こうして走っていた。小雨が降り続く街中を、何の目的もなく、自分の中にあったものを吐き出すために。無軌道に。ただ何となく。

 あのときよりも道のりが近く感じるのは、きっと天候のおかげだけじゃない。

 でも、遠い。

 足取りが確かなものになっているのと同時に、ただ何もなく訪れたあの頃に比べて、公園のまでの道のりは遠かった。なかなか着かない。


 走っている間、色々な想像がただでさえ痛い心臓を軋ませる。

 彼女は何をした? 彼女に何があった? 何故泣いていた? わからないことだらけだからこそ、【様々な可能性】の名前を借りた穢らわしい想像が頭の中を縦横無尽に駆けずり回る。

 それらは心を焦らせ、足をもつれさせて。

 隣で走る電車の音が騒がしい。空気抵抗のはずみで吹き付ける風が煩わしい。そういった数々を必死で拭いながら、とにかく走った。

 最後の階段も1段抜かしで昇る。

 あの公園は、もうすぐ傍だ。

 階段を昇る途中で思い出して電話を掛けようかとも思ったけど、もうここまで来たら昇ってしまった方が早い。

 あとはただ、昇るだけだ。


 喉の奥から血の味がする。

 肩が取り外したいほど重い。

 脇腹が抉られたように痛い。

 心臓の軋みはもう限界だ。


 それでも、行かなければならない。卯月さんが何を言いたかったのか、何があって僕を呼ぼうとしたのか、まだ間に合うのか、色々な疑問と、刻一刻とこみ上げてくる焦燥感にケリをつけるために。

 階段を昇りきった。

 その先にあったのは、東の暗い夜空を背景に、断末魔のように赤い夕焼けを浴びて綺麗なあかね色に輝く公園と近くの街並み。散歩をしていると思しきご近所の人たち。

 少し錆の目立つ公園の遊具が夕陽に照らされて作り出す光と影の色調は、やはり1枚の絵画に見えた。風に舞う木の葉すらも、どこか非現実的だ。

 だけど、彼女の姿はどこにもなくて。


「………………っ」

 遅かった。


 当たり前だ。何故なら、卯月さんから連絡を受けたのは午前中――かれこれ7時間くらい前のことだ。それですぐに行けなかったのだから、こうなるのは当たり前だったのに。

 それでも、僕はこんなにも落胆している。

 その事実が情けなくて。

 手遅れだと思いたくなくて。

 だって、せっかく頼ってくれたのに。

 そんな後悔が、こみ上げてきて。


「遅かった……」

「うん、遅かったよ」


 思わず呟いた言葉に、押し殺した返事があった。 

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