第13話 一雨一度に逆行して

 いつもよりすっかり遅くなった帰宅。もちろん出迎えるような家族なんてこの安アパートにはいないから、その点は誰かに心配をかけたりとかそういう懸念がなくていいかも知れなかったけれど、今は無性に寂しかった。

 だから、テレビをつける。

 画面の中から聞こえてくるタレントたちの笑い声だとか大袈裟なリアクションだとかを聞き流しながら、ついチェックしてしまうのは携帯の通知。 

 もちろん卯月うづきさんからはまだ何も来ていないし、当然のことながらさっき連絡先を交換した室谷むろやからも何も来ていない。室谷は、まぁ仕方がない。冷静になっていれば、あれは僕がどうにかしていた。


 室谷からすれば、久しぶりに会った友達に最近出会ったの話をしただけのつもりだったのだろうから。僕だって、それくらいの話なら――決して得意なわけではないけど、相槌を打ちながら聞けたかも知れない。

 それが、つい最近知り合ったの――卯月さんの話じゃなかったら。

 彼女のことを思い出して、また携帯に目が行く。

 何のことはない。

 だって別に、ついこの間まではそんな関係じゃなかったんだから。

 そもそも、彼女と連絡のやり取りをするようになったのはここ数日のことなんだから。

 だから、僕の携帯に彼女からの連絡が来ないことくらい普通にありえるのに。

 どうして、いつも気ままなタイミングで連絡をしてくるだけの彼女から何の返信もないことがこんなにも心を乱すのだろう。僕はこんなにも、ひとりが駄目なやつだったのか?

 慌てて頭を振って、今日はもう寝ることにした。

 寝てしまうに限る。

 そう思おうとしても、なかなか体が動いてくれない。やっとのことで風呂だけ入ったけれど、湯船の温かさすらどこか不快で、そこから逃避するために意識を手放しそうになった――もちろん、湯船の中で寝るようなことはしなかったけれど。


 寝よう。

 そう思って畳の上で寝そべっても、どうしても眠りは訪れない。

 だから、僕が越してくる前からずっと天井についている幾何学模様じみたしみを見つめている。

 白い――といっても長い年月を経てすっかり黄ばんでしまっているけれど――壁紙の貼られた天井に、たぶんその裏側から染み出してしまっているのだろう、大きくて黒いしみ。

 …………。

 色々なものがそこに重なって見えてしまったから、僕は慌てて目を逸らすことにした。

 目を逸らしてもまだ黒いしみは付きまとってくるけれど、目に見えなくなっただけ、幾分かマシだと思うことにした。

 今は、何も考えず泥のように眠ってしまいたい……。

 だけど、目を瞑ると想像してしまう。

 卯月さんが連絡をくれない理由を。自分が僕にかけてきたときは反応がすこし遅いだけで何件もメッセージを送ってきていた彼女にしては、何も来なさ過ぎじゃないか? 確かに、決して形態の通知欄とかを頻繫に見る趣味のないボクならともかく、それだけメッセージのやり取りを重んじる彼女なら……?

 そんな彼女が、僕から送ったメッセージを見られない状況……。

 必死に押さえ込もうとしても、邪推ばかりが心に降り注いでしまう。

 その中に現れる彼女の姿は、まさに僕と会って交わって、汗を流し、声を上げ、体を揺らし、顔を歪め、そしてまた、どこか人を食ったような笑みを、その余裕のない顔に浮かべている。

 僕ではない誰かに。

 相手が誰かは決まっていない。アングルによって室谷になることもあれば、この間見た肥えた男になることもある。会社の先輩……を想像してしまったときは吐き気を催して。

 早く。

 早く、こんな想像はやめないと。

 そう思いながらついた眠りは、およそ最低なもので。


 寝起きの気分は最悪。自己嫌悪しかできないこんな朝に限って、嫌がらせみたいによく晴れている。安アパートの窓から見えるのは、肌寒いせいか朝もやのかかったいつも通りの生活道路。

 ゴミ捨て場には猫がたむろしていて、その猫を追い払うおじさんの姿は、もう毎朝恒例だ。彼が何者なのか、そんなのは僕にはわからない。

 毎日見かけている人のことすら、僕にはよくわからないのだ。

 そんなに飲んでいなかったはずなのに二日酔いで痛む頭を押さえながら、洗面所で顔を洗う。薄暗い室内の鏡に映っているのは、やはりひどい顔だった。

「おつかれ」

 そんな言葉を吐く惨めさには、もう慣れている。

 鏡の中の歪んだ顔との付き合いだって長いんだから。


 僕の心などとは関係なく、世界は動いている。

 いくら僕の心がどんよりと曇っているとしても、目に入る景色が晴れていると、そこに多少の空しさを覚えつつも段々気持ちもそれについてくる。

 晴れた日差しの中、少しずつ青く変わっていく空の下を会社に向かって歩いているうちに今日の仕事のことへ意識は向き始め、先程まで僕の心を捕らえていたのとはまた別の憂鬱の種が差し込んできていた……。

「よし、やるか!」

 よくテレビドラマか何かである、頬を叩くシーン。

 何か大きなことを控えているときに気合を入れる自己暗示的にやられるイメージがあるが、あの行動は頬など体の一部を刺激して、アドレナリンを分泌させるためのものらしい。痛みで脳を活性化させる……というのが一応の謳い文句になってはいるが、実際のところはどうなのかわからない。

 効果はあるらしいが、実際にやってみたらただ少し痛いだけだった。

 それでも、痛みで少しだけは目が覚めたような気がしたから、それでいいと思うことにして、僕は会社に向かった。



「あれ、携帯忘れた?」

 そのことに気付いたのは出社してから数時間ほど経った頃、取引先の社員に確認をとることを思い出して電話をかけようとしていたときのことだった。そういえば、今朝居間のテーブルの上に放り出して、そのままだったかも知れない。

 いや、たぶんそうだ。

 何となく、はっきりと思い出してきた。確か、顔を洗う前にテーブルにおいて、そのままにしてきたんだ。

 社内電話からでももちろんかけられるけど、外に出なくてはいけないことも多いし、やはり携帯がないと不便だ。家が近いことと、また外回りに変えてもらうことで上司から何とか許してもらって、家に取りに戻った。


「あった……!!」

 歩いて十数分。

 走れば数分だ。

 案の定、携帯はテーブルの上で静かに置かれていて、急いで手に取ったときに突然震えた。着信らしい。

 きっと取引先の誰かだ! 確認事項の連絡を催促してきたに違いない。

「はい、大変お待たせいたしました! 飯誌真商事いいじましょうじの前島でございます! 御社からお預かりしております商材につきましては、」

「……っ、光輝こうきくん?」


 聞こえてきたのは、予想とは違う、そして少し濡れた声だった。

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