第12話 思い出すのは、片時雨の景色
真上の線路を、轟音を立てて電車が通り過ぎていく。その勢いに、決して丈夫な造りとは言えない屋台が揺れて、ついでに冷たい風も少しだけ入ってくる。
そんな中でも、
「あ、このかちゃん? 1週間ぶりくらいじゃないよ。どったの?」
そう、はっきり聞こえた。
揺れが治まって、ちょっとだけこぼれたチューハイを所々にシミの目立つ拭きながら「あー、ごめんねぇ。いっつも揺れちゃってさぁ」と苦笑いして謝ってくれている大将の言葉も耳からすぐに抜けていく。
室谷の口から出るなんて思ってなかった名前が、いとも容易く、気安く、軽々しく、漏れ聞こえてしまった。
いや、待て。
冷静に考えろ。
こんなにうるさい中で、そんなはっきり聞こえるもんか。
たぶん、聞き間違いだ。
そもそも「このか」と言ったかも怪しい。「ほのか」かも知れないし、「ここあ」かも知れない。下手したら「ともや」かも知れないじゃないか。
僕が最近会った、そう聞こえる名前を持った人が「
室谷の呼んだ名前が「このか」だとしても、それが卯月このかだとは限らない。そう自分に言い聞かせながら、それでも僕の耳と心は全く穏やかになってはくれず。
僕の記憶はあの頃へと戻っていた。
* * * * * * *
桜の花が春の雨に散らされていく日だったと思う。
『あっ、お前も
『う、うん……。よろしく、室谷』
すぐ後ろの席からかけられたそんな言葉で、僕と室谷はいわゆる友達になった。
室谷は明るくて、言動が色々ハッキリしていて、一緒にいるのがとても楽しいやつだった。
そんな室谷と、彼を経由して繋がった友人たちと過ごす毎日の中で、僕は
決して目立つような子ではなかった。
特別人目を惹くスター性を持っているわけでもなかったし、かといってクラスで孤立してしまうようなこともない、そんなうまいことクラスに溶け込んだような子。それが幣原さんだった。最初は室谷で繋がった誰かを経由して、それからしばらくすると他のクラスメイトよりも、その年の夏休みにはあっという間に、誰よりも色々信用して話し合えるくらいになっていた。
理由はわからない。きっかけもうまくは思い出せない。
もしかしたら他の女子たちとの談笑のあと疲れたような溜息をついている姿にどこか共感したからかも知れないし、他の友人に「なんか合いそうだよね~」と冷やかし半分で言われたことを真に受けたのかもしれない。
もしかしたらそんな漫画じみたありふれたきっかけなどではなく、もう少し何か特別な出来事があったのだろうか? それだったら覚えていることだろう。
ただ、覚えているのは、文化祭を控えた秋にはとっくに幣原さんのことが好きになっていて、たぶん幣原さんも同じような気持ちでいてくれていたっぽいことだった。それは確かなものだと思っておきたい。
だけど、その時期は違ったのだ。
文化祭が始まる直前、僕たちは些細なことで喧嘩してしまっていた。理由は何だっただろう……そんなことすら思い出せないくらい、些細なこと。色々知った今なら笑って流せるようなことでも、当時はそれで関係がこじれてしまうようなことだったのだろう。
逆もあるのかも知れない。当時は「冗談」で済むようなことも、今では「失礼
」になってしまうことがあるような気もする。
ちょうど、その辺りの境界が揺らいできている頃だった。
子どもとして庇護されて、責任もあまり負わずにいられた自分と、責任を負う代わりに多少の自由を得られる大人としての自分のちょうど間。あれこれ責任を問われることが増えてきて、家庭でも手のひらを返したように何事も自分で、というのを求められるようになってくる時期。
そんな頃にしてしまった些細な間違いは、きっとそんな日々で溜まりに溜まっていたストレスの爆発にもなっていたのだろう。そうして、そんな楽しみにするとかそういう次元ではない状況の中、僕はその年の文化祭を迎えることになる。
全然楽しくなくて味気もなかった文化祭。
そのあとの打ち上げが1番楽しかったなどとのたまっていたその直後に、それは起こった。起こってしまった――というべきだろうか。
室谷は、およそ躊躇というようなものをしない。その正直さ・素直さは誰からも好かれる理由だったし、僕だってそんな室谷だから好きだったのだろう。だけど、その正直さは決して優しさを持ったものではなくて。
今でも覚えているその映像。
『俺さ、幣原さんのこと好きなんだよね。付き合ってくんない?』
いつになく真剣な口調で言う室谷。彼の緊張が伝わってくる声。
『えっ、そんなこと急に言われたってさ……』
戸惑い交じりに応じる幣原さん。
『頼むよ、絶対に一緒にいて楽しいやつになるからさ!』
もう懇願と言ってもいい頼み方。もし断られたら泣きだしてしまうんじゃないかというくらいの真剣みが感じられて。きっと、それを当時の幣原さんも感じ取ったのだろう。
『……いいよ』
その声が、どこか強張っていたのはきっと、気のせいじゃない。
問題は、このやり取りを、その場にいなかった僕がきちんと知っているということ。もちろん、僕は特別そこまで2人の間を探りまわってこのことを突き止めるような行動力なんてなかった。
ただ、通話アプリのグループで共有されるページで、ビデオで流れてきたのだ。
どうやら室谷はクラスにいる数人の友達にその前々から文化祭の打ち上げ終わりに幣原さんに告白する、ということを予告していたらしい。
そんな風にして、『やった……! ありがとう!』と嬉しそうに種明かしする室谷に対する戸惑いの視線を浮かべる幣原さんの意思は完全には反映されない状況の中で、室谷と幣原さんの交際はクラス公認のものになってしまった。
何人に言われただろう、『幣原って前島と付き合うと思ってたのにねー』と。
そんな言葉に、何度心を抉られただろう。
そうなってから慌てて告白したところで、そんな薄っぺらな告白は当然受け入れてもらえなくて。
『もっと早く言ってくれてたら、よかったのかもね』
遠くの空は嘘みたいによく晴れていたのに、僕らの真上の空はひどく暗くて。僕らを叩き付ける雨は、刺すように強かった。
それが、僕たちの終わりだった……。
* * * * * * *
隣では、室谷がまだ楽しげに何事か話している。そして色々適当に話したあと、通話が切れたらしく、何事もなかったかのように携帯をポケットにしまった。
「あー、ごめんごめん。知り合いの子だったわ。何かこの後会わないかとか言われたんだけどさぁ、もちろん断ったよ。いま友達といるから無理、ってな。それがなんつーか……エロい子でな?」
言葉の最後の方はちょっと言葉を選ぼうとして結局やめたようなひそひそ声で言いながら。
「何かつまらなさそうにしてたから声かけたらさ、誘われた……って言い方はあんま好きくないんだけどな? 責任転嫁してるみたいで。でもまぁ、こっちも溜まってたっつーか、な? 据え膳食わぬは男の恥ぃ、じゃないけどさ……」
頭を殴られたような衝撃だった。
そして、しばらく無神経に続けられた男同士の話を止めたくて、僕は室谷の頭を軽く小突いた。軽く、のつもりだった。
でも思いのほか軽くなかったみたいで、「っっって!」と頭を押さえた室谷に、もう1発強く叩き返されて。今度こそは頭を殴られた。だから殴り返した。
何もかも、現実味がなかった。
現実味があったのは、騒ぎを聞きつけたのか大将が通報したのか、駆け付けた警官に双方押さえられて、酔いが覚めるまでたっぷりと注意された恥ずかしさだったり、反省文みたいのを書かされた紙の感触だったり。
「悪かった」
「あぁ、こっちこそ」
形の上だけの謝罪だったりとか。
酩酊状態で歩く家路は、とても遠く感じた。
何となく卯月さんに送ったメッセージと、少し寂しくなってかけた通話には、応答はなかった。
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