第11話 糸雨に変わりゆく…

 室谷むろやが注文した、石焼鍋がカウンターに置かれた。鍋、と言ってもテーブル席に置かれるような大きいものではなく、1人前……多く見積もっても2人前くらい?という大きさの石鍋の中で具材がグラグラと震えている。

 その様を弾けんばかりの笑顔で見つめている室谷の顔を、僕はまっすぐに見られない。

「お、どうした前島まえじま? 麺伸びちゃうぞ?」

 僕の様子も気にしてくれているのか、時々そんな風に言ってくれる室谷からは、とてもあのときのことを言い出せるような雰囲気はなかった。


 そうだ、とてもじゃないけれど、言い出すべきではない。

 言い出すには、あまりに時間が経ってしまっている。

 もし言うのなら、もっと早くに言うべきだった。せめて、同じ学年のうちに。そうしないといけないのは、何となくわかってはいるつもりだった。それでも、僕はそれすらも――声を荒げることすらできずに、僕たちは学校を卒業してしまった。

 そのまま、忘れることも何かすることもできないまま。


 室谷は相変わらず猫舌なのか、まだ熱い石鍋から箸で摘み上げた野菜一切れを食べるのに苦労しているらしい。必死にふー、ふー、と息を吹きかけながら、一口舌をつけて、「ぅあちっ!?」とまた離して。

 それを何度か繰り返してようやく摘み上げた野菜を食べて、またもう一切れ食べるという感じだ。

「室谷も、相変わらず猫舌なのにあったかいの食べたがるよな」

 思わず苦笑が漏れて、口を開く。

「ほはえも、ふっへひほ」

 言い返す室谷の声は、段々と賑やかになっていく店内でもはっきり聞こえる声だけど、たぶん『おまえも食ってみろ』と言いたかったのだろうということしかわからない。

 せっかくだからご相伴にあずかろう……そんな軽い気持ちで口に入れた白菜は確かに熱かった。室谷が猫舌なだけだろうとすっかり油断していた! すぐさまコップに手を伸ばして水を飲む。

 はぁ、はぁ、やっぱり熱いものをそのまま口に入れるのはよくないな。

 そんな小さな子どもみたいな教訓を胸に、今度こそ落ち着いて自分の前にある麺を啜る。

「どうだ、熱かったろ?」

 自分の反応が大げさなものだと思われたのがよっぽど不服だったのだろう、僕が熱がっている反応にとても嬉しそうに笑いながら同じように水を飲んでいる室谷にムキになって「別に?」と言いたくならなかったわけでもないけど、さすがにこの年齢になってそんなことをしてても恥ずかしい。

 だから、「まぁね」とだけ返して、辛い味付けの挽肉と麺を一緒に啜り込む。

 途中で付け合わせの辛味噌を足す食べ方が店のおすすめらしいけど、足さなくても十分辛い。

 でも1つ言うなら、僕は室谷ほどがぶ飲みしてないからな?という意地を張ったりしていると、本当に昔に戻ったみたいだ。

 だからだろうか。

 それとも酔いのせいだろうか。

 つい、ほとんど遠慮なんてしなかったあの頃みたいに、口火を切っていた。


「なぁ、室谷。幣原しではら 葉乃はのって覚えてる?」

「ん? あぁ、幣原さんな。どした?」


 少しずつ冷めてきたのだろう、ようやくチビチビと野菜を食べ始めた室谷が事もなげに訊いてくる。むしろ、どうしたか訊きたいのは僕の方なんだ。だって、から僕らはすっかり疎遠になってしまったんだから。

 喉がひりついて、感情が抑えられなくなる。

 あぁ、これは酔っているんだな。

 そうどこかで冷めたことを思いながら、僕は室谷に顔を寄せる。

「あのさ、室谷。もしかして、わざとか?」

「え?」

「あのとき、僕も彼女のことが好きだったんだ」

「あ、そうなんだ」

 あっさりと、軽い頷きで返されてしまった。僕としては、かなり重大な秘密を打ち明けたつもりだったのに。もちろん、今となっては少し後を引いているというくらいで、もうあの頃のような痛みは感じない。

 それでも、あの頃ほどじゃなくても、それなりに痛みを伴う記憶ではあるのに。

 何だかその軽さは、僕の気持ちそのものまで軽んじられてしまったみたいで。まるで独り相撲をしているような虚しさで、膨らんだ風船が萎むように、意気消沈してしまう。

 それでも、言ってしまった以上は引き下がれなかった。

「知らなかったのか……?」

「うーん、たぶん知らなかったんじゃない?」

「…………っ、うん、そ、そんな……、そうか」

 それ以上は、何も言えなかった。

 室谷は事なさげに黙々と石焼鍋を食べているし、意識を向けているのは隣の席に座っているカップルくらいだ。

 情けなくて、僕はラーメンを食べるペースを速めることしかできなかった……。



「そっかぁ、でも前島も幣原さんのこと好きだったなんてなぁ」

「うん……」

「なんか、なんつったらいいかわかんないけどさ。まぁ、飲もうぜ」

「そうだな……」

 結局、室谷が僕の気持ちを察したのは店を出てしばらく経った頃で、その頃には少しひんやりとした夜風に僕の気持ちも冷やされていて、今は室谷が通勤で使っているらしい駅の高架下にある屋台で串おでんを食べているところだった。

 2人並んで座っていると少し狭くも感じる座席。暖色の照明に照らされた空間で肩を並べていると、何故か気持ちが落ち着いてくるように感じた。


 いくら当時はつらく苦しいことだったとしても、もう過去のことだ。

 室谷のこの態度のおかげでそれを思い知ることができたような気がする。

「いやさ……卒業した後すぐに、幣原さんとは別れちゃってさ。何か、色々ごめんって言われたっけな。あーもう、思い出して泣きそうなんだけど!」

「で、その後は?」

「知らんー。あー、ちょっともう1杯飲むわ」

 そう言ってチューハイを屋台の大将に頼む室谷の姿を何だか微笑ましいような気持ちで見ていたときだった。


 ブー ブー


 室谷の携帯が、点滅とともに震えた。

「おっ、室谷。なんか来てるみたいよ? 出た方がいいんじゃない?」

「んあ~? 後にしとけよそんなん」

「いや、ずっと鳴ってるし」

「ったくよ~、誰だよもう~」

 舌打ちをしながら出ても、通話状態にするときには「はい、こちら室谷」とビジネス口調に変わるあたりに相変わらずの器用さを感じていると、その単語は耳に飛び込んできた。


「あ、このかちゃん? 1週間ぶりくらいじゃないよ。どしたの?」


 すっかり過敏になった耳に、電車の通り過ぎる音はあまりにうるさかった。

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