第10話 驟雨はまだ耳に残って

「何かさ、こうやって会うの久々じゃね? ちょっと飲み行こうよ!」

 明るい――無邪気ともとれる笑顔は相変わらずな僕の――室谷むろやは、たった今出会ったばかりの僕の手を引き、夕方の賑わいを見せ始めた大通りをズンズン歩いていく。

 一応人にぶつからないように気を付けてはいるけれど、それでもカバンがどこかに引っかかったりしてしまっている。嫌な顔されてるんだろうなぁ……そんなことを思って振り返る間もなく、室谷に手を引かれるままに人混みを抜ける。

「ちょっ、待って、待ってって室谷!」

「え~? だって前島まえじまってなんか完全に前が空くまで待っちゃいそうじゃん。それってすっげぇ損した気分っていうかさ、何かない、そういうの?」

 明るい笑顔でそう言ってのける室谷は、やっぱり昔と変わらない。 

 そのことに多少の懐かしさと、それと同時に思い起こされる『過去』に、僕は思わず一瞬目を伏せてから、「それもそうだな」と室谷に向き直った。

 思い出したくないことを、つい思い出してしまいながら。


「っくぅ~~~、うまい! たまに食うと株もうまいなぁ! なっ、前島!」

「うん、おいしい……」

 暖かい店内、そして温かい料理。

 寒くなってきたこの時期にありがたいことこのうえない取り合わせだった。

 室谷に連れられて入ったのは、どこにでもある何の変哲もない大衆酒場。ついさっき開店したばかりだったらしく、僕たち2人がカウンター席に通されたすぐ後にぞろぞろと来店者が訪れていた。運が良かったらしい……。

「な、言った通りだったろ?」

「ん?」

 適度な大きさに切られた株から溢れ出る煮汁の味に舌鼓を打っていると、隣からそんな声をかけられて。振り向くと、室谷が得意げな笑みで僕のことを見ていた。

「やっぱりあの人込みで待っちゃうとさ。ほら、外見てみろよ」

 もう少し酔っているらしい、ほんのり赤らんだ顔で話している室谷はまるで何か世紀の大発見でも成し遂げたのかも知れないと思える態度だ。

 でも、確かにそうだ。


 僕たちが入店してからまだ数分しか経っていないのに、店の外ではもう入りきらなかった来客たちが行列をなしている。その様子を見ながら、室谷は「大変だよな~」と他人事っぽく笑っている。

 今も、あの頃と変わらないのだろう。

 躊躇をしない。

 迷わない。

 立ち止まらない。

 即断即決。

 自分に正直。

 周りからもそう言われていたし、本人も「嘘が嫌い」という言葉の通り、いつもそんな風にして生きているように僕には見えていた。もちろん、それは僕の知っている範囲の室谷でしかない。

 だから、僕には彼のこの性格について深く語ることはできない。

 それでも、僕はわかっている。


 あのとき、躊躇してしまった僕は室谷によって、奪われてしまったものがある。そんな言い方は正しくないことくらい、わかっている。わかっているけれど、それを受け入れるのに僕はかなりの時間を要してしまった。

「室谷ってこの近くで働いてたのか? 全然会わなかったな……」

「あぁ、だってオレ今日は仕事溜まっちゃっててさ。いくら出退勤自由ったって、仕事溜めてて早帰りなんてできないだろ?」

「あぁ、なるほどね」

 何ということだ、珍しくいい気分で仕事をできて、いつもよりも早く仕事を片付けて帰れたと思っているこの時間は、室谷にとってはいつもより少し遅くなってしまった時間らしい。

「部下の尻拭い……じゃないけど、ミスしたらフォローもしなきゃだしさ。何かこの年齢としになると、お互い大変だよな」

 ふぅ……と何だかじみた深い息をついて、グラスに注がれたビールをぐい、と呷る室谷に、思わず噴き出してしまう。「あー、笑ったなお前~」と少し不服そうな姿も何だか笑えて、だから。

 やっぱり、あの頃のことが蘇ってしまう。

 あの頃みたいに笑い合っていると、尚更。

「つーか、その曖昧に笑って誤魔化すみたいなとこ、昔から変わんねぇぞ?」

「ははは……」

「ほらそういうの~」

 あの頃みたいにむくれているその顔に、つい問いかけたくなる。


 なぁ、室谷。覚えてるか?


 思わず口を突いて出そうになった言葉は、しかし楽しそうに出てくる料理を食べえている姿と、そろそろ10年ぶりくらいになろうかという再会をがあってもなお嬉しく思ってしまう単純さにあっさり立ち消えた。

 少なくとも、もうあのことは過去だ。

 遠くに過ぎ去った出来事なんだ。

 そう思いたくて、目の前に出されたラーメンを啜る。濃厚だけど決して脂っこくないスープが弾力のある麺に絡まって、とてもおいしい。部外秘というのも頷ける独特の味付け。口に入れた瞬間の濃厚さ、そして後から来る辛味がその感覚をスッと変えていく。

 室谷が話すのは、今やっている仕事の愚痴が多い。部下があまりにも自分で考えなさ過ぎるとか、注意をし過ぎると拗ねて何もしなくなって困るとか。少なくとも、ぺーぺーもいいところな僕にはあまり縁のない話が多かった。

 たぶん室谷も、久しぶりに会った旧友――僕と話がしたいだけなのだろう。少なくとも、言っている口調だとか顔つきだとかも、何だか楽しそうだ。

 だから、目の前の現実――お互い社会人になって、新しい人間関係の中で様々な鬱憤を抱えている中での生活――に意識を向けるようにして、僕は麺を啜る。

 僕も、色々話した。

 上司がやたら「管理する側」という立場を主張して仕事を部下任せにしたがるとか、まぁ結局は室谷が言っていたようなこと。

 と。


「前島って昔から麺類好きだよな~。文化祭の打ち上げとかもさ、確か焼肉屋で麺頼んだんだぜ? みんな笑っててさ~」


 いきなり、強く頭を殴られたような気がした。

 痛んだのは、錯覚した頭だったのか、それとも不意の刺激に対応しきれなかった心だろうか? 心臓が、早鐘を打つ。


 あの日聞いた言葉。

 それまでにも同じような天気の中、傘の下で交わした会話は何度か雨に紛れてしまっていたのに。それを都合よく聞き違えて、都合よくに似た形に身を任せていられたのに。

 それも許してくれないほどに、はっきりと聞こえてしまった言葉。


『もう少し早く言ってくれてたら、よかったのにね』


 そんな言葉だけが、激しい雨の中なのにはっきり聞こえてしまって。その言葉と、彼女が流した静かな涙に、僕は何も言えなくて。

 室谷。

 君が笑いながら話してるその文化祭のすぐ後なんだよ、君の迷いのなさが、僕の日々を壊してしまったのは。悪意もなく、ただ正直な気持ちで。


 厨房から聞こえてくる食材の焼けていく音が、まるで激しい雨のようにも聞こえて。室谷の笑い声と、それに合わせようとする僕自身のぎこちない笑い声に、心を掻き乱された。

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